ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

杉山平一が語る織田作之助

 杉山平一は織田作之助の親友であり詩人だった方です。杉山氏は大学に在学中、三好達治に詩才を認められ「四季」に参加。他にも織田作之助と共に同人雑誌を出したり、中原中也の恋人であった長谷川泰子の夫君が設立した、当時の中原中也賞を貰ったりしています。(現在の中原中也賞は、記念館主催の賞であり杉山氏が貰った賞とは主催元が違います。)
 以下、下記の『』内の文章は六月社書房より1971年に限定500部で発刊された「織田作之助研究」から現代語訳した上での引用になります。織田作之助の研究の一助になれば幸いです。

 


織田作之助について
          杉山 平一


 織田はセガール・フランクが好きで、そのピアノ五重奏についてよく私に話してきかせた。「夫婦善哉」というような小説が出て、織田について論をなす人が出てきたが、織田という人物に会って、その近代的な憂愁の表情や清潔な感覚を意外とした人がいるようだ。人は彼を少し思いちがえていると思う。
 織田は随分、ほうぼうの人から叩かれた。出る杭は打たれるたとえで、それだけ問題とせざるを得ないのだと思われ、また織田自身を非常に強くするので、私はそう不愉快でなく、それを見ている。公式的に否定するには、時局柄手頃と見えて、かけ出しなど盛に彼を材料に用いる。
 新人が旧人に悪くいわれるのは、本来の意味からいってそうあるべきなのだが、織田の場合、既成の追従だといって叩くのである。新人らしからぬといって、叱るのである。
 この間違いを釈明しつつ、私の彼に対する感想を書いて見ようと思う。
 新人というものが、泡のように浮び上ってくるものとする。旧人は、「後世おそるべし、いずくんぞ来者の今に如かざるを知らんや」といいつつも、新人を期待するのに、新人とはかくかくのもの、かくあるべし、その位置まで、予想して待っているのである。このあたりにもし泡が浮んでくれば、それこそ新人の名に価いするなぞと考えている。織田は意外にその見えない背後のところにぽっかり浮んできたようなものだ。私は新人とは、いつも旧人の待ち設けていないところに、独自の面がまえをもって出てくるものだと思っている。これは新人に限らない。
 自分たちいま漸く二十代を終えた年頃の世代は、一つの時代が退潮しはじめ満州事変によって次の時代が来ようとしていた転換混沌のなかに青春を過したのであった。その多くはいま戦野にあるけれども、そして彼らはよく知っている筈だが極めて無理想の、しかもその無理想を標榜するデカダンスでさえなかったようなぐうたらな思想的に廃頽の時代にあったと思う。理想や空想をもたず何事も実際的に考えた。夢なんてもたなかった。
 従ってこの時代に青春を過したものには、非常に歪んだ形で、地につかぬ恰好で、身体をねじまげてでも、なんとか思想的であろううと難解な表明さをとるものと、反対に全然現実的な具体的な表明をとって、抽象される思想を軽蔑してしまって信じ得ないものとの二つの型がある。多くが戦野にあり、奔流のように新しい時代がおそって来たために、この世代の気持というものが人から忘れられてしまっている。
 織田はこの後者の型にぞくする典型であり、思想にかわるものとして具体をぶちまけて行く。その故に、この年頃のものにとって非常に気持のわかるところがあるのだ。そのテクニックの部分がたちまち題材の関係で旧人の代表的な作品を連想させたため、彼の特質とするところが見失われたのである。』

 

 織田作之助の親友であった杉山平一の「織田作之助について」を受けて、織田自身は、この文章に対する回答として随筆「杉山平一について」を残しています。織田の随筆は、現在青空文庫に多く収載されていますが、この杉山氏についての随筆は未収録です。ですが、昨今の文豪ブームでもしかしたら心ある方がボランティアで入力して青空文庫に掲載して下さるかもしれませんね。
 また、織田が書いた「杉山平一について」には「プラネタリュウム的世界」という表現が登場します。織田は随筆「大阪の詩情」の中で「プラネタリュウム」という章を設け、当時のプラネタリウムについて短いながら詩情豊かな文章を書き残しております。こちらも青空文庫には未収載ではありますが、図書館で織田作之助全集が置いてある地域の方は、お手にとって読んでみて下さい。織田の当時における深い感動が伝わってくると思います。

 

