ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

徳田秋声の随筆集「灰皿」3

 2では、徳田秋声室生犀星との旅話しでしたが、今回は、秋声が読売新聞に掲載した「長篇四五読後感」より横光利一が書いた「家族会議」の感想です。なんだか、秋声氏と言えば自然主義のイメージが強く、新感覚派の著作などは手に取らないような印象がありました。ですが、実際は違い、派に関係なく小説を読み、正しく評価できる方だと判り、逆に秋声氏の懐の広さに感動しました。


 以下、『』内の文章は昭和13年(1938年)に砂子屋書房より発行された徳田秋声の随筆集「灰皿」より現代語訳をした上で引用しております。徳田秋声の研究の一助になれば幸いです。


『次に読んだのは、横光氏の「家族会議」である。「家族会議」は必ずしも家族会議ではなく、むしろ東京都大阪の株屋の気質比べ、又は東と西との株屋の意気比べと言ったようなものであり、個人的には親近していて、商売の駆け引きとなると、一歩も仮借しないところの老練で非人間的な大阪の株屋と、何か学校出の近代インテリらしい気取りと尊く観念をもちながら、奔放な才能と、俊敏な手腕をもっているためにか、どうかすると粘りづよい悪党のようにも見える、脂っこい大阪風のその青年手代、それに東京ものらしい見えと潔癖と、若干の用心深さ臆病さ又は慎みをもった東京方の仲買店の若い主人、それに古風なロマンチックの敵味方の恋愛事件と株の闘いとが全篇の興味ぶかい筋立てを成している。ある人は作者が株式のことをよく知らないと言って非難していたようだが、そんな事はこの小説では大した問題ではない。それは船舶会社とか鉱山とかの競争でもいいし、劇界映画界の資本家の争いでも、政党の対立でも介意はない。作者はただ読者の興味を釣るために、もっとも運命の急激な変化を見せるに便利な株式を選んだだけである。株式界の機構や、現代の金融界の内部を剖析しようとしたものではないのである。敵味方の恋愛事件も、既に芝居として仕組まれたに過ぎないもので、ありふれた通俗小説の型だといえば、それまでである。
 しかしこの作品は、かつての「寝園」に比べると、その形態から言っても、材料から言っても驚くべき発展振である。人間では文七の手代の連太郎が一番よくかけているが、他の二人も決して見劣りしない。殊に文七は全面的ではないが、その深刻らしい面臭が、古い名匠の彫刻のように想見される。「寝園」の人間、殊にも女主人の良人が、畢竟何を考えいる人間だか少しもわからないのと違って、性格や気質が、古典的な物語の中に現れて来る人物のように、理想化されて描かれている。それに比べると、女性の描写は漂渺(ひょうびょう)とした神韻はあるが、どこか所々ぼかされている。
 この小説が、息をつく間もなく読めるのは、そこには人間の日常性というものが、一切省みられることなく、恋愛なら恋愛、株なら株の闘争という、白熱的な人間の心情の最も高調に達した場合と場面とがそれから夫へと繋がっていて、芝居でいえば切ったはったの修羅場ばかりを拾っているようなものだからである。これはこの小説の好いところであると同時に感情が徒に高揚されるだけで、読後ひたひたと胸に沁みるもののない理由でもあろう。それにしても是は豪華な歌舞伎劇でも見るような典麗無比な作品である。この世知辛い世のなかに、これは又桃山式とでも言いそうな大まかな構図と絢爛たる色彩との、むしろ驚嘆すべきものである。勿論谷崎氏が日本画とすれば、これは洋画の手法と色彩で行ったものだが、いずれにしても傑作であることに疑いはない。
 序ながら、著付の描写が「寝園」などに比べて、遙かに洗練されて来たことも注目すべきであろう。(昭和十一年「読売新聞」)』


漂渺(ひょうびょう)・・・かすかで、はっきりしない様子。または、果てしなく広々としたさま。

 上記では、横光利一氏の作品の感想でした。今度は、徳田氏と永井荷風氏、菊池寛氏との出会いに加え、両氏の小説家として出発を書いています。また、夏目漱石との出会いと別れも記されており、文壇的に非常に興味深い内容となっております。

 

