谷崎潤一郎の詩人のわかれ1
以前から、一度それなりに長い小説を入力したいと考えていました。正宗白鳥の「塵埃」より長い作品で、あんまり長すぎても大変であるため、今回は谷崎潤一郎の「詩人のわかれ(此の一篇を北原白秋に贈る)」に挑戦してみました。楽しんで読んで頂ければ幸いです。
以下、『』内の文章は大正8年に春陽堂から出版された谷崎潤一郎著「呪われた戯曲」より「詩人のわかれ(此の一篇を北原白秋に贈る)」を現代語訳した上、引用しております。
『これは昔の話しではありません。ついこの頃の出来事なのです。
三月初めの、あの日の朝のことでした。Aという歌人と、Bという戯曲家と、Cという小説家と、三人の男が何か頻りと面白そうに冗談を言いながら、山谷の電車停留場付近を、線路に添うてぶらりぶらりと歩いて行きました。
「おい!どうするんだ。歩いていたって仕様がないが、電車に乗るなら乗ろうじゃないか。」
と、一番先へ立ったAが、後ろを振り返って、号令をかけるように言います。
「しかし一体何処へ行く事になったんだね。」
Bがこう言うと、Aは懐ろ手をして、往来に股を開いて、ぬっと立ち止まりました。
「何処へ行くたって、兎に角浅草まで行かざあなるまい。何しろ私あ昨夜っから酒ばかり飲んで居るんで、今朝になったら腹がぺこぺこだよ。」
「何かうまい物が喰いたいな。」
と、Cは舌なめずりをして、溜まらないような句調で、
「……揚出しへ行って豆腐が喰いたい。え、おい、そうしようよ。」
「あはははは、又喰い辛抱が初まりやがった。だが豆腐たあ、いつもに似合わず淡泊だね。」
「豆腐は悪だよ。いっそ重箱で鰻を食としようよ。」
AもBの尾に付いて、豆腐に反対を唱える様子です。
「鰻かい?鰻はちっと利き過ぎるなあ。」
Cは顔をしかめながら、「いつもなら大串の二人前ぐらい訳なしだが、今朝はちいッと応えるよ。何しろ昨夜は君たちと違って、酒を飲まない代りに執拗い物を喰い通しに喰って居るんだからね。」
「そうだろう。来がけにライスカレーを喰って置きながら、むつの子とあひ鴨を己たちの分まで喰っちまって、後から赤貝に幕の内を喰った男だからね。──それでまだ豆腐が喰いたいのかい。」
話しの様子でも分る通り、この三人は昨夜からこうやって、一緒に遊び歩いて居るのです。ちょうど前の晩の宵の口に、代地河岸の深川亭で催されたTという人の送別会が、三人の顔を合わせたそもそもで、その会衆も二次会までは付き合いましたが、それから後は三人だけの三次会になったのでした。
まだ冬らしい冷たい風が吹いては居るものの、空はいかにもうらうらと晴れて居るのに、和服を着たAとBは、昨日の午後からの足袋を穿いて、乾いた往来をがらがらと引き擦って行きます。彼等は互いに無遠慮な句調で、悪口や冷やかしを言い合いながら、些細は警句にも小躍りをして可笑しがって居ますが、端で見る程単純な呑気な人だちでもないのです。正直を言うと、彼等は久し振りで、昔の飲み仲間が落ち合った嬉しさに、ついうかうかと浮かれ出して、際限もなくはしゃいで居るのです。
ちょうど今から四五年前、三人がまだ二十四五歳の青年で、漸く文壇に名乗りを揚げた時代には、彼等は殆ど毎日のように一緒になって、東京中のカフェを飲み歩き、遊里に出没したものでした。その頃の彼等は、文壇のある傾向を代表する機関雑誌に、三人ながら筆を揃えて花々しく打って出たのでした。のみならず、彼等はたまたま東京に生れて東京に育った「江戸っ子」の特性を持ち、都会人に共通な長所をも弱所をも相応に備えて居たので、殊に互いに話しが合うように感ぜられました。そうして、三人ともまだ学生の身分でありながら、壮年の血気まかせ精力を恃(たの)んで、凄じい放蕩と放浪との生活へ、とめどもなく沈湎(ちんめん)して行きました。田舎生れの芸術家には見られない。機鋒の鋭い弁舌と、応用の利く才智と、洗練された官能の趣味とは、心私かに彼等の誇りとした所で、遊びにかけては彼等はたしかに、外の同輩より一段も二段も上手でした。地方から東京へ出て来て、同じ雑誌社の運動に携わった人々は、舌戦においても酒戦においても到底彼等の敵ではなく、まごまごすると彼等から「洒落のわからない男」として軽蔑されたくらいでした。
しかしその実三人の交わりは、自分たちや同輩が最初に考えた程、それほど深く結び着けられて居たのではなかったのです。彼等は間もなくめいめいに、自分の性質や傾向が外の二人と大分違って居る事を発見するようになりました。AにはAの本領があり、BにBの使命があり、CにはCの天地がある事を、彼等は追い追いに気が付き始めました。これ迄三人が親密であったのは、彼等の芸術の目標が一致して居た為ではなく、ただ江戸人にありがちな利巧で遊び好きで諧謔(かいぎゃく)に富む肌合いが、共通して居た為だったのです。どうかすると、三人は三日も四日も流連(りゅうれん)して、財布の底をはたいた後、夕ぐれの待ちの四つ辻などで散り散りになり、悄然として思い思いの家路を辿る時などに、「己はいつ迄彼の二人に喰付いて居るのだろう。なぜ己は己だけの生活を営まないのだろう」などという後悔が自分の胸へひしひしと迫ってくるのを覚えました。「道楽がしたければ自分独りでするがいい。一緒になって無意義な軽口を叩いたり、迎合したりする必要はない。」こういう考えに絶えず責められて居ながらも、顔を合わせると彼等は直ぐに如才なく妥協してしまって、随分長い間、離れる事が出来ずに居たのでした。』
