ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

徳田秋声の折鞄(おりかばん)3

 小説を入力してみようチャレンジ、引き続き昭和3年改造社から出版された現代日本文学全集 第18篇 徳田秋声集から「折鞄」に挑戦中です!ここでは左記の小説を現代語訳した上、下記の『』内に引用しております。徳田秋声の研究の一助になれば幸いです。

 
『元日の朝が来た。
 融は少し寝過ぎて、時間がおそかったけれど、約束がしてあったので、電車で雑煮を祝いにわざわざ家(うち)へ帰った。雑煮は彼自身の好みで、いつもそれに決めているので、それでないと寂しかった。
 家(うち)へ帰ると、子供たちの多くは、もう屠蘇と雑煮を祝ったあとで、台所も一片づけすんだところであった。妻はちょっと億劫そうな顔をして、彼の来たことを、そう悦ばなかったが、ガスに点火して支度に取りかかった。
「どうしたんだ。又子供と喧嘩でもしたのか。」融は不平そうに言った。
 雑煮の鍋をしかけている彼女の顔が不断でもよくあるように、その時も淀んだ色に少しむくんでいた。でも、融は気にもかけなかった。
 彼女もいくらか元気づいて来た。
 風呂から上がって来た、十七になる愛子が、今にも消え入りそうな呻吟声(うめきごえ)を立てて、縁側まで来て、ぐたぐたと倒れた。融はあわてて妻を手伝って寝床へ抱きこんで介抱した。
「のぼせたんですよ。」妻はそう驚きもしないように言った。
 愛子はまもなく顔色が出て来て、口もはっきり利くようになった。そこへ年始の客が来た。妻は愛想よくそれを迎えて、屠蘇の道具やお重のものなどを運んで煮ものを取りわけたりした。部屋は例年のとおりに、狭いなりにきちんと片づいていた。
 その客が帰ったのをきっかけに、融もホテルへ帰ろうとした。
「え、貴方は忙しいんだから。」彼女も言った。
 融は彼女が疲れているのに気づいていた。帰ってしまえば、後で寝るであろうことを期待しながら、第二番目に来た回礼者(かいれいしゃ)と前後して、表へ出た。そして忘れた薬や何かを取りに、二度ばかり小戻(こもど)りしてから、急いで大通りへ出た。
 ホテルへ帰ってみると、Sー氏は卓子(テーブル)の前にかけて、一心に何か書きはじめていた。顔が緊張していた。融は部屋へ帰って、雑誌を読みはじめた。
 その晩彼はSー氏夫妻と、帝国劇場へ行ったが、何か落ち着かない気分であった。愛子がもしいけないようなら、ホテルへ電話がかかるだろう。そうしたら此処へもしらしてくれるだろう。彼はそんな事を考えながらも、いくらか春らしい劇場の空気に浸っていた。
 翌朝彼はけたたましい電話のベルに呼びさまされた。劇場から帰った彼は、疲れてぐっすり寝込んでしまったので、あわただしいそのベルの音(ね)の震動を耳にしながら、やや暫くそれがどこで鳴っているのかを意識しなかったが、ふと愛子のことが、仄かに頭脳(あたま)に浮かんで来たので、慌ててベッドからすべりおちるようにして、卓上電話にかかって行った。
「もしもし。」彼は夢現のなかで呼びかけた。
「お父さんですか。僕ですが…お母さんが悪いんです。どうも脳溢血らしいんですが…。」
 融はにわかに暗い気持ちになったが、脳溢血という言葉をそのままに受容れることは困難であった。
「じゃね、今直(います)ぐ帰るから、誰か好いお医者を一人呼んでおいてくれ。」融はふるえる声で、好い医者に力をいれた。
 融は大急ぎで、しかし割合に落ち着いて、着ものを着たり、折鞄に紙や万年筆を仕舞い込んだりして、別れをSー氏に告げに行った。Sー氏はもう床(とこ)を離れて、窓ぎわで仕事に熱中していた。
「家内が病気だそうで、僕これから帰ろうと思う。」融がいうと、
「そう。すっかり引揚げるですか。」Sー氏も無論それほどの事とは思わないらしかった。
 融はそれから又一旦部屋へかえって、下へ電話をかけて、会計と自動車を頼んでから、外套や襟巻をして、力ぬけのした足で、エレベーターの乗り場へ出て行った。
 下へおりると、Sー氏夫人が、もう其処へ出ていて、口数はきかなかったけれど、悲しげな目をして彼の降りてくるのを待っていた。融は滞在をほぼ一週間ときめて部屋代を払ってあったので、残り分の金を受け取って、しばらく自動車の来るのを待っていた。
「小型がよろしいんでしょう。」夫人はそう言って、二度ばかり出口までおりて見たりした。
 静かな朝の町に、初荷(はつに)の荷馬車や、貨物自動車が動いていた。融は苦い経験があるので、病気というと医者の不快を買うまdめお、大騒ぎをする癖がついていた。で、その時も脳溢血という言葉を、そのまま妻の現在の病気に引き直して考えることは出来なかった。それは劇場や電車のなかなぞで、真っ青になって仆(たお)れたことが、若いおりから三四回もあったからで、今度も多分それだろうという気がしたが、しかしそれにしても何時(いつ)ものより重いという感じが強かった。そして町が春気分に輝いていただけに、彼の気分も一層暗かった。

