ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

織田作之助の随筆「大阪の詩情」

 個人的に「大阪の詩情」は織田作之助の随筆の中では好きな作品の一つですが、青空文庫には未掲載です。織田作之助を取り巻く、大阪界隈に潜んでいる詩情の一端に触れられたらと思います。
 以下、『』内の文章は1970年に講談社より出版された「織田作之助全集8」より「大阪の詩情」を引用しております。織田作之助の研究の一助になれば幸いです。

 


大阪の詩情
瓦 斯 燈


 心斎橋の七不思議というようなものが仮にあるとすれば、その一つは最近まで心斎橋の上にともされていた瓦斯燈ではなかろうか。
 明治二十一年発行の「大阪繁昌番附」によると、瓦斯燈は、洋燈、新聞、人力車、トキエなどと並んで「真に文明開化の王」となっている。当時、瓦斯燈が大阪に出現するや、ハイカラな大阪のひとびとは、新奇を競って「これぞ真に文明開化の王だ」と、戸毎に瓦斯燈を仕様したことであろう。柳の巷では、柳の葉かげに瓦斯燈の青白い光をのぞかせて、ひとびとの心をそそったに違いない。人力車に乗った客がそれを見て、しみじみとハイカラな抒情の灯を心にともしたことであろう。
 五、六年まえなら、文明開化の王はさしずめネオンパイプの軽薄な灯であったろうが、今なら防空用の親子電燈をつけて、いろいろに調節している方が「真に文明開化の王」ではあるまいか。
 最近私は明治時代の大阪の風俗を書きたいと思い、いろいろに思案を重ねたが、大正生れの私にはどうにも明治の大阪情緒というものが、頭にうかんで来ない。結局、芸もなく、人力車と瓦斯燈、ことに瓦斯燈の光が、大阪生れの私が明治をしのぶよすがともなろうかと、のんきなことを考えたのである。大阪落語の名人、初代春団治は、宣伝のためでもあろうか、それとも物好きでか、寄席から寄席へ駈けつけるのに、朱塗りの人力車を乗りまわしていたということだが、春団治が朱塗りの人力車で瓦斯燈の街を走っていたとは、いかにも明治の大阪らしいではないかと、私は見たこともないその風景を、ひそかにたのしんでいるのである。
 四、五年前私は東京の本郷台町にいたが、その頃私は毎晩のように追分町界隈まで七、八丁の道を散歩していた。追分町の瓦斯会社の前まで来ると、私は思わずほっと心に灯のともる想いがした。そこは瓦斯燈があってその青白い光がしみじみと冴えて、夜の底を照らしているのであってた。私はんということもなしに、夜汽車の食堂車を想いだしたりしたものであった。そしてまた、痩せた男が人影のまばらな黄昏どきの公園の中で、梯子をかついで瓦斯燈に火をつけてまわる、──そんな仏蘭西映画の一場面も想いだされた。
 そうして、私は再び生まれ故郷の大阪に住むべく、大阪へ帰って来ると、大阪にもまた、遠い昔の名残りのように瓦斯燈がともっていた。しかも、それが心斎橋の上なのだ。うっかり通り過せば、気づかずに渡ってしまうところを、さすがに私は電燈の光では見られぬそのあえかな美しさに、うっとりと佇んでしまったのである。
 そして、また、御堂筋の並木のかげで、瓦斯燈の光の下にうずくまっているのは、客を待つ俥ひきであった。明治の大阪がよみがえったのかと、私は驚きかつ嬉しかった。
 しかし、私はわざわざその人力車に乗ってみるほどの物好きには、さすがになれなかった。ところが、ある夜、知人を訪問する途上、私はひどい土砂降りの雨に会うて、自動車を探したが、なかなか見つからぬ。傘も持たず、うろうろ濡れて歩いていると、乗らんかと声を掛けられた。見ると、俥夫であった。致し方なく俥上の人となり、私は幌のセルロイドの窓を通して、雨に煙っている瓦斯燈の光をながめ、ゆくりなくも明治の大阪をしのんだことであったが、やがて目的の知人の家に着き、俥から降りると、近所のひとびとが、傘をさして、私の周囲をとりかこんで来た。なんのことか判らなかったが、あとで考えて見ると、私は医者と間違えられたのである。着物の裾を尻からげした医者が昭和の大阪にあろうか。

 大東亜戦争が勃発すると、瓦斯燈の光も大阪の町町から、姿を消してしまった。今はもう夜の町を歩いて、目につくのは、残置燈の光である。そのひそかな鈍い明りのまわりに、燈火管制下の夜の大阪のしずけさが、暈のように渦をまいている。夜の闇を吸い込んだその光を、遠くから見ると、心が、からだ全体が、すっと吸い寄せられるような気がする。しみじみとした郷愁のように遠い眺めである。


 プラネタリュウ


 大阪の詩情を語ろうとすると、どうしても明治臭くなる。大正臭くなる。誰が決めたのか、昭和の大阪には詩がないのかも知れない。あわてて御堂筋の並木道を持ち出して来ても、所詮はたいした詩もないだろう。新感覚派の詩人なら、いそいそと大阪駅のもつ白と直線のもつ新しい感覚に詩があると言うだろうが、しかし現代の文壇でも、もはや新感覚派は古くさいのである。
 してみれば、われわれは大阪駅を諦めて、御堂筋を素通りして、まず新橋まで来なければならぬ。そして、その橋のたもとを西に折れて、南側に明治大正の大阪の詩情の象徴である文楽座の櫓を見ながら、四つ橋の電気科学館まで急ごう。
 急いだ序でに、昇降機に乗れば、六階の星の劇場まで二足もないのである。
 星の劇場とは、いみじくも名づけたものである。はいって、神妙に待っていると、
「只今よりこの星の劇場でプラネタリュウム(天象儀)の実演をごらんに入れます。今日のプラネタリュウムの話題は、星の旅世界一周でございます」
 美しい女性の声で、場内放送がはじまる。
 それが終ると、場内はやがて黄昏の色に染って、一番星、二番星が天井に現れる。既に日は落ち、降るような大阪の星空が、われわれの白昼の目を奪うのである。場内は真っ暗だ。
 間もなく、プネタリュウムの機械がしずかに動くと、大阪の夜空をはなれて、われわれは星の旅の世界一周へ出発する。リオデジャネイロの空、ジャバの夜空──南十字星を流星が横切る。その鮮やかな光芒にはっと目を覚す──というのは、うっかりすると、われわれは居眠っているかも知れないのだ。バネ仕掛けの椅子に凭れて、天井の星空を見ていると、もうわれわれの頭の中に流れる時間は、夜の時間であるからだ。つまりは、プラネタリュウムの夜の描写は、実に見事なレアリティを示しているのである。
 プラネタリュウムは、独逸のカルツァイスの製作したもので、世界に二十七しかない、その第二十五番目の機械が、大阪の四ツ橋へ来て、昭和の大阪の詩情を、瞬かせているのである。』