三好達治が梶井基次郎に捧げた詩集「閒花集」
1934年7月に出版された「閒花集〔かんかしゅう〕」は、非常に繊細な詩集です。和紙を薄くしたような紙に印刷された詩は、反対側に印刷された文字が透けて見えるため、大変読みにくい内容となっています。恐らく、梶井基次郎を亡くし、失意に沈んだ三好達治の正に薄氷のような心を表したかのようです。薄い氷のような感情の下には、溢れんばかりの涙が見えるような内容で、実のところ三好達治は梶井基次郎を多くの人に知って貰いたいと考える一方で、この詩集だけは梶井基次郎のみに読んで欲しかったのではないでしょうか?
以下、上記の「閒花集」を現代語訳した上で『』内にて引用しております。三好達治と梶井基次郎の研究の一助になれば幸いです。
『 この小詩集を梶井基次郎君の墓前に捧ぐ
砂 上
海 海よ お前を私の思い出と呼ぼう 私の思い出よ
お前の渚に 私は砂の上に臥〔ね〕よう 海 塩からい水 ……水の音よ
お前は遠くからやってくる 私の思い出の縁飾り 波よ 塩からい水の起き伏しよ
そうして渚を噛むがいい そうして渚を走るがいい お前の飛沫〔しぶき〕で私の睫〔まつげ〕を濡らすがいい
鶯
「籠の中にも季節は移る 私は歌う 私は歌う 私は憐れな楚囚 この虜われが
私の歌をこんなにも美しいものにする 私は歌う 私は歌う やがて私の心を費〔つか〕い果して
私も歌も終わるだろう 私は目を瞑〔つむ〕る 翼をたたんで 脚を踏ん張って
この身の果を思いながら(それは不幸だろうか?)私は 私の歌に聴き耽る」
昼の月
──この書物を閉じて 私はそれを膝に置く
人生 既に半ばを読み了ったこの書物に就て ……私は指を組む
枯木立の間 蕭条〔しょうじょう〕と風の吹くところ 行手に浮んだ昼の月 ああ
あの橋に乗って 私の残りの日よ 単純の道を行こう 父の許へ
路傍の家
その家の窓のほとり 一つの節孔から
鼠の鼻が見え 隠れ
いま そこを囓っている
壁の中から いそがしく食器を洗う音
理髪店にて
「鋏で切ってやったんです 腫物〔おでき〕ができたから」
憐れな金糸雀〔カナリア〕よ お前は指を一本切られた
元気な仲間のあいだにあって 片脚で立ちながら
思案の後でお前は歌う 私は耳を傾ける 稀れになったお前の歌に
工場地帯
夕暮れの堀割に ほのかに降りた冬の霧
移るともなく移って行く 一つの舟の艪の軋み
……船夫〔かこ〕の動き
岸辺にたった煙突の おちこちの煙のなびき
漁 家
街と街との間から 山が見える 青い霞がかかっている
家と家との間から 川が見える ……舟がゆく
渚から 黒い猫が帰ってくる
南天の実で遊ぶ子ら 靴の踵をふみつぶして
平 津
黒く光った柱に 春が来た その柱暦に
堤は遠く枯れたまま あれ犬が走る
枯れた蘆間を 犬が走っている
飛びたつ鳥もない……
村の犬
かすかな木魂さえそえて 犬が啼いている 静かな昼の村
私はそこに立ちどまる「庭の隅 蔵の前だな?」
一つの屋敷の奥で 犬が啼いている
川向うの葱畑から またひょいと犬がとび出して 耳を傾ける
揚げ雲雀
雲雀〔ひばり〕の井戸は天にある……あれあれ
あんなに雲雀はいそいそと 水を汲みに舞い上る
杳〔はる〕かに澄んだ青空の あちらこちらに
おきき 井戸の枢〔くるる〕がなっている
一 家
鶫〔つぐみ〕の群れは 石鹸会社の空を来て
川を越え(……四つ手網しずかに上る)
三角州〔デルタ〕の樟〔くす〕の森に降りる 枯れた梢に
彼ら一家は休んでいる
厩 舎
梅散り 厩に蝿が生れ
曳き出された馬の腹に
小川の反射がゆらいでいる
私の陰は 葱畑の葱の上
新 緑
林の上の碧い空 繭のような白い雲
新緑のみずみずしさは 絵のようだ ……夢のようだ
私は吊橋の上に佇って わが身の影を顧みる
自分の眼が 信じられなくなったから
チューリップ
蜂の羽音が
チューリップの花に消える
微風の中にひっそりと
客を迎えた赤い部屋
百 舌〔もず〕
槻の梢に ひとつ時黙っていた 分別顔な春の百舌
曇り空を高だかと やがて斜めに川を越えた
紺屋の前の榛〔はしばみ〕の木へ…… ああその
今の私に欲しいのは 小鳥の愛らしい 一つの決心
水 村
木立から木立へ移りながら 悪企みする春の百舌と
支柱にかけた竪網の 風に揺らぐ瀬戸の錘〔おもり〕と
それらいずれも 雀の声をまねている
とある屋敷の橙に そして雀も啼いている
午前十時
午前十時 家鴨小屋の戸が開く 堰が切れた!
