ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

小林秀雄名言集3

 新潮社から出版されている全28巻からなる小林秀雄全集から、名言をまとめてみました。小林秀雄を読むきっかけ、あるいは小林秀雄の研究の一助になれば幸いです。以下、『』の内の文章は左記の全集からの引用となります。また、()内には引用した作品名を記載しております。

 

・『文芸の道は人が一生を賭して余りある豊富な真実な道の一つだ。文芸の批評は人物の批評と何等(なんら)異る処はない。この一種不遜な事業を敢行するには文芸を愛して恥じぬ覚悟が要る。』(マルクスの悟達)

 

・『天才というものも、この世に生れている限り、凡人と同じ構造の頭脳を持つ外はない。』(マルクスの悟達)

 

・『私には今動揺する心を秩序づけて語る術(すべ)がないのである。』(マルクスの悟達)

 

・『私という人間を一番理解しているのは、母親だと私は信じている。母親が一番私を愛しているからだ。愛しているから私の性格を分析してみる事が無用なのだ。私の行動が辿(たど)れない事を少しも悲しまない。~中略~私という子供は「ああいう奴だ」と思っているのである。世にこれ程見事な理解というものは考えられない。』(批評家失格Ⅱ)

 

・『洵(まこと)に身勝手な話だが、どんなに精密に書かれた書物でも、陰で作者の気質が光って居るのが覗(のぞ)けないものは平気で愚書だと断ずる覚悟が出来た。』(谷川徹三「生活・哲学・芸術」)

 

・『作品の鑑賞とは作者のゆめがどれだけの深さに辿れるかという問題に外なりません。だから、人々は、作品から各自の持っている処だけをもらうのだ、と言ってもいいので、大小説も駄小説も等しく面白がる事が出来る。つまり同じものを読んでいるのだ、一般読者には傑作愚作の区別はないと言っても過言ではない。』(井伏鱒二の作品について)

 

・『彼は文章には通達しております。瑣細(ささい)な言葉を光らせる術(すべ)も、どぎつい色を暈(ぼか)す術も、見事に体得しています。』(井伏鱒二の作品について)

 

・『「夜ふけと梅の花」の中に「鯉」という小品があります。これは彼の傑作の一つだと私は思っております。~中略~この小品は聊(いささ)かの無駄もなく、緊密な文字で一とはけで書かれている。』(井伏鱒二の作品について)

 

・『「丹下氏邸」は、外見は多彩ではないが、構造は最も完璧で、~中略~そこでは、彼は文字を完全にわがものとしています。一字も彼の心から逸脱しておりません。そこには、率直に人の純潔に訴える声があります。』(井伏鱒二の作品について)

 

・『科学は自然を解釈するだけで、評価するものじゃない。』(文芸批評の科学性に関する論争)

 

・『苦がい味いは昔日の朗然たる強さではもう支えられていない。つらい構えがみえ、摑(つか)みあぐんだ形がある。』(室生犀星

 

・『佐藤氏の感傷は最初から少しも酔ってはいなかった。病んだ薔薇は傷ついた理智以外のものを指してはおらぬ。「田園の憂鬱」或は「都会の憂鬱」で、氏は早くも持て余した繊細すぎる理智の解剖図絵を完了していた。以来、氏の小説でこの二作の完璧を凌(しの)ぐものがあるとは私は思わない。氏はただ恵まれた多才を駆って誠実に知的倦怠(けんたい)を苛立しく反芻(はんすう)していただけである。』(室生犀星

 

・『芸術はいつの世でも強烈な個性を必要とする。社会は芸術を生産する大きな工場だが、大工場が必ず精密な実験室を必要とする様に、作家は社会とは明からさまな交渉の不可能な個性的理論をはぐくんでいるものだ。』(谷崎潤一郎

 

・『氏が表現する感動の美しさや、生ま生ましさには必ず生理的陶酔或は苦痛の裏うちがあるので、歯痛から起る幻想を取り扱った「病蓐(びょうじょく)の幻想」という短篇は、氏の言語影像喚起に関する見積書だと申して差支えない。氏は官能上の鮮やかなかたちを握らなければ何物も想像(創造に通ず)する事が出来ない作家だ。』(谷崎潤一郎

 

・『もっと親しく真実な、人間の汚ならしさや、意地穢(いじきた)なさのまことに美しい表現がある。』(谷崎潤一郎

 

・『やっぱり或る人の宿命とその人の作物という陰惨極まる問題がのぞいているに違いない。』(「安城家の兄弟」)

 