沈湎(ちんめん)・・・しずみおぼれること。特に酒や色にふけりすさんだ生活を送る事。
流連(りゅうれん)・・・何日間も家を離れて、他の場所にとどまること。遊里などで連泊し、遊び続けること。
『けれどもそんな不自然な関係が、永久に続こう筈はなく、二三年立つうちに誰からともなく段々疎遠になって行き、Bは父親の死に因って遺族の為に責任を持つ体となり、Cは山の手に一家を構えて妻子を養う身の上となり、ただAだけが旅館の一室を根城として、相変わらず漂泊の日を送り耽溺の詩を詠じて居ました。三人の境遇か異なるにつれて、三人の思想や感情や信条の相違が、だんだんハッキリと、作品の上にも行動の上にも現れて来るようでした。自然主義と言うイズムが、文壇を横行闊歩した当時、協力してその潮流に反抗して居た三人は、この頃の人道主義に対しても、いろいろの方面から不満や意義を抱いて居ながら、昔のように一致する訳には行きませんでした。三人は既に三人だけの不満や意義を抱くようになりました。BとCとは折々訪問し合って、Aの飽くまで徹底的な、寛濶(かんかつ)豪奢な放蕩生活の噂をしましたが、面も二人の間にさえも、芸術上の意見に就いては、夥しい経庭(けいてい)があるのでした。つまり三人、各々自分の持つべき物を持って、別れ別れになったのです。そうしてそれは、真の芸術が団体の運動から生まれる物でない以上、詩の世界が孤独を楽しむ人間の瞑想(あいさつ)にのみ開かれる物である以上、彼等の為には互いに仕合わせな傾向でした。
だが、その三人が昨夜(ゆうべ)久しぶりで、杯盤の間に見(まみ)えた時はどんな心地がしたでしょう
「おいほんとうに暫くだったね。君と一緒に飲んだのはいつが最後だったろう。」
Aがこう言って、懐かしそうな眼つきをすると、
「いつだったかなあ。──僕はあの時分に、あんまり酒を飲み過ぎて太ったもんだから、糖尿病になっちゃってね。今じゃあ一滴も行かないのさ。君は相変わらずよく続くなあ。」
こう言って、感嘆したのはCでした。
「しかしこの男がよく酒を飲まずに居るよ。よっぽど命が惜しいと見える。」
と、Bが冷やかしました。
三人の心は期せずして、傍若無人に暴れ廻った四五年前の盛んな光景を、追想せずには居られませんでした。BとCとは、未だに不羈奔放(ふきほんぽう)な酒色の生活を謳歌して居るAの姿に、自分等の昔を見出したような嬉しさを覚えました。
「やっぱりAは可愛いい男だ。さすがに彼奴は道楽にかけては己たちよりも腕を上げた。……」
以前は武骨は久留米絣に小倉の袴を穿いて居たAが、今ではもう一点の非の打ちどころもない、渋い結城の綿入れに博多の茶碗献上の角帯を締め、悠然と床柱に凭れて、馴染みの芸者と洒落た会話をやり取りしながら、静かに杯を挙げて居る様子を見ると、BもCもそう思わずには居られませんでした。
「Aだけがほんとうの放蕩児だ。己たちは偽物だったのだ。」
二人はそういう気のする傍から、
「己たちだって昔執った杵柄(きねづか)だ。」
というような了見がむらと起って来るのを覚えました。
都会の人には誰にでもある、派手な賑やかな男女の社会を恋い慕って、無益な綺羅を飾ったり通を誇ったりする虚栄心が、BにもCにもまだ充分に残って居たのでした。況んや彼等は、寂貘に堪えるには余りに婉転(えんてん)活達な軽口と、余りに豊富な衣食の趣味とを持って居ました。それが或る程度まで、彼等の長所であると同時に動ともすると弱点になったのです。
「どうです今夜は、これから一つ吉原行(トロゲンコウ)と言うような事にしたいもんだね。」
二次会の席上のどさくさ紛れに、CはBの耳の元でついうかうかとこんな事を囁きました。AとBとは言うまでもなく直ぐ賛成したのです。
言ってしまってから、Cは飛んだ事をしてしまった。と思いました。「己は馬鹿だ。行きたければ何故独りで行かないのだ。」と、自分自身の心になじりました。よく考えて見ると、彼は吉原へ行きたいなどという気は少しもなかったのです。ただ三人でいつまでも駄じゃれや悪口を言い合って居たかったのです。』
寛濶(かんかつ)・・・ゆったりしているさま。おおらかなさま。又は、派手で贅沢なさま。
経庭(けいてい)・・・隔たりの甚だしい事。かけ離れている事。
瞑想(あいさつ)・・・瞑想に”あいさつ”のルビがふってあった為、このような表記となりました。
不羈奔放(ふきほんぽう)・・・何ものにも束縛されない事。思い通りに振舞うこと、または、そのさま。
婉転(えんてん)・・・しなやかで美しいさま、その様子。または、したがう、素直。あるいは、ものやわらか、遠回しの意味。