『彼はまず自分の作品に夥しい数字をばらまく。長篇「二十歳」の最後の十行などはこうである。豹一という主人公の気持のたかまりを数字で刻んで行く。
「八十一、八十二、八十三、……」
「らっしゃいませ」
「珈琲ワン」
「ありがとうございます」
「テイワン」
喧騒のなかで、豹一の声は不気味に震えていた。
「八十四、八十五、八十六……」
色電球の光に赤く染められた、濠々たる煙草のけむりの中で、豹一の眼は悲しいまでに白く光っていた。
「八十七、八十八、八十九……」(終)
 まるで祈祷のように数字にすがりついている。僕らの信じることの出来るのはそういうはっきりしたものだけなのだ、と。
「放浪」の文吉という男の自殺する過程は金銭の数字をもって描かれる。三十円貰ってそれで魔がさしてうなぎをたべ、活動を見、二十六円八十銭になり、それが十六円十六銭になり、十一円十六銭になり、下駄をかったり鳥打帽を買ったりして一円六十銭が一円十銭になり、うどんをたべて九十二銭になり、ついに天王寺公園で、十銭白銅四枚と一銭銅貨二枚にぎって毒を飲む。数字に説明させようとしているのだ。
 二十銭の木賃宿へ泊ったとか、コーヒーが一銭高くなっていたとか、銭勘定によって彼らの行動の意味と位置を示そうとしている。
「二十銭」の野崎という学生の青春の彷徨も、つねに財布の中の三十銭を以ていかに自分をたのしませようかという風な数字による対決をせまられている。
 また「雪の夜」の坂田という主人公が、自分の家へ帰るところを「五町行き、ゆで玉子屋の二階が見えた」という風に書いている。ところが、この五町というのは、別に意味があるわけではない。金銭であろうと、距離であろうと、年月日であろうと、これは正確ならんためのものでない。もとよりリアリスティックならんがための数字ではない。
 これらは、思想にかわるものとして、最も強力な実際的なものとしての数字によって対抗しようとしたものである。 
 従って場所のごときも、昔々あるところにという表明をとることがない。強力な思想が失われているところでは、丁度、坊さんの説教のように、実際の例話によって武装してひきずって行くようなものである。織田作之助は、もの凄いまでにこの具体をもって、作品の隙を埋めて行く。
 谷町何丁目のどこそこの交差点から西へ二つ目の筋の何軒目という風に嘘と思うならついて来いという風に読者を連れて廻る。具体から抽象されて思想が発生するように、これが甚しく空想を刺激して行く。それは思想的であろうとするものよりも、より大きく心情をひろげることがある。』

 

 織田作之助の全集には、杉山平一宛の書簡が掲載されており、「夫婦善哉」が発刊された当時の状況や二人が参加していた同人雑誌「海風」についての様子が伝わってきます。終始、清明で真摯な内容の手紙類は、小説や随筆だけでしか織田作之助を知らない方にとっては、意外なほど彼を紳士に感じるかもしれません。
 また、これらの手紙には戦時下にあって織田の本が発禁されてしまう苦しい旨も記述されて、当時の彼の苦労が偲ばれます。

 

『しかしながら彼は、これらの具体的な夥しい道具立を、一つの筋書に配列するのではない。それら道具立のしゃべるままに積み重ねて行くように見える。彼の道具のうちで、最も際立って輝いているのは、その種々の商売であろう。商売を並べるために主人公たちは転変の運命をたどるごとくである。彼にとって人の運命とは職業の転変の謂である。
夫婦善哉」の一銭天ぷら屋、ヤトナ、剃刀屋、関東煮屋、カフェ、「放浪」の呉服屋「まからん屋」料理屋の「丸亀」、美人画売、古本屋、寿司屋、「俗臭」の露天商人、寿司屋、名雲炙、紙屑屋、古電球屋、古鉄屋、「雨」の小学教員、浄瑠璃写本師、「探し人」の歯ぶらし屋、写真館、仏壇屋、うどん屋、大道易者、「二十歳」の浄るり写本師、酒屋、薬屋、万年筆屋、金融野瀬商会、「家風」の氷屋、「美談」の風呂焚、「立志伝」の俥屋、うどん屋、丁稚、古着屋、火夫、曲芸師、等々、しかも二度三度出てくる同じ商売があり、織田の世界というものがよくわかるのだが、そして、彼の自分の世界に対する潔癖を見ることができる。「わが町」はこの商売の総ざらえをやっていて、彼の世界を一望に見る思いがする。落語家、薬局、散髪屋、相場師、羅宇しかえ屋、写真館、剃刀屋、夕刊配達、うどんの玉屋、電話消毒婦、タクシー案内嬢、関東煮屋、潜水業、運送便利屋等々……である。
 あれは誰だ。という問いに対する答えでも「蝙蝠傘の骨を修繕してはった人の息子さんや」(わが町)という風に、具体的な商売の系譜によって説明され表明されている。
「動物集」は彼の秀作であるが、彼が人の生活を、いかに商売によって描き浮び上らせるかを示す好見本である。一寸法師でさえが如何にして喰っているかを見ている。映画に出演し、呉服屋の店先に利用され、旅行会の受付をし、土佐犬の散歩係に傭われていたというのである。同じく、質屋へ通うのに出前持の箱を用いたため繁昌したという話を並べている。彼にとっては、この商売道具がまじないのようにあがめられているという点で、象徴的である。「家風」という短篇も一途にこの商売を一本につきつめた故に、秀作となっている。
「動物集」の最後に、猫の蚤ををとる商売を本で読んで、如何に儲りそうに空想して、またそのように書いて、やってみたら一銭にもならなかった。というのがあるが、右にあげた織田の全商売に対する意見、自嘲を見るように思う。如何にして儲り、如何にして貯め、如何にして使ったか。という楽しさを楽しんでいるのであって、この、具体から、ただちに、織田は大阪の性格を描くというのは早合点であると思われる。大阪ほど実際的な実用的な性格の持主はないのだから。
 彼は町の描写でも風景なぞ描かぬ。商売を並べて行く。主人公達は如何にして働くか。どの商売で喰って行くかという努力によって運が開展して行く。一人だって遊んでいない。一々の挿話に彼はこだわらぬ。とらわれぬ。次々の商売の成行の方が大切なのだ。』

