ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

小林秀雄名言集4

 新潮社から出版されている全28巻からなる小林秀雄全集から、名言をまとめてみました。小林秀雄を読むきっかけ、あるいは小林秀雄の研究の一助になれば幸いです。以下、『』の内の文章は左記の全集からの引用となります。また、()内には引用した作品名を記載しております。

 

・『今日可愛がられている批評家の言葉が、人手から人手に渡り歩き、どんなに一銭銅貨の様によごれている事か。』(現代文学の不安)

 

・『美が欲しいのではない、生理的快感が欲しいのだ。何物も教わりたくはない、ただすべてを忘却したいのだ。時間を、神経を消費したいのだ。見たくはないのだ。酔いたいのだ。』(現代文学の不安)

 

・『不幸を感じている人より不幸に慣れて了った人の方が不幸である。』(現代文学の不安)

 

・『自己嫌悪とは自分への一種の甘え方だ、最も逆説的な自己陶酔の形式だ。』(現代文学の不安)

 

・『現実を眺めて、その遠近法ばかり研究していても仕方ない。』(現代文学の不安)

 

・『己れを棚に上げた空論が、己れの姿をかくしている時、そういう時にこそ、作家は各自が手をつくして、その宿命、その可能性、その欲望を発見しようと努める可きである。「私達には、自分の考えを他人の表現に従って理解する事が無暗(むやみ)に多すぎる」とヴァレリイは言った。』(現代文学の不安)

 

・『映画を見に出かける人々には、酒場や踊場に行く人々と全く同じ基本的な念願がある。自分では織れなくなった夢を織って貰(もら)いに行くのだ。』(小説の問題 Ⅰ)

 

・『酔うとは又理解の一形式に過ぎないので、人々は納得しながら酔うのである。』(小説の問題 Ⅰ)

 

・『私の言いたいのは、この二作家は戦争のお蔭で事実というものの前で正当に戦慄(せんりつ)する事を知った人達だという事だ、事実というものが如何に語り難いものかという一種の絶望感の上に、二人のリアリズムは織られているという事だ。』(小説の問題 Ⅰ)

 

・『重ねて来た実験経験をたのみに、若い者を虐待する。その実、経験などはとうの昔に忘れているのだ。虎の子にしているものが、経験から割り出した、従って経験とは似ても似つかぬ哲学乃至(ないし)は処世法に過ぎぬとは気がつかない、少くとも気がつきたくない。』(小説の問題 Ⅱ)

 

・『読者は小説を読み、世の風俗や習慣や、乃至は感情や思想に就いて多くを学んだ積りでいるだろうが、ほんとうの処は、自分が世間を理解している以上のものは、何にも小説から汲みとっていやしないのだ。いい小説は読者が進歩すればする程進歩する。』(小説の問題 Ⅱ)

 

・『芥川氏が逆説で武装したロマンチストであり、氏の高名はその実質によるよりも、寧ろその花々しい形式乃至(ないし)は劇的な最期によるという事は真面目に考えている。』(逆説というものについて)

 

・『万人のために書かれた一流文学作品も、精読される機会というものを、そうたんと持っているものじゃない。ましてや、極少数の読者を相手にする、或(あるい)は事実上相手にせざるを得ない文学的表現、というより寧(むし)ろ文学志望的表現が、精読される機会は実に絶望的に少い。』(同人雑誌小感)

 

・『この世に思想というものはない。人々がこれに食い入る度合(どあい)だけがあるのだ。だからこそ、言葉と結婚しなければこの世に出る事の出来ない思想というものには、危機を孕(はら)んだその精髄というものが存するのだ。』(Xへの手紙)

 

・『社会は人々の習慣によって生きる。社会革命とは新しい習慣をあらたに製造する事だ。』(Xへの手紙)

 

・『批評文の作者はいつも、ある命題が心に浮ぶと同時に、その反対命題が心に浮ぶくらい鋭敏でなくてはならぬ。』(手 帖 Ⅰ)

 

・『惟(おも)うにすべての名言は、万人がわれ知らず心得ているまさしくその点を、その点のみを射抜いている。あんまり解りすぎているからこそ解り難い。この名言の持つ奇妙な性格がやがて名言が人なかを渡り歩く時に、あたりかまわず発散させる臭気の源をなす。』(年末感想)

 

・『正宗白鳥氏の「文壇人物評論」、先日熟読して感服した。近頃の名著である。
 氏がどんなに親身になって他人の作品を読んでいるか。ここにこの本の魅力の源があり、氏の評論の最も驚くべき点がある。氏の理解力や教養も、無論並々ならぬものには相違なかろうが、それだけではこういう本は書けないのだ。
 氏はいうまでもなく、今日の様に未だ文芸批評における客観的立場とか主観的立場とかいう問題が激しく論じられなかった時から終始一貫、文学を文学の立場から、主観的に批評して来た人であった。』(年末感想)