四名家第一印象
 
 友人を語るといっても、誰を語っていいかちょっと見当がつかない。思い出すのは大抵死んだ人で、種々雑多な幻が眼前に去来するのだが、二三の人の第一印象を語ってみよう。
 ちょうど机上に、一穂が見て来たというオペラ館で今上演中の永井荷風氏の「葛飾情話」の台本があり、ヴェルレーヌ風の歌詞が、最近読んだ「女中」という小説よりも面白いので、荷風氏から初めようなら、この人は明治十年代の初め頃に私がいた牛込の筑土八幡近くの下宿に、ふらりと尋ねて来たことがあり、多分下町の若旦那だろうと思っていたのだが、前掛けはしていなかったかもしれないけれど、縞の羽織に角帯で、何か気取った筒差しの煙草入れを腰からぬいて、煙草をふかしていたものである。
 私は郷里に踊りの師匠をしている女で、その時の荷風氏の面差しによく似た女を知っているので、今でも同じタイプだと思い出すことはあるが、後に小栗風葉氏が偶然私の部屋で荷風氏に逢い、風葉氏はちょうど読売新聞に長篇の処女作「恋慕流し」を書いていたので、尺八の恋慕流しについて、荷風氏に何か尋ね、氏はそれに答えていたようだったが、それから一二年すると荷風氏の処女作「地獄の花」というロマンチックな作品が現れ、ニーチェイズムの思想が流れていて異彩を放った。その頃には氏はすでに柳浪氏や小波氏のところへ出入りしていたかと思う。
 氏を紅葉さんに紹介すべきであったろうが、しかし余り弟子扱いにされることは好まなかったに違いない。
 
 あれは何年頃だったろうか、私が「黴」をかいてから間もない頃、俳句や写生文や「俳諧師」などで文壇的に高名であった高浜虚子氏の来訪を受け、どこか身構えのきちんとしているのに思わず膝を正した。ちょうど小栗君が来ていたので、別室だったか、それとも小栗君が帰ったあとだったかに、今度国民新聞に文芸欄ができ、その編集をやることになったから、真っ先に中編を書いてほしいといわれ、悦んで承諾すると、氏は能を見るなら案内しようというので、それから一両日してから、招魂社の近くにある氏の宅を訪れ、九段の夜能を見たのであるが、ちょうど夏目漱石氏も別の桝へ来ていて、中途から虚子氏と私のいる桝へ割りこんで来て観覧した。』
 その時の梅若萬三郎の小原行幸が、今でも目と耳に残っているくらいだから、その時も感心したのであろう、謡をあまり好きでもない私のレコード缶の中に、九郎と萬三郎のものが三、四枚あるのも、その時の影響である。しかしその時分読んだ二葉亭氏の翻訳に成る「血笑記」に共通な感情を、私はこの小原行幸に感じたものらしく、その時の心の印象をちょっとした小品に移し、ちょうど年の暮れちかい頃で、頻に原稿を催促に来る平木白星氏の出しているパンフレットに寄稿したものである。
 後に平木氏から京都の職人の手に成った、銅製の筆架をお礼にもらい、今でも持っているが、ある時西本波太氏の出していた趣味という文芸雑誌の発行所で、藤村氏や小山内氏や水野葉舟氏などと落ち合った時、小山内氏がなぐり書きのその小品に讃辞を呈してくれたことをおぼえていた。素より今それが見つかっても詰まらないものに違いない。
 
 漱石氏と逢ったのは、後にも先にもその時きりだが、氏は萬三郎の謡について、あんなに低い声を気取らないで、もっと高く謡ったらいいだろうといっていたが、虚子氏は「うむ」とか何とかいって批評の言葉を挿まず、私も謡は勝手が違うので黙っていた。謡について話しをしなかったばかりか、漱石氏の推薦で朝日に「黴」を書いた癖に、文学のことなぞも一つも話さなかったのは、今考えてみても可笑しい。
 私は漱石氏から二度も長い手紙を受け取っており、十分氏を訪問すべき因縁があるのにかかわらずその機会を最後まで逸してしまったのは、あの時代の私がいかに頑なであったかという証拠であろう。
 これは大正初年頃であったろう。ある夏私が先発で、房州の那古である女師匠の二階を借りることにきめてあったもので、そこへ行こうと思い、まだ汽車も全通していなかったので、保田まで行っていると、その頃時事にいた菊池寛氏が追駈けて来て、時事に小説を書く約束をしたのだったが、原稿料を一円だけあげて、六円にしてくれられまいかと申し出で、その通りにしてもらった。
 菊池氏が私の森川の宅を訪ねた時ちょうど子どもが行くことになっているから、済みませんがご一緒にと何も知らぬ家内が頼み長男と二男が菊池氏につれてもらって来た訳だが、私は約束した宿が余り体裁のいい二階でもなく、途中の休み茶屋の店頭などで、番茶一杯で別れるのが悪いように思って気が痛んだが、用件だけでそのまま別れた。後で子どもが「あの人はえらいんだよ。汽車に乗ると降りるまで夢中で原稿を読んでいたよ。鉛筆で所々線を引いてね。」というので、子どもにも何か異った印象を与えたことを知り、益々悪いことをしたと思ったのであったが、それから間もなく「忠直卿行状記」が出て、菊池氏は一躍文壇に躍り出てしまった。
 私はいつも心の行き届かない男であったのである。(昭和十三年六月二日「東京日日」)』