ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

徳田秋声の尾崎紅葉5

 随分と間が開いてしまいましたが、更新を再開しました!お待たせしました!このシリーズは旧ブログに掲載していた分は1~4までにまとめております。5からが完全な更新分となります。ややこしくて申し訳ないのですが、旧ブログで7まで読まれた方は今回更新分の5が続きになります。よろしくお願いいたします。また途中、中断を挟みましたが徳田秋声尾崎紅葉シリーズも今回で最後です。おつき合い下さった皆様方、本当にありがとうございました!

 
 以下、昭和3年改造社から出版された現代日本文学全集 第18篇 徳田秋声集から「尾崎紅葉」に挑戦中です。ここでは左記の伝記を現代語訳した上、下記の『』内に引用しております。徳田秋声尾崎紅葉の研究の一助になれば幸いです。

 

『先生の言文一致はこの作が初めてだか、筆者は今記憶していないが、生涯に文体の幾変遷していることは明らかである。「多情多恨」あたりでは、大分それが調って来ているけれど、「隣の女」の文章などは、先生にしては余り上出来ではない。兎角文語が口語とこなれ合っていない。
 「多情多恨」は恐らく先生一代の傑作であろうか、以上諸作のようなストーリイ風の、もしくはロマンチックな色彩から脱して、日常生活を取扱っている。以上が江戸文学の継承なら、「多情多恨」はたしかに現代の(当時の)生活の描写である。人間を描くにも、単にその輪郭や一般的人情に止(とど)まらず、個性的なものに心理描写を試みている。これは確かに先生の進歩である。しかしここでも深刻であるべき悲劇が往々にして洒落と諧謔のために、擽(くすぐ)りの喜劇となっている。先生をヒューマニストと看(み)れば、それも結構である。多少先生もそれを自覚していたのか、モリエールの翻案を試みたものもある。「夏小袖」、「八重襷(やえだすき)」がそれである。
 これは勿論先生が直截訳したものではない。誰かの訳したものを、紅葉流に焼直したものである。
 西洋からもって来たものは、尚その他にも沢山ある。「隣の女」はモーパッサンのように記憶しているが、分明(ぶんみょう)でない。翻案であることだけは間違がない。「寒牡丹(かんぼたん)」もそうである。「冷熱(れいねつ)」がデカメロンの焼直しであることは勿論だが、「寒牡丹」は兎に角、「冷熱」も「隣の女」も甚だ脂(あぶら)の乗らないもので、文章も生硬(せいこう)だと思う。
 「多情多恨」には粉本(ふんぽん)がある。それは英国から米国の通俗小説から来ている。筆者はその原作を先生の家(うち)からもって来て見たことがある。
 更に筆者の知るかぎりでは、「金色夜叉」も或いはその主題は外国の作品から来たものではないかと思うのである。今詳しく覚えていないが、確かに其(それ)からヒントを得たらしいものを、同じ先生が読んだものの中(うち)に読んだことがある。これは勿論ヒントだけである。
 「多情多恨」は先生が「我家の小説は米の飯(めし)なり」と自負しただけあって、平々(へいへい)淡々のうちに、愛妻を失った若い男の悲しみと孤独の寂しさのうちに、亡妻の妹や、葉山と親友夫婦の家庭との交渉などを、先生にしては粉飾のない写生文式(しゃせいぶんしき)の筆で叙(じょ)したものであるが、詩味(しみ)の乏しくないものである。尤も先生の第三期の作品が、殊に常識的な処世哲学のようなものの多いことであるが、「多情多恨」にもそれが多いけれど、この作品はユーモアをもって優っているもので、その底に一味(いちみ)の感傷が流れている。戯作風(げさくふう)のところは先ずないと言って可(い)い。テーマも新しくて気がきいている。鷲見(すみ)が段々葉山の細君に愛を感じにゆくところも自然である。
 作中の副主人公葉山は紅葉先生自身の画像といっても可(い)いくらい、先生の友情や、洒落や、家庭観や、処世哲学が出ている。それは俗世間を知っているというだけのもので、常識の範囲を出ないのであるが、それなりに可なり條理立(じょうりだ)ったものであるから、先生の或時の座談と思って左(さ)に摘出する。

 