屋敷の裏の狭い空地へ 彼らは溢れ出る 躓きながら
彼らは渓流のように 真白になって走りこむ
満潮の堀割へ! 歌いながら 羽ばたきながら
藤 浪
そこにとまろうとして 花の舞えでひと揺り揺れる 蜜蜂の羽音……
勤勉な昆虫よ 私の半生も どうかお前に学びたい
そうしてやがて 私の日の終焉〔おわり〕にも 私は自分を想いたい
そこに潜りこんで ひと房の藤浪に 隠れてしまうお前のようだと
桃 花 源
青い山脈
白い家鴨〔あひる〕
貸ボートにペンキが塗られ
綻びそめた桃畑
畎 畝〔けんぽ〕
家鴨が三羽 畝を越える
土くれをころがしながら
鶺鴒〔せきれい〕が隣りの畑へ
ついと逃げる
春 日
葱畑の前の床屋
鏡の前の黄水仙
赤い手套が落ちている
路をうつすその鏡に
庭 前
「何ごとぞ 紅梅を蹴る小鳥あり
思いあがるや 人を怨むや」
「めっそうな とんだこと
知らなかったよ 女流歌人のお宅とは」
椎の蔭
椎の蔭 苔むした土蔵の屋根に 鶺鴒がきて
なぞへを歩む ステッキを振りながら
右に二歩 左に三歩
落し物を さがしている
鉄橋の方へ
嘴の黒い家鴨が一羽 静かに水脈〔みを〕をひろげてゆく
うつらうつらと 低い堤を私は歩む
私たちはしばらく 鉄橋の方に向って進む
同じ速度で
朝
電柱の頂に 雀が啼いている
つぶらに実った茄子畠 土蔵の壁に
朝日がさして そのまぶしさにしゃがんでいれば
旅にある身が夢のよう たち上るのも惜しくなる
晩 夏
二枚の羽を一枚に合して
草の葉に憩う 小さな蝶
君の名は蜆蝶〔しじみちょう〕 蜆に似ているから
わが庭の踊子 ゆく夏の裾模様
蝉
蝉は鳴く 神さまが龍頭〔ねじ〕をお巻きになっただけ
蝉は忙しいのだ 夏が行ってしまわないうちに ぜんまいがすっかりほどけるように
蝉が鳴いている 私はそれを聞きながら つぎつぎに昔のことを思い出す
それもおおからは悲しいこと ああ これではいけない!
虻〔あぶ〕
詩を書いて世に示す
しかも私は 世評など聞きたくない
この我儘を許し給え 私は虻のように
羽音を残して飛んでゆく
ある写真に
それは夏の終り 二度目に孵った燕の雛の 軒端に騒がしい頃であった
こうして私たちが この前庭の 樅〔もみ〕の木の下に ひとかたまりに寄り合ったのは……
君は笑っている 君はうつむいている 君は借りもののベレをきている
そうしてあなたは 子供を抱いて 頸をかしげて うら若い母の姿
新 秋
石には虻 障子には蝶 しばし彼らも休んでいる
薄〔すすき〕の穂波 磁石の針 私の朝の感情も 今ひとつ時揺ぎやむ
それらの上を飛び去って 山の端に入る白い雲
唸りながら 飛びながら 宙にとどまる熊ん蜂
黄 葉
この清麗な朝の この山峡の空の静けさ もの足りなさ……
なぜだろう 私の耳が私に囁く お前一人がとり残されたと
なぜだろう 橡〔とち〕の黄葉〔もみじ〕の鮮やかさ はや新雪の眩ゆい立山
ああ 彼らは旅立った この峡の燕らは
空 山
休みなく歌いながら せっかちに枯木の幹をノックする 啄木鳥(きつつき)
お前を見ている私の眼から あやうく涙が落ちそうだ
なぜだろう なぜだろう 何も理由はないようだ
風の声 水の音
夜明けのランプ
宿をめぐる小雀〔こがら〕の歌 さあ起きよう
友よ こんどは君の眠る番だ
棚の上に 君のベッドに君を還そう
……夜明けのランプよ
夜の部屋
夜は初更 ランプは暗い
その足音をきくうちに 私の額にとびのった
曲者!刺客! お前の髭が私を擦る
ああ 冬の夜の伴侶 蟋蟀〔こおろぎ〕よ
空 林
山毛欅〔ぶた〕のかげ 枯草に彼は臥ている 雲を見ている
彼は私に会釈をする そうして煙管をとり出す
どこの村の男であろう 媒鳥〔おとり〕の鷽〔うそ〕は啼かないで
