ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

室生犀星が語る芥川龍之介2

 今回は、芥川龍之介との最後の別れを振り返った内容となっています。また、この随筆集に収められている他の芥川龍之介についての随想を取り上げ、紹介しております。内容としては、室生犀星萩原朔太郎芥川龍之介、この3人の食事何処や交流がどんなものであったかが伺えます。


 以下、『』内の文章は三笠書房より昭和10年に出版された「犀星随筆集」の「憶(おもう)芥川龍之介君」から現代語訳した上で引用しております。芥川龍之介室生犀星の研究の一助になれば幸いです。


『何時も芥川君は何かにぶつかっているようであった。相撲のぶつかりのように眼に見えぬ敵に、また眼に見える敵に絶えずぶつかっているようであった。仕事最中に訪ねると芥川君の表情はまだかきかけの小説魔に取り憑かれたまま、平常の顔色に戻らない揉まれた顔をしている時があった。お湯にはいらないせいもあったが、蒼白い細長い痩せた指の爪にくろぐろと垢がたまり、怪鳥の爪のようであった。鳥の眼はみんな美しい眼をしているが、芥川君のなかで集中眼が一番きれいであった。
 そんな忙しい時でも顔さえ見ればちょっと上がれといい、また宴会の帰りなどにも、君ちょっと寄ってくれ、見せたいものがあるからと言って離さなかった。かれは人なつこいよい育ちをその最後まで持っていた。
 亡くなる一月ばかり前の暑い午後にたずねて行くと、珍しく椅子に座っていたが、先客がかえった後で何か烈しい苛ついた疲労で、顔色はどす暗く曇っていた。その年の六月号かの「新潮」に私は芥川龍之介論を書いていたので、君あれを読んでくれたかねと言うと、慌てて読んだよ、どうも有り難うと言うかと思うと、たしか「湖南の扇」が出来ていたのでせかせかとそれに署名してくれた。その時ほど、聞こえるか聞こえないか位の独り言のような低い声で、ああいうものを書かなくてもよいのにと言った。私は書かなくとも好いというのは気に入らなかったのかというと、いや別に、いや何でもないよと、それきり黙り込んでしまった。私はそれから間もなく信州に行き、その日が彼の人に永いお別れの日になったのである。』


 芥川龍之介の鬼気迫る風貌が悲しく胸を打つ最期の別れであったことが窺える内容で、読んでいて寂しい気持ちになりますね。
 ところで、室生犀星はこの随想以外も芥川龍之介について言及している文章を同じ本に収載しています。
 内容としては萩原朔太郎芥川龍之介、それに室生犀星の三人で伊豆栄で晩ご飯を食べるなど、温かい交流を読むことができます。また、芥川龍之介芭蕉好きエピソードが披露されており、横光利一松尾芭蕉の後裔だと知ったら、交遊が生まれたかもしれないなと思わせる内容です。


 以下、『』内の文章は三笠書房より昭和10年に出版された「犀星随筆集」の「文学雑談」から芥川龍之介について書かれた「三、安らかならざるもの」を現代語訳した上で引用しております。芥川龍之介室生犀星の研究の一助になれば幸いです。