    尤も人間という奴は弱いもので、所帯を持った日には、から意気地は無いものさね。幾許(いくら)才子(さいし)だの色男だのと顎を撫でても、それは親爺のソップを啜っている時分の太平楽で、モッと笹折(ささおり)を提げて親睦会を抜けて帰ると、貴女また差配が来ましたよ、などと脅迫されるような始末じゃ、萎縮(しみたれ)ずには居られないよ。何といったって、独身の内のように気散(きさんじ)は無いのさ。割前(わりまえ)で、蕎麦を食って、帰りがけに、一寸(ちょいと)その時計を貸し給え、などという塩梅に物事が手軽に行(ゆ)きません。…夫婦の間(なか)は魚(うお)と水との如(ごと)しさ。君などは別して睦じかったから、穴と鰻との如しだったよ。亭主は動き廻るから魚(うお)だ、内君(かみさん)は澄しているから水だろう。その魚(うお)を求めるのだよ、…と言うと、何だか私が酷く細君に恐れ入っていて、君が常住(じょうどう)来るのを細君が陰で可厭(いや)な顔でも為(す)る所から、その禁呪(おまじない)にちッと胡麻を摺って置いてくれ、と頼むように聞こえるけれど、那様(そんな)不見識なのじゃないよ…。

 

 しかし何と言っても此の作は少し理詰めで、先生が家庭人(かていじん)として、次第に真面目に、道徳的になって来たことが、この作品で覗えるのである。冗長の嫌いはあるが、先生の転機を示すに十分である。
 「金色夜叉」は最後の作で、勿論先生の傑作の一つである。
 「多情多恨」は言うまでもなく、その他(た)の作も、長篇小説らしい結構のものは少ない。叙説が細かく丁寧なので相当に長くなってはいるようなものの、質から言って短篇小説というべきものが多いのであるが、「金色夜叉」に至って、先生は初めてヤマの多い小説に取りかかったのである。筆者はこの作を全部読んではいないが、新聞の読みものとしては、筋立ての極めて面白い、場面の変化の多い、先ず成功したものと言わなければならない。しかも、此の作にはモデルがある。先頃、小波(さざなみ)氏が「金色夜叉の真相」と題して、発表されたところの紅葉館の××という女が、ある実業家に靡いたので、友人の紅葉先生が、友人を裏切ったのを憤慨して、紅葉館の玄関先で、その人を足蹴にしたとかいう、それが作品では、熱海になっているのだそうである。勿論、熱海の場面が、最も熱が乗っているし、芝居にしても、最も前受けのするところであるが、筆者などには、何となく厭味であるのは、実感すぎるからではないだろうか。
 先生が文章に凝ったことは、「金色夜叉」がその最もひどいもので、この文体を案ずるだけでもかなり苦しんだものである。一作毎に、スタイルをかえるのが先生の味噌で、文章が何よりも大事だったのである。「金色夜叉」は、欧文脈のようなものが、多少入っているが、言文一致に進んだ先生が、更にこの怪奇な文章へ行ったのは、やや「多情多恨」の平淡味(へいたんみ)に興を失ったからではないだろうか。最も結構にふさわしいものとなると、最も力強い文章を選ばなければならなかったのである。
 この「金色夜叉」は漱石氏の「吾輩は猫である」と或る部分は同時代であったと思うが、ずいぶん時代の違ったものであるとはいわなければならない。
 先生の身辺小説ともいうべきものに、「青葡萄」という事実の記録のような写実的な作品がある。これは「多情多恨」などよりも前のものかと思われるが、先生と風葉、春葉両氏の関係、後進に対する温かい心遣いなどが、実によく出ている。しかしそれよりも興味のあるのは、その頃の文学青年に対する先生の憤慨で、それにも先生の喧(やか)ましい道徳家であったことが覗えるので左(さ)に録(ろく)しておく。
 
    凡そ天下に小癪に障るものは、近来後進とか称(とな)える修行中の小説家である。彼等の礼を心得ぬことは山猿より甚しい。一面識もないのに卒業(ねう)と刺(し)を通じて…何処へでもお世話を願いたい──驚かざるを得ぬ、呆れざるを得ぬ。…是等(これら)は未(ま)だ可(い)い。二度でも三度でも斧正(ふせい)を辱(かたじけな)うして、何(どう)かこうか世間に紹介してもらって、覚束なくも独歩(ひとりあるき)が出来るようになる、さあその御無沙汰、近火(きんか)があろうが、それから十日経とうが顔を出すでもない。…然し未(ま)だ可(い)い、現在立派に門下生と称して、草稿も持ってくれば、巨(いか)にお世話になっていながら、陰へ廻ると、先生を同輩に遇(あしら)って、其名を呼捨(よびすて)にしたり、(あれがなどという代名詞を用いたりして其人物を貶し、其文章を罵るのである。

 

 以上は紅葉研究といっても、ほんの粗末な感想に過ぎないのである。勿論研究というほどのものではない。唯、紅葉研究の多少の参考になれば幸いである。(秋声)』

 

粉本(ふんぽん)・・・胡粉(ごふん)を使い下絵を描いた上に、墨を施す事から、東洋画における下書きのこと。または、制作の参考の為に模写した絵画。絵や文章の手本とするものを指す。
叙する(じょする)・・・爵位や勲章などを授けること。または、詩歌や文章に書き表すことを指す。