ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

徳田秋声の随筆集「灰皿」2

 1では、森鴎外の全集について、語っていた秋声ですが、今回は室生犀星と共に小杉天外氏を訪ねて鎌倉へ行った時の思い出話しです。犀星は「あやめ文章」の「四君子」内で、秋声と共に天外氏を訪ねたことを最初から順を追って書き記しておりますが、秋声は天外氏との思い出を鎌倉の季節にあわせて味わい深く書き記しています。


 以下、『』内の文章は昭和13年(1938年)に砂子屋書房より発行された徳田秋声の随筆集「灰皿」より現代語訳をした上で引用しております。徳田秋声の研究の一助になれば幸いです。


『最近私は室生君と同伴で、一日鎌倉に遊んだ。鎌倉に遊んだというよりも、小杉天外氏と旧友細野燕台氏を訪問したという方が一層分明(はっきり)しているが、この両氏はいずれも既に閑散の地について、悠々その幸福な晩年を送っている点で、巷塵に埋もれている私などの齷齪(あくせく)した生活気分とはまるで違ったものがり、戦争の話しも文学の話しも出なかったので、私も一日のんびりした気分で楽しい清遊の一日を過ごすことが出来た訳である。私はその前にも別の仲間と江ノ島鎌倉に遊び、ちょうど長谷寺鶴岡八幡宮社前の池のまわりにある美事な桜の見頃だったので、背景がわるくないだけに、思わず春の気分を満喫することができた。花──殊に桜の花はむらがりとして眺めるときに爛漫とした美しさがあるのだが、しかし花の美をめづるのに必ずしも沢山の花を必要としない。隧道のように両側から枝を差しかわしている土堤の桜よりも松や杉などのあいだにある一株二株の埃を浴びない花の方が遙かに雅致がある。鎌倉も単に空気がいいとか、海が雄大だとかいうことだけだったら、唯の別荘地にすぎないのだが、長谷の観音や大仏や、乃至八幡宮建長寺円覚寺などの歴史づきの建造物などと相照応した、山と海との中古の神厳な気分があるところに魅力があるので、少々の桜の点綴(てんてい)も、東京に見られない古雅なものに思われるのである。私には信仰はないし、寺などもあまり好きではないが、日本の自然を美しくしているものは、何といってもそれらの古い建造物である。東京の町でも自然に接することができるのは、今は残在の神社仏閣以外にはないと言ってもいい。
 今度行った時には、勿論花はもうなかった。八重桜がいくらかあったに過ぎないが、落花後の新緑の雨の風情は花に優るとも劣るところはなかった。
 細野燕台氏は私の小学校時代の友達で、家は酒造業であった。学者であった父はすこしかわった人物で、氏を五香家(ごこうや)休哉という支那文学の大家の許へ送って、詩文碑史詞曲を学ばしめた。長じてから実業にも志したが、支那文学の造詣を深めて行ったことは勿論であった。私は三十代四十代に、たまに帰省すると、氏は必ず私を招いて一夜の清遊を催すのが例であったが、惜しむらくは私に素養がなく、氏の筆蹟や文庫に見馴れぬ字ばかり多いと同様に、その説話も金瓶梅紅楼夢、元時代の戯曲、詞曲に関するものであった。就中詞曲のもっとも得意とするところで、文字の豊富流麗なのもその蘊蓄(うんちく)の深さを語るに十分であった。金瓶梅書伝とでも言うべき珍本を見たのも、その時分やっていたセメントの店の奥座敷で、それにはそれを借読した内藤湖南氏の讃辞が、巻尾にあったかと覚えている。金沢はお茶趣味の愛玩されるところで、風流人との交際には、そんな修養も必要なので、氏はその方にも頭を突っ込んだ。北鎌倉の最明寺の跡を卜(ぼく)して、庵室を構えたのは、今から十年程前のことで、前の星ヶ丘茶寮の北小路氏とも親交があり、今の中村氏の代になってからも、多分関係はあるのだろうと思う。』


清遊(せいゆう)・・・風流な遊びをすること。
点綴(てんてい)・・・ものがほどよく散らばっていること。また、一つ一つを綴り合わせること。
卜(ぼく)する・・・うらなって良し悪しを決める、または判断する。

 