『何時か僕は芥川君が見えた時に新しい果物を食べてから寝ると大へんに温まると話したが、芥川君は何だか感心したような顔をして聞いていた。数日後、芥川君の書斎で僕はどうも柿を食べて寝ると冷えてこまるというと、芥川君は憤然としてこの間君は果物を食べて寝ると温まるといったじゃないかと詰問するように言った。いや、あれは別の果物なんだ、冷えるというのは柿だよと言った。そうか柿は冷えるなと彼はたちまち機嫌を直した。胃の悪い人に下手に果物の話しをすると直ぐ斬り込んでくるようである。
 晩年に私と萩原朔太郎君と芥川君とで、本郷伊豆栄で晩飯をたべての帰途、神明町の小さい喫茶店にお茶を喫みに這入って行った。端なく芥川君と萩原君との間に議論が起り、議論の嫌いな僕は二人の様子を見ながら煙草をふかしていた。萩原君は蕪村が芭蕉より面白いとか偉いとか言い、芥川君は芭蕉の方が偉いと言った。萩原君は芭蕉の発句が観念的であるというと、芥川君はそんなことはない、この句はどうだ、ではこの句はどうだ、この句にも観念的なところがあるかと立ちどころに六七句くらいの芭蕉の句を、覆いかぶせるように続けさまに読んで、猛々しく突っかかるって行った。その勢いはあたかも芭蕉が親兄弟か何かででもあるような語調であった。逝去二ヶ月ほど前だったので勢いが勢い立つと血相を変えるようなところがあったのである。それほど芭蕉の発句は当時に芥川君に好かれていた。好かれていたというよりなくてはならぬものだったらしいのである。
 僕と芥川君との間では僕はいつも尊敬みたいなものを感じていて、何時も七分くらい言いたいことを言い、三分は言わずじまいになっていた。芥川君を訪ねて帰る途すがら、何か元気にどんどん歩くようになっていたが、それはあんな偉い奴を友人に持っている喜びがあったらしいからであった。だから発句でも小説でもいいからあの男に負けてはならん気合いを感じていたのである。
 僕は僕の無学ななかで鯱張っていたが、芥川君は有学のなかで背丈高くつっ立っていた。この頃僕はときどき気に入った発句や小説が書けると、芥川君にいま一遍読んで貰いたい気持ちで一杯であった。それは彼はいつか室生犀星は絶えず少しずつ進歩していると言ってくれたから、それをそのように証拠立てたいためでもあった。実際、年をとっても文学上のことでは殊に褒められたりした記憶では、まるで中学生のように僕は子供らしい考えを持っているからである。
 何年前かの年の暮、僕は映画を見に行こうと田端の坂を下りかけると、坂の下から芥川君に出会したのである。
 「君はもう新年の小説を書いてしまったのか」
 「うん、もう済んだ。」
 「羨ましいな僕はこれからだ。」
 別れた後、僕は映画館の薄暗がりのなかで、一体映画なぞ見ていいのであろうか。芥川君はまだ仕事をしている、──そんなふうに考えて心安らかならざるものがあった。あの男の苦作が僕の仕事を秤ってきそうで安らかならざるものがあったのである。』

 

 次は、芥川龍之介の遺稿や彼の創作の姿勢について室生犀星が熱く語っているのが印象的な内容です。
 以下、『』内の文章は三笠書房より昭和10年に出版された「犀星随筆集」の「文学の神様」から現代語訳した上で引用しております。芥川龍之介室生犀星の研究の一助になれば幸いです。

 

『随筆とか詩とか小説とか、または発句とか評論とか、凡そ文章と名のつくもので、これを以来されて書かざることなく、また、これを売らざることは稀である。自分で好愛して暫く手許に置いて眺めるということすら、出来ないのである。人びとは少々爛れたような顔をしていうのだ。「よくお書きになりますね。そんなに書くことがあるんですか。」と。それがまた、「そんなにお書きになって疲れるでしょうね。」「少々おやすみになったらどうでしょう。」
 
