ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

若園清太郎が語る坂口安吾

 1976年に(株)昭和出版から出された、若園清太郎 著「わが坂口安吾」には、坂口安吾を中心として、安吾に関係のあった文士達の姿が、当時バルザックの研究家であり、多くの文士達と交遊のあった若園清太郎が親交を思い出しまとめた本です。以下、『』内の文章は、左記の本からの引用になります。坂口安吾の研究の一助になれば幸いです。

 


『太平洋戦争勃発直前の昭和十六年十一月末のこと、私は坂口安吾にすすめられて宇野千代さん宅を訪問したことがある。私のバルザック研究書が二冊そろって上梓されて間もなくのことで、安吾はその本をもって宇野さんに敬意を表してくるとよいという。
 そのころ、日本は狂熱的な軍国調で、~中略~デカダンアウトサイダー的な坂口文学は全く不遇だった。原稿料の収入も少なく、生活費は蒲田の家兄に依存していたから心配はなかったものの、彼は野放図な浪費家で、たまに入る原稿料を一夜で散じてしまうのはザラだった。徹底した放埒無頼の生活だった。
 このような坂口安吾であったが、その最もよき理解者は宇野千代さんだった。宇野さんは、雑誌『スタイル』の外に、文芸雑誌『文体』を発行しており、坂口安吾にもよく書かせた。彼の旧作をまとめて『炉辺夜話集』、『日本文化私観』などを出版したりして、彼への援助、激励の労をおしまなかった。
 宇野さんは北野武夫と結婚して間もなくのことで、その新居を小石川の大塚仲町近くに構えていた。私は宇野さんに新著を贈呈し、文学の話などの雑談をした。話がたまたま、坂口安吾のことにふれた時、宇野さんは、
「あなたは坂口さんの旧いお友達でしょう、アテネ・フランセにもいらっしゃったから、お嬢さんたちをたくさん御存じでしょう。どなたか、紹介しておあげになったら……」という。
 私は、ちょっと返答に窮した。「さあ、坂口君の好きなタイプの女性なんて、なかなか彼の好みにあうような女(ひと)は……」と言葉を濁した。
 宇野さんは、暫く首をかしげていたが、
「そうね、安吾さんのお嫁さんになんて……まるで人身御供に立てるようなものだわ」といって微苦笑するのだった。
 さすがに宇野さんは適切なことをいう人だと私は感心しながら、宇野・北原邸を辞した。~中略~ これは坂口安吾が三十五歳の時である。』


宇野千代の言葉にさすが、宇野さんだと深く感じ入るあたり若園清太郎氏がいかに安吾に翻弄され、悩まされたのかがにじむ文章ですね。
次にご紹介する内容は、安吾アテネ・フランセに通っていた当時、皆で同人雑誌「言葉」を刊行することになったのですが、同級生に芥川龍之介の甥である葛巻義敏氏がいたことから、故芥川龍之介家の二階にある葛巻義敏氏の部屋で編集会議をした時のことです。


『編集会議は坂口家でするよりも、地理的に集まるのに便利だった帰宅田端町(当時は滝野川区田端町と呼称)の故芥川龍之介家の二階にある葛巻義敏の部屋でも行なわれた。南窓と東窓がある明るい部屋で、青い絨毯が敷かれてあった。(安吾はこの部屋のことを小説「青い絨毯」のなかで克明に描写しているので省略する。)
 この青い絨毯の部屋は私にも印象が深い。~中略~それは安吾が「青い絨毯」のなかで「……この部屋には違い棚の下にガス管があり、叔父(芥川のこと)がこのガス管をくわえて死にかけていたことがあってネと葛巻が言っていたが……」と書いているが、私もまた葛巻から聞いていたので、この部屋に入るたびに、そのガス管のコックが気になった。窓の外から庭を眺めおろしていると、庭に植えられた大きな木に、芥川龍之介の長男だった比呂志君(当時十歳ぐらい)と次男の多加志君(当時七歳ぐらい=戦時中に戦死)が木のぼりをして遊んでいた。
 葛巻は二人の兄弟の木登りを眺めて、「芥川も自殺した(昭和二年七月二十三日)年の春ごろから、ちょっと様子がおかしく、あの樹に登ることが時どきあった……」』