 家(うち)へ飛びこむと彼は部屋の隅にあった座布団のうえに、折鞄を投げ出して、そこに横たわっている妻を見た。妻は彼の裏の家(うち)にいるT-氏の夫人に介抱されて、静かに目をつぶって寝ていたが、眠ってはいなかった。掛かりつけの医者のGー氏と、Tー氏が融の机の傍に火鉢に当たっていた。
「今ね、電話でお帰りを止めようとしていたところです。」
そう言って皆が割合何でもなさそうな顔をしているので、融は出鼻を折られて、にわかに頭脳(あたま)が軽くなるのを感じたが、決して楽観はできないという気がした。
「そうですか。心配ないんですか。」
「大丈夫ですよ。静かにしておけば、落ち着きますよ。」Gー氏は事もなげに言うのであった。
 融は何だか安心出来ないような気もして、そのまま火鉢の傍にすわって、ホテルの話しなどしているあいだも、時々Gー氏にきいた。
「誰か一人呼ぶ必要はないでしょうか。」
「いや、いつものあれですから、心配はないですよ。」Gー氏は言うのであった。
 融は脳溢血の危険なこと恐ろしいことは、十二分に分かっていたけれど、診断がむずかしいものだとは思わなかった。で、今朝お雑煮をしまったあとで、何時(いつ)ものとおりに長火鉢にすわっていた彼女がふと嚔(くさめ)をしたところで、頭がぴりりと痛んだ。そして洟(はな)をかむと、痛みが一層強くなったと同時に、顔の色が変わって体が崩れそうになった。子供があわてて、背後(うしろ)へまわって介抱しようとした時には、彼女はもうぐったりとなっていた。
 融は、ぼんの窪のところへ手をやったり、鼻と耳のあいだを痛がったりしている彼女の状態に不安を感じながら、割合医者に信頼していたところもあった。彼女は後脳(こうのう)のあたりに、ざくざく針が刺さっているような感じがしているらしかったので、どうやら脳溢血らしいいう気もしたが、それにしては口もきけるし、手も動くので、やっぱり医者を信じていいようにも思った。
「まあ夕方までこうやっておいて下さい。」Gー氏はまもなく帰って行った。
 融は病床へ寄って行った。
「どうだね。」
 妻は目とこめかみのあたりへ手をやって、痛みを訴えた。
「いつもとは違います。」彼女は低い声で言うのであった。
 融は頭は脳溢血だという直観が大部分を占めた。
「急いでMー博士を呼んで来てくれ。」彼は長男に命じた。
 長男は出て行(ゆ)こうとしたが、急に彼女が止めるように何か言うのであった。そして同時に便通を訴えた。
「じゃ、ちょっと待って。」融は子供に言った。そして女中に便器をもってくるように命じた。
「じいっとしておいで。大便は僕が取ってあげるからね。動いちゃいけないよ。」
 そう言ってるうちに、上半身をもたげた彼女は苦しげな歪んだ顔に嘔吐を催して来たことを告げた。小さな洗面器が、持ち来(きた)されたところで、彼女の口から濁黄色(だくこうしょく)をした悪いものが、だらだらと吐き出された。そして吐いてしまうと、
「私もう駄目です。」と言って、ぶるぶる頬のあたりをふるわせながら、枕のうえに仆(たお)れた。が口籠ってしまった。目もあがってしまった。
 それを見ると融はにわかに大変だという気がした。そして、「早くMーさんを…そsれからG-さんにもそう言って。」
 Gー氏が来て、一本注射をしてまもなく、Mー博士もあわただしい様子で駆けつけてくれたけれど、何にもならなかった。恐らく彼女はそれから一時間ともたたなかったであろう。そしてそれが彼女の生涯の終りであった。』
嚔(くさめ)・・・くしゃみの事。