『犀星氏と私とは最初天外氏を訪ねることにした。犀星氏は既に軽井沢で家族的に懇意になったし、一度庭のことで天外氏が大森の家を訪ねたこともあり、鎌倉へ行くとなれば、どうしても天外氏の新築の家をも訪ねて、敬意を表したいというので、私も久しぶりで氏に逢うことは楽しかった。ただ天外氏は耳が遠いので咽喉や声帯の悪い私には、氏との対談は少し骨が折れ、わざわざ行く気にもなれないでいたのである。すると私は途中でふとこういうことを思い出したものである。一昨年の春長女の結婚式がすんで少し時がたってから、私の不在中に天外氏夫妻がわざわざ祝いの贈りものをもって来られたが、あの返礼をしたかどうか。はっきり覚えがない。それというのも二・二六事件後、社会情勢が何となく重苦しかったのはいいとして、雪の多かったその年の四月になっても、まだ寒さがはげしく、その前からしばしば狭心症に悩まされていた私は、到頭病床についてしまった。私にとっては今までにない重態で、胃腸がどうしても調わず、持病の糖尿と肺気腫に、鈴木博士が部屋へ持ちこんで来てくれたレントゲンの結果では大動脈中層炎もあるというのである。幸いにして健康はある程度回復したが、この病気が私の過去と現在を遮断してしまい、病気前のことで忘れてしまったものがかなり多かった。ダンスのステップや知人の顔なども、忘れがちであった。天外氏への返礼も多分その一つであったのではなかったか、しかし後で家人に聞けば大概わかると思って、天外氏に逢っても別にのいいわけもしなかった。』
 天外氏の新居はことに好ましい位置にあった。というのは、東の方に山があり、庭の一方に裾をひいていると同時に、山がかりのところに、崖造りになっている書斎の窓に、細かい雑木や山草の色が迫っており、北向きの客間の庭にも、磊々(らいらい)たる岩石の急な傾斜面が見られたりするので、山間の趣きがひどく好い感じなのである。前庭の一端からは、相当に高いこの山の頂きまで登って見られるように新たに石段を造った小径の曲折があり、私はよじ登るのに骨が折れたが、天外氏は若くて精悍な犀星氏に負けず、ひょいひょい身軽に登って行くのである。足を踏みはずすと危ないような処も間々あった。私も名も知れぬ山草の生えた山路は好きだが、この道を登ってみても、体の硬化していることが解るのであった。
 天外氏が我々の訪問を悦んでくれるので、かえって三人でその庵室を見かたがた細野氏を迎えに行くことになり、行ってみると、そこは私も一度訪ねたことがあり、羨ましい境地だと思ったのだったが、これはまた庭も茶室も本格的なもので、簡素であると同時に、自らなる別天地であった。茶室を出て、庭石や燈籠などを見てあるきながら、燕台氏と犀星氏の話しを聞いていると、燕台氏の石に関する知識と鑑賞だけでも、一つの立派な随筆ができそうである。小田原の無鱗庵の手入れに来ている金沢の庭師の噂、郷里の横山家の処分品として、今星ヶ岡茶寮の入口にすわっているおおきな石の話しなどにも、かかる風雅の道に遊ぶ人の快楽が想われるのであった。氏の住居は茶室のある一棟と後に高い岩層のそそり立っている奥の方の茅葺きの家族の住居と、今一つ最近に金沢から職人を呼び寄せて造ったという一棟と、都合三棟だが、いずれも垢ぬけしたもので、飽きの来ないように出来ている。勿論そう金のかかったものではないだろうが、私などには物質の点でも、趣味の点でも手の届かないものがある。犀星氏は私かに嘆じて病膏盲に入っていると言っていたが、そんなものでもあろうか。
 酒の仕度らしい気勢なので、事情を話して、細野氏をさそい、四人うちつれて最明庵を辞し、天外氏宅へ戻り、夫人の手厚いお手料理で、三人は呑みながら話し、私は白葡萄にウイスキーなどを勧められ、一口二口嘗めているうちに、少しほっとして来た。やがて洋室へ来て、椅子にかけ、お茶を呑みながら、料理や酒や庭の話しがつづき、中でも京都の苔寺の苔の話しが私を噴笑(ふきだ)させた。
 「呆痴(こけ)な話しだ。」
 つい微声で拙い混ぜ返しを入れると、声の早耳とかで、天外氏もふふと笑っていた。
 私達はかくて楽しい半日半夜を過ごし、燕台氏に送られて、北鎌倉から乗ったが、燕台氏は汽車の来るまで、駅前の休み茶屋で犀星氏にも差し、惜別の盃を挙げていった。
 私は雨中あっち此方少しは歩いたせいか、又は天外氏の客室に迫っている崖の湿気のせいか、それとも二口三口なめた洋酒のせいか、又しても胸をわるくしてしまった。恐らく山と海との鎌倉の風は、すえた都会の空気に馴れた私には少し荒いのであろう。(昭和集三年五月「あらくれ」)』


磊々(らいらい)・・・石が多く積み重なっている様子。また、心が広く小さな物事にこだわらないさま。

 

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