ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

泉鏡花作品解説集8

清水書院から1966年に出版された「泉 鏡花 人と作品」に掲載されている解説は、主立った作品が書かれた時代背景や、泉鏡花自身が作品を書くにあたっての人生の背景を仔細にまとめてある好著です。以下、『』内の文章は左記の本からの引用となります。また、今回は文中に誤字がありますが、原文を尊重し、そのまま掲載しておりますこと、予めご了承ください。泉鏡花の研究の一助になれば幸いです。

 


 歌行燈


 『詩人というものは、たえず独創的(オリジナル)なことばによって、独創的(オリジナル)なイメージを生み出していくものである。
 清水へ祇園をよぎる桜月夜
   こよび逢ふ人みな美しき
 この歌の中の、桜月夜ということばは、与謝野晶子以前には、つまり日本文学の中にはかつて見られたことのないことばである。したがってそのイメージも晶子によってはじめて形象かされたものといえる。同じように「なつかしい橙(だいだい)色の掛行燈の灯影」にどこからともなく、
 博多帯しめ筑前絞り
 田舎の人とは思はれぬ
 歩く姿が、柳町
 と、その門付けの歌声のものさびしく艶なる情緒をダブらせ、イメージ化して、『歌行燈』の造語を生み出し、これを題名とした作者の詩才に敬意を表したい。
 「泉鏡花小解」によると、
 「板塀の小路、土塀の辻、経路(ちかみち)を縫ふて見えて、寂しい処幾曲り。(中略)
  月の庇(ひさし)を覆うて、両側の暗い軒に、掛行燈が疎に白く、枯柳に星が乱れて、壁の蒼いのが処々(ところどころ)。長い通りの突当りには、火の見の階子(はしご)が、遠山の霧を破って、半鐘形活けるが如し。……火の用心さつしやりやしせう……金棒の夜更けの景色。霜枯時の事ながら、月は格子にあるものを、桑名の妓達は宵寝と見える。
  
  月下の霜の桑名新地、真景やや写し得たらむ歟(か)。」
 これは本作を書く前年(明四二)、かねてから親しい交わりを結んでいた笹川臨風らと、桑名へ講演旅行にいった当時に、スケッチしたものである。
 当時、文壇の主流は、鏡花特有のロマンチシズムを前近代的なものときめつける自然主義運動によって占められてはいたが、しかし、この明治末期になると、反自然主義の立ち場をとる「スバル」「三田文学」等による、新ローマン主義の作家群永井荷風・木下杢太郎・谷崎潤一郎が、耽美的・芸術至上主義的なそれぞれ特色ある作品を発表、また一方、トルストイズムによる人道主義的な白樺派の文芸運動も起ってくる。これら新ローマ派の人々がは、鏡花作品の芸術至上主義を肯定する立ち場にあったので、鏡花も文壇から孤立したわけではなかった。
 明治四十二年四月、硯友社の息のかかった後藤宙外(ごとうちゅうがい)が、反自然主義派の作家を集めて文芸革新会を創立すると、かねて宙外とは、「新小説」発刊以来の間柄であった鏡花も、招かれてこの一員に加わった。その年の秋、宙外は、この文芸革新会のメンバーを引き連れて、地方講演の旅に上った。鏡花も笹川臨風らとともに、宇治山田・名古屋・桑名などを巡遊していった。
 かねて鏡花は、近世十返舎一九の「東海道中膝栗毛」を、枕べ去らず愛読して、親友臨風を弥次さんと呼び、みずからを喜多八になぞらえてこの伊勢路の旅をしていった。この『歌行燈』の書き出しは、二老人が、たがいに弥次さん喜多さんとふざけ合って桑名の旅宿へ向うところからはじまっているが、それはそのまま鏡花と臨風のすがたである。
 すでに述べたように、鏡花の父親清次は、彫金のかたわら、前田候に仕えて能の鼓をつとめてたほどの男。また母親鈴は、加賀宝生流能楽師の家がらに生まれた人。したがって鏡花には、わが家系が古典芸術につながっているのだという誇り、そして伝統美に寄せる心情は郷愁に近いものがあったにちがいない。かてて加えて作者の中世的・神秘的神韻縹渺(ひょうびょう)たる幽玄の世界に遊ぶもって生まれた資質があった。したがって、本作品を解明するには、まず古典芸術能楽美を鑑賞する素地を持って対しなければならないということになる。
 血気にはやって身を破った主人公の恩地喜多八のモデルは、この道の権威宝生九郎に波紋された天衣無縫の天才児瀬尾要であろうといわれている。
 「宝生流に瀬尾要と言ふのがあつた。一体宝生の若手連は遠目鏡の尻から九郎の芸を窺(のぞ)いた格で、小さい九郎が幾人も動いて居る様なものであるが、この瀬尾要には此仲間に見る事の出来ない、一種の特徴があつて、単に模倣のみではない、個性から流れ出る侵すべからざる芸の力が見えた。何しろ猿楽町の舞台の隣りで生れて乳呑みの頃から舞台を這ひ回つて、叩き込んだ芸であるから、たしかな腕で、同じ型を遣るにしても、自ら気品に溢れていたが、才人は多く放縦で、我儘が過ぎるものである。芸は惜しいが、他の者の見せしめ、規律の前には如何とも致し難く、遂う遂う破門されて御勘気の身の上となつた。今は何処に居ることか……。」(「能楽座談」明四四・九)
 古典的能楽の世界に、貴種流離談(身分・地位のある人間が事情あって漂泊するという類の物語)という、語りの原型をないまぜにして、さらに序破急という、謡曲の作劇術(ドラマツルギー)によって構成したものである。ともすれば、陳腐に堕すストーリーを、例の天才的な麗筆によって、書き上げたというよりは、歌い上げたというべき作品である。
 発表されたのは明治四十三年の一月、「新小説」誌上に発表されたものであった。師の紅葉が没して七年、自然主義によって占められた文壇の本流からは外れているとはいえ、事実上硯友社の第一人者をして、その才筆は円熟期を迎えていた。この前後、「新小説」「文芸倶楽部」「新潮」「太陽」「文章世界」「中央公論」等、当代一流の雑誌に作品を発表また、『風流線』を「国民之友」(明三六・一○)に、『白鷺』を「朝日新聞」(明四二・一○)に、またハウプトマンの『沈鐘』を、登張竹風(とばりちくふう)との共訳で、「やまと新聞」に連載。また一方、鏡花文学のもつドラマティックロマンチシズムと、きれのよい会話、加えて市井の庶民感情に合致した人物配置は、舞台で上演するのにふさわしいことが認められ、東京・大阪の大劇場で『高野聖』『通夜物語』『白鷺』『辰巳巷談』『湯島詣』などが上演されていた。
 また私小説の面では、紅葉の死によって、すず夫人(桃太郎)と正式に夫婦になることが出来て精神的にもある種の安らぎを得ることが出来た。しかし、一時健康を害して、逗子田越に転地して三年ほどそこですごすということもあったが、この作品を執筆するころには、親友笹川臨風の世話で東京、麹町土手三番町に居を構えている時代であった。』

turugimitiko.hatenadiary.jp