ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

徳田秋声の折鞄(おりかばん)1

 小説を入力してみようチャレンジ、今回から昭和3年改造社から出版された現代日本文学全集 第18篇 徳田秋声集から「折鞄」に挑戦を始めました!ここでは左記の小説を現代語訳した上、下記の『』内に引用しております。徳田秋声の研究の一助になれば幸いです。

 
『 融(とおる)は何時(いつ)からかポートフォリオを一つ欲しいと思っていた。会社員とか雑誌新聞記者とか、又は医者のように、別段それが大して必要というほどのことはなかったけれど、しかしそれがあると便利だと思われる場合が時々あった。一日の汽車旅行とか、近いところへ二三日物を書きに出る場合とか、でなくても長い旅でもこまこました手回りのものを仕舞っておいて、手軽に出し入れのできる入れものが一つ有った方が便利であった。煙草、マッチ、薬、紙、ノート、頼信紙(らいしんし)、万年筆、雑誌、小さな書冊(しょさつ)、そんなような種類のものは、その全部でなくても、ちょっと出るにも洋服の場合は、ポケット、和服の場合は、袂(たもと)や懐に入れておけないことはなかったけれど、矢張(やはり)何か入れ物に取り纏めておく方が都合が好(よ)かった。しかしもともと事務的に出来ているポートフォリオが、事務家(じむか)とも遊民(ゆうみん)ともつかない老年の彼にふさうかどうか考えものであった。融は時々手提げの袋などを買って、その当座二三度持って歩いて悦んでいたこともあったが、何だかじじむさい気がして、いつでも棄てっぽかしてしまった。
「何(ど)うだろ、ポートフォリオを一つ買おうかな。」
 融は子供や妻と町を散歩したり、買いものに出た場合などに、鞄屋の店頭(みせさき)や飾店(かざりみせ)の前によく立停(たちどま)って言ったものであった。勿論それは実用品といい条(でう)、彼に取っては人のもつものを、ちょっと玩具(おもちゃ)に持って見たい程度の、子供らしい欲望でもあった。
「お父さんには少し可笑(おか)しいな。」子供は言うのであった。
 融はその時は子供に遠慮するように、買うことを止めたが、しかし何(ど)うかすると、鞄屋の前に足を止めることが、その後も時々あった。
 すると大晦日ちかい或る日のこと、彼は二三日それが続いたように、その晩も妻と大きい子供と町を散歩した。彼阿その前の晩も三人で、本屋を三四軒覗いて、劇に関する著述と俳諧に関する書物を買ったが、その又前晩(またぜんばん)にも、妻と二人で贈りもののお屠蘇の道具を買ったりした。ある晩なぞは途中で彼女がにわかに気分が変になって、急いで家(うち)へ引返(ひっかえ)した。
「何だか頭が変ですから、私帰りますわ。」
 彼女は悲しげな声で融に告げるのであった。
「ああ、それあいけない。大急ぎで帰ろう。俺が手を引いてやろう。」融は吃驚(びっくり)して、彼女の顔を見ながら言った。
「いいんですの。そんなでもないんですけれど、何だか変ですの。」
 融は若い時分から、時々出逢っているように急に、足の鈍くなった彼女が今にも往来に倒れそうな気がした。それほど彼女の顔色が蒼かった。顔全体の輪郭や姿も淋しかった。
「お前の顔色は大変悪いよ。まるで死人のようだよ。明朝(あした)医者においでなさい。何をおいてもきっとだよ。」融は語調に力をこめて、少し脅すように言った。勿論顔色がすごいほど蒼かったことは事実だし、秋以来ずっと健康を悪くしていることも解っていたけれど、その言葉には兎角病気を等閑(なおざり)にしがちな彼女を、少し驚かしておこうという気持ちの方が勝っていたことは事実であった。
 融は持病もちの彼女の健康に、彼女自身より以上の不安を抱いていた。もう二十年の余(よ)も前に、産後その病気が発生したときほどの嘆きと恐怖は、それほどでもなさそうなその後の経過と医者の診察とで、時々に薄らいでいて、年月がたつにつれて、慣れてしまっていたけれど、でも融はひびの入った危っかしい瀬戸物か何かを扱うような不安から始終離れることが出来なかった。そしてその病気に慣れて来てどうかするとまるで余所事のような顔をしている彼女を腹立(はらだた)しく思うことすらあった。
「自分独りの体だと思われては困るじゃないか。この頃はちっとも医者へ行かないようだが、近頃新聞によく出ている、腎臓から脳溢血をひき起して死ぬ人のことを読む度に、俺はぞっとするよ。」
 融はついこの頃も、朝早く起きて、子供の弁当なぞの仕度をして、疲れた顔をして長火鉢の傍にすわっている彼女を窘(たしな)めたことがあった。頭のわるい彼女は、朝起きを昔から辛がっていたが、ごたつく台所の音が耳に入ると、矢張り寝てもいられないのであった。それに一度起きると、ちょっと横になって体を安(やす)めるというようなことが、絶対に彼女には嫌いであった。
「早起きしたときは、子供を出してから少し寝るようにしたらいいじゃないか。」融はそうも言ったが、しかし融が心配して何か干渉がましいことを言っても、彼女はいつでも素直に、「そうしましょう。」と答えたことはなかった。各段融の言葉が耳に逆(はむか)う訳ではなかったし、腹では感謝しているんではあったけれど、彼女の気分は、融がじれじれするほど硬くてむずかしかった。融は煩く世話をやくことを、控えなければならないようになった。勿論融が気がつかない時でも、利尿剤とか、処方によった薬などを、そっと飲んでいることもあって、融がいらいらするほど、ずうずうしくなっている訳でもなかった。』