 本来からいえば書くことが原稿紙にむかうまでまるで無いのだ。そして本当をいえば書いて草臥れていることも実際である。それだからといって書かずにいられるものであなく、又、ぼんやりとしてはいられないのだ。しかし書き出すと書ききれる人生ではない。書くことがなくなってしまえば生きていられないわけだ。毎日生きてゆくことは書くことのある証拠になるのである。よく書くことはよく生きることとそんなに隔たりのある訳のものではない。小説、随筆、評論、それらを片ッ端から書いて行き、頭のそうじをして威張りするが、また人生のごたごたで頭の考える機械がよごれてしまう。そして又そうじをするために書く。
 たまに人が来て何か手許に短いものでもいいのだが、書いて取って置きの原稿がないでしょうかといわれるが、書いてある原稿は一枚もないのである。インキの乾かない間にそれはどこかへ持って行かれるのである。作者としては仮に何枚でもいいから取って置きの原稿を持っていたい。何時ぽっくりと参ってしまってもいいから、せめて遺構の一篇くらいは持っていたいのであるが、そんなことは夢にも見られないのである。芥川龍之介君なぞは遺稿のなかに小説もあったし、随筆、感想もあり、それから二三篇の詩さえもあった。あれほど遺稿を豊富にのこしていた人は輓近(ばんきん)の作家では一人もないのであろう。生前新聞雑誌に原稿を望まれていた人が、あれほどの遺稿をのこすということは並大ていの仕事ではない。凝りやの芥川君は少し気に入らないと原稿をそのまま取って置いて、また新しく書き出したために遺稿が多くなったのであろう。実際、芥川君の机の上には書き損じや半分書きかけた原稿が、いつも高さ二寸ぐらいの厚さでのせていた。私なぞは書き損じは裂いてすててしまうが、芥川君はそれをしないで大切にためてい。それから又、自分で楽しみながら書いた詩なぞもあったらしい。そういう点で芥川君が雲上の作家であるとすれば、私なぞは市井の作家たらざるをえないのである。全く日記のようなものすら私にはのこされていない。
 しかも芥川君の意向はそれぞれ手の込んだ立派な作品であって、遣り放しの原稿なぞ一つもなかった「歯車」一篇を見てもいかに書くために生きていたかということがはげしい哀慕の情をそそって歇(や)まない。ぴんからきりまで生き徹して行った人としてあれらの遺稿は命と一しょに綴られたものと見て間違いはない。或る意味で短い生涯をあんなに手強く生きた作家はまれであろう。
 私はなるべく小説ばかり書いていて随筆は書きたくない。随筆のなかに小出しに勢力を吸い取られるからである。小説の純粋性からいっても他の雑文で揉まれることがいけないのだ。ドストエフスキーの豊富な驚くばかりの挿話なぞも、他のこまごまとした雑文なぞの仕事をしないでいて、小説にその全部の人生観なり挿話なり新聞記事風な小事件なりを織り込んでいたために、あれらの長篇を書きつづけられたのである。長篇小説というものは半年間も書き続けていたらその半年間の社会情勢の変遷なぞも、そっくり表現することが出来るのだ。それから作家生活の半年間のあらゆる経験的な細微な動きなぞも、その日その日の事件に旨く当てはめられるのである。ドストエフスキーの殆どその作品の主流をなすところの事件と事件、人間と人間の組合せなぞはそれだけの仕事に没頭して、日記をつけるがように継続的に作に親しんでいた為、あれだけの大作品を構成できたのである。彼のお師匠さんであるところのバルザックもまた人生日記を長篇のなかにこころみた作家であった。ドストエフスキーがどれだけ新聞の社会記事に重きをおいて見ていたか、そういう社会記事の種々の出来事が作家としての彼を動かしていたかが、彼の作品によって折々証明されている、真理探究ということも清新さを持つ作風も、彼の鈍重な聡明さによるものであった。
 私のような一介市井の作家は、何処までも陋居(ろうきょ)にあって文事に従うべきであって、遺稿なぞは一篇だってのこさなくともいいのである。却ってつまらない不本意な書きよごしの感想随筆の類を以て、堂々たる遺稿であるように誤解されないともかぎらないから、むしろ潔く原稿をのこすようなことをしないで、片ッ端から書いて印刷にしてしまった方がいいかも知れない。然しながら私といえども暇があって燃ゆるがごとき宿望をかなえるような作品を書きのこすことが出来れば、それほど幸福なことはないのだ。それによって生涯の作品的汚名を雪(すす)ぐようなことになれば、誰かまた原稿をのこすことに遠慮するものがいよう。しかし忙中閑なく文事日に趁(お)うて責をふさぐことのない雑文渡世では、そんな大作を遺稿としてのこすことなぞ夢にも思えない程である。それより生きている間に戦えるだけ戦うた小説を人生の真ん中に叩きつける方が余程ふさわしいことかも知れない。小説も一つの戦うべき我々の武器であるとすれば、刃こぼれ刀身半ばに砕けようと、それまで戦い続けて後、止むを得ずんば僵(たお)れてもいいではないか。
 芥川君はたしかに芸術的に身動きが出来なかったのかも知れない。身動きができても甚だ窮屈な文章の行詰まりがああさせたのかも知れぬが、しかしその倒れようは全く弓矢尽きた美しい戦死をした姿を彷彿するのだ。誰があれほど潔い先生を選び得るものぞ。私なぞは全く七転八倒の作家苦のなかに、揉まれ追われてへどへどになって倒れるより他に倒れ様がないかも知れぬ。それは或いは老至って愈々(いよいよ)飢えるがごとき醜態を演じるのかも知れないけれど、平凡な仮死的な生活をするよりも行き倒れのごとく、文事の埃にまみれて僵(たお)れた方がどれだけ壮烈であるかも知れない。』


輓近(ばんきん)・・・最近、近来、ちかごろ、の意味。
陋居(ろうきょ)・・・狭くむさくるしい住居。