餌壺の栗をひろっている 籠のあなたの昼の月
瀧
それの向うの 一つの尾根の高みから 炭焼きの煙が揚る……
耳鳴りほどの谿谷〔たに〕の声 薪を割る杳かな木魂
一羽の鶸〔ひわ〕の飛びすぎる 狭間の奥の絶壁に
五寸ばかりに躍っている 瀧
一つの風景
ここに私は憩い ここに私はたち上る
「行こう 行かねばならぬ」
それは林である それは朝である
赭土の路が 山の麓を繞〔めぐ〕っている
雉
身を以て 虹をかけ
七彩の雉がまいたつ 雪の山から
青空に
頸をのべ
頬 白〔ホオジロ〕
日が暮れる この岐れ路を 橇〔そり〕は発〔た〕った……
立場の裏に頬白が 啼いている 歌っている
影がます 雲の上に それは啼いている 歌っている
枯木の枝に ああそれは灯っている 一つの歌 一つの生命〔いのち〕
早 春
──馭者は煙草を喫いながら
旅籠のある丘を降る からの橇馬車
桜の枝に 頬紅さした鷽〔うそ〕の群れ
啾々〔しゅうしゅう〕と 呼びかつ応う……
雪 景
丘の上に 煤けたからだを干している斑牛〔まだらうし〕
そのうす赤い乳房の下から 谿が見え 町が見える
今橇馬車が橋を渡る……
火ノ見櫓に 風見の矢
雉
遠い山 平野 脚もとの小さな町 川 橋
まるみある雪の襞〔ひだ〕から 七彩の十字架なして
いまこの眺望を劈〔つんざ〕くもの
沢を渡る 雉!
千 曲 川
通りがかりの挨拶の 私のまずい口笛に
梢から鷽〔うそ〕が応える あちらを向いたまま
彼の妻がまずにげる やがて彼も繁みに隠れる
遠く 霧の断え間に千曲川
「檸檬」の著者
谿を隔てた 山の旅籠の私の部屋
その窓の鳥籠に 窓掛けの裾がかかっている
白い障子に影をうつして 女が一人廊下を通る
ああこのような日であった 梶井君 君と田舎で暮したのも
鞍 部〔あんぶ〕
丘の上に 蜜蜂ほどに呻っている 発電所
その上の 鞍部に一つ小屋が見える
小屋の軒端に人が出る 馬が出る
そこの窪みに 静かに雲が捲いてくる
訪問者
春はいま 蜜蜂の訪問時間 彼らは代る代る
私の窓に入ってくる そうして一つ一つ 私の持物を点検する
外套 帽子 辞書 麺麭〔パン〕 梨 肉叉〔フォーク〕……
そうして訣〔わか〕れの挨拶に 私の耳を窺〔のぞ〕きにくる
故郷の街
ああまた 鉄橋を渡る貨物列車 堤の草に山羊が二匹
川蝦〔かわえび〕を釣る子供らは 渚に竿をならべている
その森々たる水の彼方 煤煙深い街の上に いま三日月は落ちかかり
ランプをともす外輪船……
鯉
夜の園生の 寂寞に鯉が跳ねる
何事か覚束なげに 私の心は歩みをとめる
そうして耳を澄す この平凡な夜の 感慨に
何でもない 私の心よ 行くがいい お前の路を
後 記
六月三十日、六蜂書房より梶井基次郎全集下巻を受取る。
夜半「書簡」の処々を拾い読みしているうち、思わず心を動かし、巻を蓋ふて寝に就こうといく度か試みては、また机の前にかえって翻読する。そうして枕に就てからも、耿々〔こうこう〕としてもの思い、遂に眠をなさず天明にいたる。彼と私の交遊は、僅かに数載を越えなかったが、今また事にふれて、まことに思出は縷々〔るる〕として限りがない。ああ、疎慵〔そよう〕にして才薄き私の如きものが、ようやく今日この処まで、たどたどしき道のりを歩み来った過去を顧みるにつけても、彼の友誼により、その策動に扶けられること甚だ少くなかったのを忘れ得ない。この感慨は、何かしら私をして、底薄暗い千仞の谿間をのぞきこむような思いをさせる。またそれらの過去の日は、的磔として氷霰のように、私の眼前にある。
七月一日、たまたまこの小詩集を編んで校を終った。野草閒花、摘んで以て彼が墓前に供うと云爾。
信州上林の客舎に於て
三 好 達 治』
鞍部〔あんぶ〕・・・山の尾根が中くぼみになった場所。