ポートフォリオ・・・この作品の場合は、書類を入れて運ぶ平たいケース。それ以外の意味では、写真家など自分の作品集の事を指す。
頼信紙(らいしんし)・・・電報を打つときに使う専用の紙。現在では、電報発信紙と呼ぶ。

 

『 その晩も、それほど気分が悪くなかったけれど、一晩熟睡すると、翌朝はまた、何のこともなかった。そして不断のように働いていた。それでその翌晩(よくばん)もまた町へ出て行った。
 それから又一日おいて、親子は三人で暮れの町へ出て行った。別に大した買いものもなかった。化粧品屋で何か二三品(ぴん)彼女が買っただけであった。
「どこかへ行こうかな。」融は途中旅へ出る自分を想像した。
「行ってらっしゃいよ。」彼女も勧めた。
「余り遠いところはいけないし、近いところは一杯だろうしね。」融は不決断に言った。
 彼等は、いつもの家(うち)で、彼女の好きな鮨を食べに寄ってから、帰路についた。
 途中融は思い出したように、鞄屋の飾店(かざりみせ)の前にふと立止まった。
「一つ買おうかな。」彼は子供のように惹着(ひきつ)けられた。
「お買いなさい、お買いなさい。」妻も賛成した。
「お父さんが使わなければ、僕が持って歩いてもいいや。」
「それも可(い)いだろう。」
 三人はぞろぞろ鞄屋へ入って行った。そして品物の選択に取りかかった。ああれかこれかと三人で良久(ややしば)らく詮議した果てに、彼女の助言で、到頭(とうとう)その中の一つに決めた。そういう場合の彼女の助言が、いつも不決断な融の意志を決定させた。必ずしも彼女がいつでも好(い)い買いものをするとは決まっていなかったかも知れなかったが、よく物を買いそこなう融には遠慮のない助言が必要であった。
 融は何だか嬉しかった。そして家(うち)へ帰ってからもいじくりまわしていた。彼はそれを提(さ)げて、ちょっと何処かへ行って見たいような気がした。
 その折鞄をさげ出して、融が駅前のホテルへ行ったのは、その翌日の晩方であった。融は年のうちに遣らなければならない小さい仕事が、まだ二つ三つあった。それに最近持病の胃腸がまたちょっといけなくなって、暫くお粥ばかり食べていたので、何処か暖かい海岸の温泉へでも行(ゆ)きたいと思ったが、仕事の都合でそうもいかなかった。彼はしかし健康は害していたけれども、気分は寧ろ積極的に傾いていた。今迄やって来た仕事や、現在の生活境地にある飽き足りなさと空虚を感じていたので、いくらか根本的な計画に取りかかりたい希望に急立(せきた)てられていた。そしてそれと同時に、自分自身の健康と妻の健康とをすっかりよくしなければならないことを感じていた。そしてもし経済状態が許すならば、家庭を離れて、静かな孤独の生活に入りたいとも願っていたが、長いあいだ染みこんだ家庭の臭(くさ)み──それは重(おも)に彼女特有の気分や流儀から割り出されたところの、決してそう無趣味でも不愉快でもないながらに、余りに世俗的で外面的な仕事に煩わされがちなことや、一応目端(めはし)がきいて、しっくり彼の気分に合ってゆくらしく思われる、日常生活の底に、どこか本当に融け合って行(ゆ)くことのできない、性格や気質から来ている矛盾が、遂にどうすることもできないものであることに、気づいて来ていたからであった。極端に言えば、彼女がほんとうに彼のものになり切ってしまったのは、三年前脳溢血で死んだ彼女の母を失ってからだと言ってもいいくらいであった。それでもまだ、小心で臆病で勝気な彼女は、ほんとうに自分の両手をひろげて、良人の胸に体を投げかけて来ることのできないような、それは遠慮といっていいか、頑固(かたくな)といっていいか、兎に角良人を信じ切ることのできない硬い感じが、彼女をひどく窮屈で哀れなものにしていた。そして何かにつけ人情ぶかい彼女ではあったけれど、本質的な深みのある夫婦愛には触れえなかった。恐らく融も、長いあいだの色々の場合における自己保存の必要から、対立的に自我的にならずにはいられない事情もあって、彼女が母を失うまでは、本当に彼女をいとしむことが出来なかった。
「Mーは郵便を出すのに不便だし、熱海や湯ヶ原も億劫(おっくう)だし、いっそ松の内だけでもホテルへ出てみようかしら。」
 融は二三日前、東京へ出る度に、いつも泊ることにしている、そのホテルへ来ているSー氏(エスし)夫妻にある劇場でひょっくり逢って、一緒に観劇に行っていた子供の一人をつれて、帰りに銀座のふじ屋の食堂へ入ってから、ホテルへ同道して、その部屋で暫く遊んで帰った。その時「暫くここへ来てもいいな。」とふと考えたので、ちょうどSー氏夫妻も来ているし、原稿を出すのにも便利なので、ポートフォリオをさげて、そこへ行ってみようかと思った。子供のないSー氏夫人はその時融の子供を見て、大きくなったのに驚いていた。
「お湯へお入りになりませんか。」夫人はお愛想(あいそう)に言った。
 融の長男はどんな人中(ひとなか)へ出ても、どんな豪(えら)い人の前へ出ても、うつむいたり硬くなったりするような事は、決してなかった。余り卑俗な人間でさえなければ、どんな年長者とでも離しの調子を合わすことの出来る性質に生まれついていた。そして融が辞退したところで、夫人は子供に勧めた。
「さあ。」彼はにこにこしていた。
「今用意させましたから。」
「そうですか。それなら入ってもいいですが…。」
 後でSー氏の子供観が出たりしたが、融は子供と一緒であっても、少しも父親らしいぎごちなさを感じなかった。』

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