 このコラムを読んでいる方にとって、安吾が故芥川龍之介のお宅を訪ねて、同人雑誌の編集会議をしていたのは意外だったのではないでしょうか?人との繋がりの不思議さを感じますね。

 安吾アテネ・フランセ在学時、「言葉」を創刊しますが、二号まで出したところで、きだみのるの口添えで岩波書店から「青い馬」と改題した上で発刊することになりました。ちなみに、安吾はこの時の事を、葛巻氏が芥川氏の著作権をタテにとり、圧力をかけて岩波に承諾させたと「世に出るまで」に書いておりますが、正しくはきだみのるが岩波と交渉しまとめた案件だそうです。


『さて、『青い馬』創刊号は颯爽と世に出た。~中略~岩波書店発行ということが注目された。坂口安吾は創刊号で「ふるさとに寄する讃歌」を発表し、第二号に「風博士」を書いて牧野信一に認められた。認められたというより、溺愛されたといっても過言ではない。これ以後、安吾は高輪に住む牧野信一の家に足繁く出入りし、師事するようになったが、続いて第三号に「黒谷村」を書いて、牧野信一ばかりでなく、多くの文壇人から激賞され、間もなく、『文藝春秋』に「海の霧」を書いた。』
 ~中略~
 安吾牧野信一に師事した、そのころ彼と会うと牧野信一のことが必ず口から飛びだすほどだった。当時の牧野信一安吾のことをよく知っていた河上徹太郎は、「坂口安吾追悼」(『文藝』四月号)のなかで次のように語っている。
 「彼と牧野信一との出会いは、美しい文学的事件であった。私はどっちが先に近づいたのか知らないが、あるとき牧野さんが安吾の『風博士』という作品を美しい文章だといって口を極めて激賞していると、いつの間にか安吾がいつも数人の青年と牧野家の茶の間の酒宴の常連になっていた。牧野家の清貧のうちにも酒に濁った家庭生活は、大正時代の文士のこの種のデカダンス最後の王者の称号を唱え得るものだと私は思うのだが、安吾の無一物のうちに放浪する生活振りは、気質的にもこの家風によく合う筈のものである。然し二人が結ばれたのは、そんな性格的な親近さよりも、文学的な認め合いからなのである。それも、まるで二人の文章の中に流れる血液が本能的に牽引し合うといった形のものであった。私はこんな純粋な、殆ど肉体的とも形容し得る文学による人間の結びつきを、外の如何なる文士間の交わりの中にも知らない。」』


 安吾牧野信一との仲睦まじい様子が、河上徹太郎氏にとっては非常に美しい交流を響かせているように見えたのでしょう。河上氏のこの文章も清々しく美しい音色を奏でていますね。


『昭和九年一月元旦、安吾の旧友、中島萃(あつむ)が狂死した。長島は『言葉』および『青い馬』以来の文学友だちの一人であった。安吾にとって長島は文学上のライバルであり、安吾の青春時代、精神史の数頁をいろどった人物といっても過言ではない。~中略~葬儀は翌二日に自宅で行われたが、『言葉』同人のうち数人が参列した。松の内が過ぎて間もなく安吾からハガキが来て、「長島の遺品(蔵書)を『言葉』の同人たちに形見わけするので次の日曜日の午後一時に長島家に参集されたし……」と通知があったので数人が集った。~中略~私がもらったものは、フロイト精神分析書『レオナルド・ダヴィンチ』、ヴァレリー詩集他三冊であった。家に帰って、その五冊の原書をパラパラとひもといていると、フロイトの本の裏表紙の余白に次のようなエンピツで書かれた落書きがあった。
 「安吾はエニグムではない」、「安吾は死を怖れている。然し彼は、知識は結び目を解くのでなしに、結び目をつくるものだと自覚しているから」、「苦悩は食慾ではないのだよ、安吾よ」とあった。数日後、私は蒲田矢口町の安吾の家を訪ね、この落書き付きのフロイトの本を彼に進呈した。安吾はこの落書きを見て「まったく意味が分らない」としきりに呟いていた。
 長島が本に落書したこれらの言葉は、安吾を相当に悩ませ、《解けぬ謎》として永らく安吾の脳裏に刻みこまれていたためか、後年、「暗い青春」(昭和二十二年六月『潮流』)のなかでも、このことを回想して書いている。
 そして、私はこの落書した本を安吾に渡したことを後悔することが、たびたびであった。』


