ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

徳田秋声が語る尾崎紅葉

 明治文豪伝なるものが明治40年に編纂され、シリーズものとして出版されたのですが、その第一作目として、尾崎紅葉の逸話や人となりを聞き書きでまとめたものを含んだ本が出されました。その本に、徳田秋声語り部として尾崎紅葉の思い出を語っておりますが、最初の出だしは泉が、泉が居て、泉が…と泉鏡花だらけですが、途中からきちんと尾崎紅葉について語り始めます。

 
 以下、『』内の文章は明治40年に文禄堂より出版された松原至文著「尾崎紅葉」より徳田秋声が語った「徳田秋声氏談」から現代語訳した上で、引用しております。


徳田秋声氏談


 私が初めて紅葉先生の門に伺ったのは、左様明治二十五年頃でしたろう。今の法学士桐生悠々君と二人で、文学をやろうと思って上京した時、原稿の書いたのを持っていたので、先生に見て頂こうと思って行ったのです。その時泉が玄関に居ました。泉はこれまで途中で逢ったり雑誌か何かの口絵で見た事もあったので、顔だけは知っていたのです。先生はと尋ねますと、生憎その時はお留守でした。その後二度かり伺いましたが、いつも折が悪くてお目にかかれないです、一体何時頃ご在宅かと聞きましてても、不規則にお出かけなさるから、何時も定まってはいないとの事。で、仕方がないから手紙をつけて原稿をお送りしたのです。するとまずくていかんとかで、何でも突っ返されたのですよ。
 それッきり私は再び国に帰るようになり、桐生君は大学の方へ入りました。──大阪に放浪し、続いて越後に放浪し、二十八年頃また東京に上りまして、今度は乙羽君の心配で、博文館編集局の隅ッこに入る事になりました。何でも百科全書のようなものを手伝っておりました。その頃泉が『外科室』で売り出したように記憶します。泉は博文館へも、ちょいちょい来ました処から、いつはなしに話しをする、話してみると同国なので、懐かしいようにもなり、自然話しがよく合うのでした。するうちに、泉が先生は終始君の噂をしていらっしゃるが、遊びに来んか、来てみるがよかろうと言うので、つい私もその気になって、又伺ったのです。今度は柳川が玄関に居ました。が、先生は矢張りお留守、辞して出ようとする時、台所口から紺飛白の単衣を着た丈の高い影が内へ入った、先生だなとは思いましたが、引き返すも可笑しいもんですから、そのまま行きかけると、ちょうど寺の横町まで来た時、後ろから柳川が追ッかけて来て、先生が唯今お帰りですと言う。じゃお目にかかろうと戻りました、時に夜の八時頃だッたように覚えます。
 先生は二回の二間にあるうち、入り口の広い方おいででした。これまで想像していたよりも余程ちがっていました。すました方、にやけた優男のように想っていたのは、大きな誤りで、ごくさっぱりとした、崩落な方で、何でも胡座をかいて、扇子一本持っていろいろお話しをして下すッたのです。話しの中に、自分は近頃ディケンスを読んでいるが、彼の作には非常にウィットがあるとの事、先生の文章にも矢張りそのウィットが多いようです。それから私に何か書いてみぬかと、仰って短い亜米利加小説の原文を下さって、これを訳して来いとの事でした。その晩帰ると二日ばかりして訳して持って行きました。ところがこんなに細かく書いてはいかん、半紙のあついのに、もッと大きく奇麗に書いて来いと言われました。で又その晩方この度は一枚五行くらいの大きさに書いて行きましたが、その時は別にたいしたお話しも伺わなかったようです。その小説は「近畿自由」とかいう新聞に載りました。矢張りその時でしたが、俳人の話しがあって、中間のうちで運座があるが出ないかとの事で、それから私もちょいちょい出かけました。
 兎角するうち、小栗が番頭になって、箪笥町ニ塾を開く事になりました。塾へは先生も終始お出になりますし、私が親しく先生に接したのはこの頃です。
 それから先生の平常について、思い出した事を一つ二つお話ししましょう。

 ある時代には、発句の添削だの、序文書きだのいろんな事をなさってたのですが、それらは皆あちらから引き、こちらから調べ、それはそれは念の入ったものでした。文章がまた一字一句も疎かには書き流されず、消しては張り紙をし、また消しては張り紙をするという風。といって文章は決して苦渋の方ではなく、一旦すらすらと書き流して置いて、後から添削に骨を折られたようです。
 また、習字する事がお好きで、どこかで字の形のいいのを見つけると、それを紙にうつし机の前の硝子に貼り付けておいて、暇さえあれば終始筆をとって習っておいででした。
 住みかについては、理想はおありでしたが、何分金の費途(いりみち)が多かったから、その理想は実現せられなかったようです。お終焉(なくなり)までその頃十一円ばかりのうちにおいででした。ある時は貸家捜しをなさった事もありましたが、とうとうそれも果たされませんでした。しかし決して詰まらぬ外見(みえ)を張ることは好かれず、玄関など少しもお構いなかったのです。衣食住の三つは到底西洋人に叶わないと、常にそう言っておられました。着物も別に美麗(うつくし)いものを着るのではなく、時には随分乱暴なものを引っかけておいでのようでした。
 旅行は好きでしたが、ご承知の通り食道楽の方でうちでもお菜(さい)が二品三品では承知が出来ぬ位でしたから、旅へ出ても食物に困るとのお言葉でした。それでも関西の方へ行かれた事もあるし、一番遠きいのが佐渡が島、それから東京付近へもちょいちょいお出かけなさった。旅のなか、田舎の食物については、随分おこぼしになっていたようです。しかし余程食い意地の発達していたものとみえて、大抵のものはまずいまずいと言いながらも、おあがりにならぬものはないようでした。いつぞやも牛肉のロースで飯を食うのと海苔で茶漬けをかきこむのとが一番おいしいと、そう仰った事があります。
 原稿をお書きになる時は、何時といって定まってはいなかったようですが、まア大抵は夜分でしたろう。時には朝お書きになるのを見かけんでもありませんでした。
 お子どもさんに対する先生の態度ですか。そうですね、世の常の親が児に対するとは、余程ちがっていました。抱くとか撫でさするとかは滅多になさった事はなく、まアどちらかと言うと構わぬ方でしたよ。然しそうかと言って、決して不親切なと言う訳ではなかったのです。自分でもそう言っておいででしたが、子どもに対しては親のなすべき事でしたならば、それで充分だ、なでさすって甘やかすのは、決して褒めた事ではない。殊に来客があった時など、子どもが客の前へ出て菓子を強請(ねだ)るのを非常に嫌われたのです。それにつけて、ある時湯屋に行っておいでると女湯の方で子どもがやかましく泣き出した。すると先生大声上げて怒鳴りつけなすッた事がありましたそうです。そんな風に子どもは一体にお好きの方ではなく、二階で原稿をお書きになって居ても、下でお子ども衆がお泣きになると、どんどん下りて来て時によるとお叩(なぐ)りになるような事があったのです。
 お子ども衆には、最初弓之助さんというがお生まれなすったのですけれども、生まれて間もなくお亡くなり、その次に女の子さんが三人、これには先生も少々力を落としておいでのようでしたが、一番後で夏彦様が、おできなすった。この時分には最初とちがって、大分可愛がりなさったようでした。』