ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

林芙美子が語る織田作之助

 林芙美子織田作之助の死後、新潮社から出版された土曜夫人の解説として掲載された文章です。文中で、林は織田と初めて会った時のことを綴っていますが、この内容については織田自身が書いた「可能性の文学」の中で「林芙美子さんですら五尺八寸のヒョロ長い私に会うまでは、五尺そこそこのチンチクリンの前垂を掛けた番頭姿を想像していたくらいだから」と明記しており、いかに二人が初対面にも関わらず深く意気投合したかが窺えます。

 


 以下、下記の『』内の文章は六月社書房より1971年に限定500部で発刊された「織田作之助研究」から現代語訳した上での引用になります。織田作之助の研究の一助になれば幸いです。


織田作之助について
          林 芙美子


 織田作之助という作家を想い出すたびに、私は、眼の底に熱いものがこみあげて来るやうな哀愁を感じる。死の前の数年というものは、まっしぐらに作品がきらめき渡り、これほど大阪を描き、大阪の庶民の生活を愛情こめて描いた作家はないと想う。文学というものを酒にたとえるならば、これほど、文学の酒に泥酔しきって身をほろぼしてしまった作家はまれであろう。この泥酔のなかにのみ、彼は生甲斐を感じ、家を持たずに最後もまた旅空でこの泥酔の為に酔い死にしてしまった感じである。──昭和二十一年の暮に、読売新聞に土曜夫人を書き、その中ばで織田作之助が上京して来た。私はある夜織田夫妻の来訪を受けてて、始めて織田作之助という人間に接した。思いやりの深い、心づかいのこまやかなひとで、その夜の話は初対面ではあったが案外はずんだ。
 二度目は銀座裏の旅館で血を吐いて静かに寝ている織田作之助であり、三度目は、病院のベッドであり、四度目は織田作之助の死顔との対面であった。あまりに呆気ない交友ではあったけれども、死の迫ったのを聞いて、カンフルや、サンソ吸入を探しまわる役目を、まだ一度も織田作之助に会った事もない私の良人が引きうけるまわりあわせになった事も因縁というにはあまりに不思議である。その頃は、終戦間もなくて、薬さえも不自由な時代であった。だが、織田作之助にはもう生きる力がなかった。生命までも空転して逝ってしまった。私は地だんだを踏んで惜しい作家を亡くしてしまったと思った。ロマンを、新しいロマンを口走っていたという彼の忘念がぐるぐるとそこいらに舞っているような息苦しいものを、私は彼の作品に接する度に思い出すのである。
 土曜夫人は詩文小説のスタイルとしてはユニークなものであるけれども、惜しい事には中途でそのユニークさの完結を見る事が出来なかったのが残念である。京都という古風な場所を舞台に選び、敗戦後のデカダンスが如実に表現されているところが、当時の読むものの心をとらえたのであろう。その前に大阪の新聞に、夜光虫という作品を書いていたのを私は読んだ事があったけれども、モチーフはよく似たものであったが、この土曜夫人の方が私には戦いをいどんでいるようで好きな作品であった。只、私流に難をいうならば、あまりに偶然の可能性という馬にむちを打ち過ぎて走り過ぎて行った思いがないでもない。偶然の可能のなかにただよう社会というものを、作者はじいっとペン握ったままみつめていたような、そんな、森閑としたものを感じる。グッドモーニングの銀ちゃんも章三も、春隆も、木崎三郎も京吉もみんな作者の分身であるに違いないのだ。だが、わたしは或る意味で織田作之助の文学の本領としては、この土曜夫人は織田作之助がもし生きていて、数年を越えて読み返したならば、彼にとっては不服なものになるかもしれないと思うのである。
あまりに可能性をのみ追いすぎ、新聞小説の面白さのコツを心得すぎた作品になりすぎているところが私には感じられる。裏返していうならば、日本の新聞小説のスタイルは或る意味で作家の筆をすさませるものであるかも知れない。土曜夫人は独自なスタイルであり、独自な小説ではある。荒い息づかいで一日一日の読み物として、これほど力いっぱいに取り組んでいる作品も新聞小説としてまれであろう。この作品は、前半はカメラ的効果も考えられていたに違いないが、後半に到っては、そんな事はどうでもよくなり、多くの登場人物をそれぞれにデッサンする事が面白くなり、作者の小説のうまさが油っこく描かれているように見える。なかでも、三十五歳の章三のデッサンが私には面白い。
 いわば、土曜夫人のあとに来る作品の中に、土曜夫人の後半に示された力量が盛りあがって来る伏線のようなものを私は感じるのである。今読み返してみると、この土曜夫人は、才あまって通俗におちた作品と私は断じる。彼が生きていたならば一言あるべきところであろうが、死んでしまっていてはどうにもならない。だが、私は織田文学に対する熱烈なる愛読者である。憂愁の思いのなかに降る雨を見て、この雨の淋しさはいったい何だろう、雨が降るという事には何の意味もないじゃないかと、夜の構図だかに書いていた彼のニヒリスチックな本質に私は共感を持つのだ。私は何時だったか、大阪の作家の小説のうまさに就いて講演をした事があったけれども、西鶴を始めとして、近代では宇野浩二武田麟太郎織田作之助を生んだ大阪の土地というものにもこの作家を生む丈けの何かがあるのではないかと思うのである。そのほかにも関西の作家では、川端、横光、藤沢、丹波、井上と、みんな小説がうまい作家が出ているのは妙である。その中でも、最も大阪を愛し、大阪から一歩も出ないで大阪を書いた作家が織田作之助であろうか。六白金星、世相、夫婦善哉といった。一連の短篇は大阪の庶民を描いて見事なものである。いま四五年も生きていたならばと私は思う。死生の間を息せき切っていた織田作之助文学の絶筆としては、この土曜夫人の作品は彼らしい泥酔のしかたであり、何とない心のこりなものを読者Sの琴線にふれさせ、フレキシブルなものが感じとられる。
 織田作之助は三十五歳で亡くなった。
 それにしても、若くして逝った彼の文学は逞しいものだと私は思う。惜しい。惜しくてたまらない。
    昭和二十四年二月        下落合にて 林 芙美子(土曜夫人ー新潮文庫ー解説より)』