ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

室生犀星から中原中也への評価

 実は、室生犀星の日記には中原中也の詩に対する評価が書き残されています。室生犀星の随筆集に収録されている「浅春日記」には大変短くはありますが、中原中也の「山羊の歌」における感想が記されています。

 


 中原中也室生犀星のエピソードで有名なものと言えば、中也の友人であった安原喜弘氏が「山羊の歌」発売数日後に、室生犀星へ献本した本が神田の古本屋で売っていたのを発見し、憤慨した話しは有名です。
 これについては、伊藤信吉氏が当時の室生家には新人の詩人や文学青年が集まり、それらから貰った本を売り払い、飲み代にしていたという証言があります。この証言については、ひとまず置き。
 実際のところ、室生犀星中原中也に対する評価はどんなものだったのか確認しましょう!
「浅春日記」は1月24日木曜日からつけられた日記で、1月28日に中原中也の「山羊の歌」の感想がごく短く綴られております。
以下、『』内の文章は三笠書房より昭和10年に出版された「犀星随筆集」の「浅春日記」から現代語訳した上で引用しております。中原中也室生犀星の研究の一助になれば幸いです。


『 二十八日 月曜日 はれ也 ~中略~
 竹村書房から中川一政君の「武蔵野日記」と川端康成君の「抒情歌」とを貰う。小説の題名にいきなり「抒情歌」と名づけた意気込みは好い。~中略~
 「山羊の歌」詩人中原中也君の近業。旨さがぴったりとそれなくなっていた。四六二倍の立派な詩集。~中略~
 「堀辰雄短篇集」地味でこくのある作集。堀君の作品は書物にすると、いかに書物になることを作品自身が喜んでいるかのようにも思われる。「美しい村」でもそうであったが、今度もその感じが深かった。』


 さすがに中原中也の部分だけでは短すぎると思いましたので、皆さんが恐らくご存じであろう作家の評も同日内の日記に書いてある程、引用しました。室生犀星が「山羊の歌」の大きさを記していますが、卒業アルバムくらいの大きさだと考えて貰えればわかりやすいかと思います。当時の一般的な書物の大きさから言っても、これは破格なサイズで、室生氏が思わず四六二倍と書き記したのも頷けます。この「山羊の歌」は、現在では中原中也記念館で見る事ができます。私も拝見しましたが、生まれたての子ヤギくらいの大きさはあるように見えました!恐らく、当時としては本当に大きくて真っ白い表紙に、高村光太郎氏の題字がぱっと目に飛び込んでくる…そんな本だったのではないかと思います。


 ところで、この随筆集には室生犀星が書いた芥川龍之介の思い出が掲載されています。「憶(おもう)芥川龍之介君」と題された作品で、内容は芥川龍之介が亡くなってから「文藝春秋」から芥川龍之介との思い出を書いて欲しいと依頼され、したためたものです。内容から拝察するに、室生犀星芥川龍之介が死ぬ前日に室生家を訪ねていたことを知った上で、書いた思い出ではないか?とも読めます。室生犀星は随筆の書き出しにおいて、頂き物の螢が放つ光が何となく芥川龍之介が最後に書いた鬼気妖気の類いを感じさせて怖かったとしたためおり、芥川龍之介の死に対し何らかの呵責を感じていたのではないかと思いました。


 以下、『』内の文章は三笠書房より昭和10年に出版された「犀星随筆集」の「憶(おもう)芥川龍之介君」から現代語訳した上で引用しております。芥川龍之介室生犀星の研究の一助になれば幸いです。


『 「新潮」の芥川龍之介研究という座談会の記事を読んで、久米、広津の両君の芥川観が大変に面白かった。時は芥川君の好んだ梅雨の季節であるし、何となく芥川君のことを考えていると、「文藝春秋」から芥川君の思い出を書いてくれとのことであった。度たび追想記を書いたから今度は何を書こうか知らと、床に就いてからうつらうつらと考えていたが、茶棚の上に今朝ほど小林古径さんのお嬢さんから、家の娘におくられた近江の琵琶湖の大螢が白い蚊帳ごしに、明滅しながら燐のような光を放っているのを眺めた。籠が大きいので、立ったり落下したりする鋭い光芒が、陰陰として美しいというよりも妖しく、妖しいというよりも怖いような気がした。家人は睡り私と螢だけが家のなかに起きているようなものである。芥川君の最後に近い作品にある鬼気妖気の類が、この螢の光のなかからも分かれて入っているような気がし、私は容易に睡ることが出来なかった。』


 恐らく、芥川龍之介の魂を感じる瞬間があれば、彼を思い出して切なくも嬉しく感じても良いものだと思うのですが、室生氏はただ鬼気妖気の類に感じられて怖かったと書いている辺り、二人の間柄が芥川氏の最期にはどのような関係であったかが何となく察せられるように思えます。