 肉体が強く生き生きとしていた安吾に、暗く死の影を背負った長島氏がお互い若さ故に強く絡み合い、いかに心に影を落としたのかが分かりますね。

 

坂口安吾中原中也に関した刊行物のなかに、「『紀元』は坂口安吾の主宰による同人雑誌」と注釈されているが、これは大きな間違いで、同誌は経営もふくめた編集同人制をとり、この責任ある仕事は山沢種樹、隠岐和一、若園清太郎の三人が主として担当した。』


 どうやら、若園清太郎氏がこの「わが坂口安吾」を出版しようと考えた一端を垣間見たように感じました。確かに、ご自分が一生懸命やっていたことを、仲が良かったとはいえ坂口安吾に評価がいくのは腹が立ってしょうがなかったと思います。


『昭和十一年一月になってからの気候は異常な寒波に見舞われ、しばしば雪の日が続き、安吾はその寒さに参った。というのは、安吾は火鉢で暖をとることができない性分で、これは学生時代にしめきった部屋で火鉢に炭火を長時間もやし、部屋の換気をしなかったため、一酸化炭素に中毒し、かなりひどい症状になった。それ以来、火鉢を使わず厚い綿の入った丹前にくるまって寒さをしのぐ習慣がついていた。(この習慣はかなり永く続き、彼の晩年まで後遺症となっていた。だから彼は冬に他所(よそ)の家を訪問したり、あるいは何かの会合で料理屋の座敷に長時間いたりすることが苦手だった。私が麹町番町に住んでいた時、彼はたびたび訪れ、泊っていったが、安吾の炭火嫌いを知っていた私たち夫婦は、安吾が寝る部屋には火鉢を置かず、私が使っていた丹前と毛布を用意しておくとそれにクルマって、眠る前に本を読んだり原稿を書いていたりなどしていた。)』


 坂口安吾は、どてらを愛用していたことで有名ですが、実はこういった理由から冬は丹前(別名・どてら)を着用しておりました。はんてんより着丈が長く、当時においては冬の寒さを乗り切るための必需品の一つでした。
 また、若園清太郎氏による安吾の炭火嫌いは別のページにも詳細に記してあります。後年、炭火嫌いから冬の寒さをしのぐためにむちゃをした事が分かります。以下、下記の出来事は昭和二十四年の冬、安吾はこの時、四十三歳でした。


『昭和三十年頃からはガス暖房器、電気コタツ等が普及して、今やどの家々でも暖かいが、昭和二十四年ごろといえば未だに暖房器具は実用化に至らず、諸物資が不足していて、室内暖房どころではなく、火鉢に炭火、炭火を入れたコタツが唯一のものだった。
 安吾は炭火が大キライである。二十歳ごろ閉めきった部屋で、炭火による一酸化炭素中毒にやられて以来、彼は炭火恐怖症になっていた。
 寒さを凌ぐために、彼はアルコール類を飲み続け、例によって睡眠薬覚醒剤を多量に飲んだ。』


 あの時代に炭火を使わない暖房器具が普及していたら、安吾も冬の寒さに耐えるために、ここまで無茶な事はしなかったのではないかと考えると、胸が詰まる思いが致します。彼が生きるためにとった手段が、逆に彼の人生を短くしてしまった事。それが現代の我々には、容易に分かるだけに切なくなりますね。
 また、安吾の飲酒については若園清太郎は下記のように書いています。


終戦になってから安吾をよろこばせたのは、たとえヤミ酒とはいえ、メチール・アルコール混入の危険はあったが、カストリ焼酎や得体の知れぬウィスキーが飲めることだった。武田麟太郎がメチール・アルコール入りのヤミ酒で亡くなったことを知って、「武麟さんは残念なことだった。俺のメチール・アルコール鑑定法を知っておればね」と残念がるのだった。「アルコール類を飲む時はね、利(きき)酒の要領で、ちょっと口にふくませ、舌を巻いて口の中の上アゴでなでてみるんだ。ぬるりとする感触があれば危い。サラリとした感触なら絶対大丈夫!」というのが彼の鑑定法だった。』