 

・『何故に人間の捕えた理想は空しいのか。それは単なる人間精神上の戯れだからだ。』(年末感想)

 

・『真に有益な方法論は、どこを切っても血がにじむように原理がにじまねばならぬ。』(年末感想)

 

・『批評が出来るからといって助言が出来るとは限らぬ。助言というものはもっと実際的な親身な筋合いのものだ、と私は考えたい。』(作家志願者への助言)

 

・『だいぶ以前のことで、何んの雑誌だか忘れて了ったが、文学志願者への忠告文を求められて菊池寛氏がこう書いていた。これから小説でも書こうとする人々は、少くとも一外国語を習得せよ、と。当時、私はこれを読んで、実に簡明的確な忠告だと感心したのを今でも忘れずにいる。こういう言葉をほんとうの助言といいうのだ。心掛け次第で明日からでも実行が出来、実行した以上必ず実益がある、そういう言葉を、ほんとうの助言というのである。批評はやさしく、助言はむずかしい所以(ゆえん)なのだ。』(作家志願者への助言)

 

・『他人を理解するとは、他人の身になってみる事だ。』(文学批評に就いて)

 

・『文章は自分のものでいて、決して自分の思う儘(まま)にはならない。』(手 帖 Ⅲ)

 

・『知性が勝ち過ぎて、冴え返っている作家は、どうしても一般の読者から敬遠され易い。悧巧(りこう)すぎる人間には親しみ難い様なもの』(アンドレ・ジイド)

・『丁度自然が矛盾のままに解決している様に、芸術だけが矛盾のままに調和する事が可能な国なのだ。』(アンドレ・ジイド)

 

・『矛盾とはつねに知性上の問題である』(アンドレ・ジイド)

 

・『思い出のない処に故郷はない。確乎(かっこ)がる環境が齎(もたら)す確乎たる印象の数々が、つもりつもって作りあげた強い思いでを持った人でなければ、故郷という言葉の孕(はら)む健康な感動はわからないのであろう。』(故郷を失った文学)

 

・『ほんとうに彼等の心をつかんでいるものは、もっと地道なものなので、作品に盛られた現実的な生活感情の流れに知らず識らずのうちに身を託すか託さないかという処が、面白いつまらないの別れ道だと、私は信ずる。』(故郷を失った文学)

 

・『一体老成した表現にはすべて知らず知らずに人を引きつける強い魅力がそなわっているもので、人が何かに酔って頭が興奮していない限り、そういう魅力はごく自然に人を捕らえるものだ。』(文芸月評 Ⅱ)

 

・『批評は作品を追いこす事は出来ない、追い越してはならぬ。』(批評について)

 

・『人は煙草に中毒する様に文学に中毒する。』(批評について)

 

・『この世を如実に描き、この世を知りつくした人にもなお魅力を感じさせるわざを、文学上のリアリズムと言う。これが小説の達する最後の詩だ。』(批評について)

 

・『文学文学と一と口にいうが、文学だって生き物の様に育つもので、ほんとうの文学になるのには年月がかかる。作品が生産され、歴史という公平無私な大批評家の手にかかり、はじめてほんとうの文学作品として落着くのである。』(文芸時評

 

・『作品は現実的に死んで古典化して行くとともに又その輪郭を明らかにして行く。』(文芸時評

 

・『人間はこの世が簡明にみえる青年期を過ぎると、あまり複雑で手の付け様もない世の実状を眺める様になる。これを乗り切るとこの世は案外単純な相を呈して来る。』(文芸時評

 

・『例えば秋声とか白鳥とかいう人々が今も昔乍(なが)らのものを書いていてやはり人を引きつけるものを持っているのは、ああいう人々は自然主義的ものの見方と一緒にもう一つのもの、一口に言えば現実の冷い作家たる観察眼をもっている。』(「文藝春秋」と「経済往来」の作品)

 

・『孔子の言葉を、はじめて熟読した機会に、彼の言葉のもつ美しさについて色々思いをめぐらした。長い年月を生き長らえた言葉のなんという簡明、なんという率直。』(手 帖 Ⅳ)

 

・『「春琴抄」の発表された月、徳田秋声氏の「和解」という短篇が出た。僕はこれにもずいぶん感服した。後に発表された力作「死に親しむ」などの方が世評はよかったようであるが、僕は「和解」の方がすぐれていると思っている。』(文芸批評と作品)

 

以上、上記文章は全て「小林秀雄全作品4 Xへの手紙」より引用しました。

 

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