・『「仰臥漫録」中に、病苦に堪えかねて、小刀と錐(きり)とで胸を突こうと思い乱れる処が書いてあります。幾度読んでも胸がふさがる思いがします。そして一方、のんきな申し分だが、実に名文とつくづく感じます。というのは、ああいう切端(せっぱ)つまった、激しい心を表現した字面が、いかにも冴返って冷たい色をしておるのです。』(正岡子規

 

・『作家にとっては、影響を受ける(影響を与えるという事は、彼には何の意味も持たない)という事は、同化、再生という、分割出来ぬ過程を意味します。』(フランス文学とわが国の新文学)

 

・『「キャラメル工場から」には、氏の真っ直ぐな心が何の苦もなく一杯に輝やいている。~中略~そこには、覚えたものも、借りたものもない、一日々々をほんとうに暮した心があふれている。~中略~きれいな心以外には、何んにも知らない娘が、黙々として、キャラメルを包んでいる間に、一瞬々々に、はぐくまれて質量を増して行く発音しない心がある。』(文芸月評Ⅰ)

 

・『鍛錬された心の輝きである、鍛錬しようとも思わずに、鍛錬された、素朴な心の輝やきである。』(文芸月評Ⅰ)

 

・『今はみんな終った。何も彼もが妾に背中を向けて、遠くの方へ歩いて行きます。』(おふえりや遺文)

 

・『いくら気が違っても、肩から羽は生えてはくれなかった、妾はやっぱり、この世にいた、この世に引摺(ひきず)られていたのです。何んという穢(きた)ならしい、情けない事でしょう。』(おふえりや遺文)

 

・『妾はもう、一と足も動く事が出来ません、丁度、今朝見た花束の様に。ああ、そうだ、もしかしたら、あれは妾だったのです、きっとそうです、そんなら妾を握っていたのは誰の手だろう。』(おふえりや遺文)

 

・『夜が明けたら、そう、夜が明けたら、それまでは、どうぞ、お喋舌(しゃべ)りが、うまく妾を騙(だま)していてくれます様に、こうして書いている字が、うまく嘘をついてくれます様に……』(おふえりや遺文)

 

・『悲しい目に会うと、ふと心に浮んで来る様に、色んな事がわかるものです。』(おふえりや遺文)

 

・『……言葉はみんな、妾をよけて、紙の上にとまって行きます。』(おふえりや遺文)

 

・『いじめられる人が、どんなに沢山のものを見ているのか、おわかりなければ、それは又別の事です。』(おふえりや遺文)

 

・『生きている事があんなにこみ入っているくせに、何んと簡単におしまいになる……』(おふえりや遺文)

 

・『みんな知っている。隅から隅まで知っているあの風景が、どうぞ、そのままでいる様に、何一つ壊れないでいる様に。』(おふえりや遺文)

 

・『「生まざりしならば」或(あるい)は「入江のほとり」とかいう短篇は、氏の作で最も人口に膾炙(かいしゃ)した、というより大いに人口に膾炙して欲しいと言った方が正確かもわからぬが、ともかく著名だから例にあげるのだが、氏の作品で一流品と覚(おぼ)しいそういう制作の持っている残酷な味いを、私は大変美しいものと感ずる。』(正宗白鳥

 

・『「のんきな患者」を読み、「檸檬」一巻を再読して、氏の作の憂鬱冷徹な外皮の底に私がさぐり当てたものは、やはり柔らかい感情であった、人なつこく親密な情感と云ってもいい程の柔軟な感情の流れであった。氏の作を乱暴に読んだ人々は恐らく意外とするであろうが、恐らく氏の感情の流れはいかにも孤独の人のものであるがためだ。孤独な人の心はいつも通行人には開けていない。』(梶井基次郎と嘉村磯多)

 

・『都会の塵埃(じんあい)の中に一顆の檸檬を買い、彼が探りあぐんでいた率直な明朗性が、この果物の伝えるいかにも単純な冷覚や嗅覚(きゅうかく)や視覚に生きている事を発見して感動する、彼は呟(つぶや)く、──つまりはこの重さなんだな──総ての善いもの総ての美しいものを重量に換算して来た重さを掌の上に感じて彼は幸福になる。』(梶井基次郎と嘉村磯多)

 

・『常識というもので汚れるくらいやさしい事はない、ぼんやりと年をとって行けば充分なのである。』(批評に就いて)

 

・『作品から人々がほんとに得をするのは作品に感服した場合に限るので、とやかく批評なぞしている際に、身になるものは事実なんにも貰っていやしないのである。』(批評に就いて)


以上、上記文章は全て「小林秀雄全作品3 おふえりや遺文」より引用しました。

 

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