 

 織田作之助にとって、8月6、7日は忘れがたい日です。織田が妻の一枝を亡くしたのは、8月6日で夜に入ってから台風が直撃。葬儀は7日に営まれ、風雨の激しい中、出棺されました。この事は、織田の日記に詳しく書いてあります。織田は涙を流し日記に於いて「妻なし子なしやるせなし」と綴りました。

 

『「わが町」の主人公ベンゲットの他吉に口ぐせのようにいう「人間は働くために生れてきたのや」「人間は身体を責めて働かな嘘や」「文句いわずにただもうせえだい働いたらええのや」どの主人公もそうだ。一人としてえらくなろうとか、幸福になろうとか、理想につかれるという者がいない。ただ自分の現在を見ている。
 従って、主人公は商売の間を発展しない。商売は羅列的である。主人公達はその間に漂って行く。明治や大正や昭和のうつり行きはあるけれども、それは歴史的ではない。やはりあくまでも地理的なひろがりをもって印象される。
 第二の短篇集の表題が「漂流」であるが、よくその間の性格を示している。「雨」の主人公、「二十歳」の主人公「お君という女はよく性格が出ていると思うが、彼女の口癖は「私でっか、私は如何でもよろしおま」である。彼女の運命をひっくりかえすようなときでも、この言葉で逃げてしまう。「天衣無縫」の主人公でも「二十歳」の野崎でも、何か周囲に身をまかせてずるずるずるずる引きずられ漂って行く。
 しかもこれが織田の一種の自虐であることがよくわかるのである。潜水業や俥屋のような仕事に彼が並々ならぬ意気込を示すのも、自分をいじめるようなところ、それに耐えるところが気にいるのだと思う。「わが町」は「自らを責めて働かな嘘や」という他吉という主人公と作者の世界観とが不即不離の関係にあって、切々と打つところがある。
 彼が主人公達を可愛がらぬ、いじめ抜くことは、目標を失っていた、その年代の内攻性の然らしむところであるが、その故に自分はいつも、呑気なユーモラスな情景などには余計一つの哀傷を感じ、読みとるのである。「わが町」で一年生の入学式に名前を呼ばれて返事するくだりなどもそうである。「許嫁」はその面をよく出した好短篇である。お芳という女中が良いなずめの死を弔いに行って暗い露路へ出て行くまで、さりげないが哀しい。
 「西鶴新論」というのは、西鶴に対する意見としても、織田の文学観を表明するものとして非常に面白いものであるが、その中でスタンダアルを「何事も信じない人」とし、西鶴になぞらえているが、そして自らになぞらえていると読めるのだが、この僕達の世代をとらえていた、かかる気持は、彼の文学そのものと同じく、主張されてはならないと思う。無思想という思想があるではないかという「主張」は自己撞着におちるのだから。
 その世代は溺れない、酔ったりできない世代であった。彼が潔癖に具体的な数字や地理で規定して行こうとする気持はこの意味からいってもよくわかるのである。「わが町」の婚期のおくれた娘が泣くところも、かまどの煙にむせているように誤魔化して書いてある。そのように、本当の主張や悲哀がユーモラスな何気ないところによくされていると思う。
 のびのびした目のあらい書きっぷり叙述の進め方をして、そのしめくくりにいつも詩のようにこまかい描写を突然入れてあったりするが、そういうところに思いがけなく、作者の真情が出ていたりするのを見る。
 織田作之助は大阪を題材に新しく世界をうちたて、それは誰の追従でもないし、誰も続くものさえない境地にある。(大阪文学昭和十八年七月号)』


羅宇しかえ屋・・・羅宇とは、キセルの火皿と吸い口を繋ぐ管のこと。この部分は当時は竹でできていた為、長く使うことができず途中で交換する必要があった。そのための羅宇しかえ屋。現在、羅宇の部分は銅製である。

 

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