 終戦になり、少ない物資でいかに楽しく生きようかとする安吾の心持ちが明るいエピソードですね。現代では当たり前とされる娯楽も無く、誰しもが精一杯だった時代に、お酒一つでスリルを楽しんでいたようです。

 

安吾は「堕落論」を書きあげると、続いて『新潮』に「白痴」を発表したが、これまた大評判になり、文字通り流行作家となり注文が殺到した。
 彼が作品つくりの秘密は、常日頃、思いついた小説のテーマや筋書その他メモ書等を丹念に記しておいて、あとで個々別々にまとめ、推敲して清書してゆくという仕方であった。戦争末期になって作品が発表できなくなってからは、それらノートに書きためた厖大な量があり、多くの覚書ノートを焼き捨てたとはいえ、手許にとっておいたものもあり、注文が来れば、ノートを生理して清書すればよかったのだが、しかし、多くの注文が殺到しては、速筆家の安吾といえどもテンテコマイである。』


 安吾の当時としては大変な速筆ぶりの影には、こういった秘密があったのですね。参考までに、当時の安吾の仕事振りが掲載されていましたので、こちらも引用しておきます。


『さて、安吾は「堕落論」によって流行作家になり、それ以後、凄まじい筆力ぶりを発揮するのであるが、参考までに、この昭和二十一年(四十一歳)における作品活動を次に掲げてみる。
   近代文学(創刊号)一月号 わが血を追う人々
   早稲田文学 三月号 わが文学の故郷
   新  潮 四月号 堕落論
     〃   五月号 堕落論(続)
     〃   六月号 白痴
     〃   六月号 教祖の文学
   中央公論 七月号 外套と青空
   文藝春秋 九月号 女体
   人  間  九月号 欲望について
   新小説  十月号  いづこへ
   新 潮  十月号 デカダン文学論
   光     十一月号 石の思い
   早稲田文学 十月号 足のない男と首のない男
   新   生  十二月号 戦争と一人の女』


 一ヶ月に2~3本は締め切りがありそうな仕事振りですね。他にも、この仕事振りに通じる気づきを若園清太郎はこのように書き記しています。


『いつか、安吾尾崎一雄のことについて次のようになことを私に言ったことがある。
 「尾崎と話す時は余程、気をつけて話をしないと彼はこちらがいったことをそのまま小説や随筆にして書いてしまうんだ。彼は《骨の髄まで》私小説作家だな」とアキレ顔にいったことがあるが、そういう安吾自身も、尾崎一雄に似たところがあり、「オレは日記などというものはつけていない」とは言っていたが、しかし、自由日記風に、あるいは丹念に覚え書きノートをつけていたのではなかろうか。それは、私が時折り彼の仕事部屋で碁や将棋をしていた時、安吾が長考している間に、私が何となしに乱雑に机の周辺に置かれた本や数冊のノート・ブックや書き綴られた原稿用紙の束などを眺めていると、一見乱雑に見えるが、その実、碁の布石に似て、彼の創作ノートには《整然とメモが綴られていた》と私は考えられた。』


また、流行作家になった安吾に注文依頼が殺到し、断るだけでもかなりの時間を要するようになりました。そのため、有名になったはいいものの安吾の生活が段々荒れ始めてきた事を書いています。


『このごろから、安吾の日常生活は彼の仕事部屋さながらに、支離滅裂になり始めた。玄関の扉に「執筆中につき面会はご遠慮下さい」の張紙をしておいてもムダであった。
 面会者の来襲をさけて、家から雲がくれして《隠れ巣》へ行くと、そこにはすでに先廻りした面会者が待ちうけていることがしばしばであった。「オレも忍術の心得が多少あるが、オレより上手がいるものだね……」と苦笑するのだった。』


 何とも安吾らしい、ユニークな言葉でしょうか。
 では、長くなりましたが、最後までおつき合い下さった皆様方、ありがとうございました!