ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

徳田秋声の尾崎紅葉2

 小説を入力してみようチャレンジ、只今、伝記に挑戦中です。昭和3年改造社から出版された現代日本文学全集 第18篇 徳田秋声集から「尾崎紅葉」に挑戦中です。ここでは左記の伝記を現代語訳した上、下記の『』内に引用しております。徳田秋声尾崎紅葉の研究の一助になれば幸いです。

 
硯友社は、初め先生と山田美妙斎(やまだびみょうさい)氏、石橋思案氏などが発頭(はっとう)らしいが、美妙氏は先生よりも年長で、学校でも二年ほど先輩でもある。幼時隣合わせで、竹馬の友であったのが、後しばらく相逢(あいあ)う機会なく、大学予備門で再び相見た時には、実に手を取って互いに泣かんばかりの喜びであったというのであるが、後(のち)美妙氏は硯友社をぬけて金港堂(きんこうどう)へ入り、「都の花」を発刊して、やや口語体に近い言文一致で、清新な小説や韻文を盛んに発表して、その頃の文壇では実に花々しいスタートを切っていたものである。筆者の記憶するところによれば、当時の文壇では、坪内逍遙とか、二葉亭四迷とか嵯峨の屋御室(さがのやおむろ)とか外国文学の影響を多分に受けた人をのいて、独歩氏の所謂洋装文学(変な名だが)その実日本文学では、美妙氏の作品などは文献上みのがすべからざるものである。しかも西洋文学の影響は、むしろ紅葉先生などよりか深く多くて、今から見ては頷かれる詩的内容をもったものも少なくないのである。のみならず、初めは可なり奇矯で、独りよがりではあったけれど、思い切った言文一致で小説を書いたものは恐らく美妙氏が先駆で、その文学的功績に至っては、紅葉先生の下ではないと思うものである。この美妙氏が奇禍(きか)を負って、中途挫折し、世間から忘れられ、最初の訂盟者(ていめいしゃ)であり、後の競争者であった紅葉先生の盛名(せいめい)とは比較にならぬ敗残の晩年を送ったのは、個人としての何等かの欠陥があったのかもしれないけれど、芸術家としての運命は確かに不幸である。筆者はこれを社会的歴史的不公平と思うと同時に、美妙氏の才分(さいぶん)が本当に豊かにのびなかったことを惜しむものである。紅葉先生もまた友情として同感であったのではないだろうか。この二人の交友の事については、筆者も何等知るところはない。
 さて我楽多文庫はその後益々隆盛で、一時は毎号三千部を刷り、月二回発行で、一部の定価が三銭であったが、初めは各々(めいめい)鞄のなかに詰め込んで学校の休憩時間などに、大声に呼び歩いたりした。先生の風采はというと、紫ズボンと綽名(あだな)された、柳原仕入れ(やなぎはらじいれ)の染め返しの紺ヘルのズボン、日向へ出ると、紫色しているのを穿き、日陰町物の茶羅紗の羊羹色になった、ぼてぼて重い外套を引っかけ「現金でなくちゃいかんよ。」などと呼んで歩いたという話しである。それが遂に三千部を発刊するようになったので、当時の執筆者は美妙斎、思案外史、丸岡九華(まるおかきゅうか)、巌谷漣(いわやさざなみ)山人、それに新加入の川上眉山人(かわかみびさんじん)。
 しかし幾ばくもなく、明治二十一年八月美妙氏が同社を脱退して、金港堂の聘(へい)に応じて当時創作雑誌の唯一の女王「都の花」を発行してから、本格的な営業雑誌でもなかった「我楽多文庫」は俄に光を失い、のち二十二年二月終刊の悲運に遭遇した。爾来(じらい)吉岡書店の「文庫」がその後を継ぎ、柳浪(りゅうりょう)、眉山、水蔭(すいいん)、乙羽(おとは)が執筆、寒月(かんげつ)や露伴なども寄稿した。
 それから「小文学」「江戸紫」など、興亡常(こうぼうつね)なき有り様で、二十四年に至った訳である。
 そこで先生はどうして大学を止(よ)したか。勿論文学熱に浮かされたためであったろうが、初め回覧雑誌風のものであった「我楽多文庫」が売品となったとき、編集員として先生も署名していたところから、学校の注意を受けた。先生は文学雑誌だからよかろうと考えたが、なにかと不快なこともあっって、一時は煩悶していたが、とうとう文科に入って二年目に断然退学してしまった。
 吉岡書店が「新著百種(しんちょひゃくしゅ)」を発刊した時、先生は創刊号に「色懺悔」という有名な美文もどきの作品を載せている。ちょうど美妙氏が「夏木立(なつこだち)」を発表して、名を馳せた後なので、先生も「色懺悔」の一篇には随分力瘤(ちからこぶ)を入れたという話しである。美妙氏の先駆的言文一致とはちがって、先生のは雅俗(がぞく)折衷であった。三馬(さんば)や也有(やゆう)や西鶴なぞから出た新文体で、実に凝ったものであるが、まだ小説というほどのものではなかったかと思われる。しかしその文名(ぶんめい)は一時に高く、二十三年十二月、まだ在学中であったに拘らず、読売新聞から礼を厚(あつ)うして招聘された。爾来先生の作品は大抵読売新聞に載ることになったが、人気作家として海内(かいだい)に文名をはしたのも、一つはそうした舞台を得たからでもあろうし、多数の読者を前において、努力精進したためでもある。
 春陽堂主(しゅんようどうしゅ)和田鷹城(わだようじょう)氏が最近まで連綿続いた「新小説」を発刊するにあたり、須藤南翠(すどうなんすい)、森田思軒(もりたしけん)、饗庭篁村(あえばこうそん)など、当時一流の大家三名の名をもって先生と小波(さざなみ)氏へ寄稿を頼んで来た。和田氏との親密な関係はこれから始まったものと見てよかろうと思うが、筆者が先生に聞いたところでは和田氏は紅葉という雅号に感服せず、美妙斎 かなんとかいった、もっとえらそうな号がいいと言ったというのである。』


川上眉山(かわかみびざん)・・・本作においては、ルビが”かわかみびさん”とルビがふってあった為、”びさん”と表記しています。恐らく、眉山(びざん)の山と山人(さんじん)の山をかけて、”さんじん”呼びを徳田先生が採ったからだと推察されます。
式亭三馬(しきていさんば)・・・江戸時代後期の地本(じほん)作家。滑稽本浮世風呂」は、浴場を舞台に落語の話術を採用した軽妙な会話と当時の生活が活写された作品である。
横井也有(よこいやゆう)・・・江戸時代中期の武士で、俳句に通じた。俳文集「鶉衣(うずらごろも)」は洗練された雅俗混淆の文で書かれている。

 

『 「色懺悔(いろざんげ)」についで、「巴波川(うずまがわ)」というのが、これは好個(こうこ)の短編小説である。「拈華微笑(ねんげびしょう)」、「此ぬし(このぬし)」なども、瀟洒な好(こう)短編であるが、「夏痩(なつやせ)」、「二人(ににん)女房」などになると、もう本格的な立派な大作である。二十四年「伽羅枕(きゃらまくら)」という物語風の作品が紙上に連載されるに及んでは、その麗筆(れいひつ)たちまち満都(まんと)の子女を魅(み)し、「夏小袖」「三人妻」とう続いて、また江湖(こうこ)に喧伝されるに至った。
 「三人妻」、「不言不語(いわず かたらず)」、「冷熱(れいねつ)」、「隣の女」、「青葡萄」、「八重襷(やでだすき)」など、今でもその名は一般子女の耳に懐かしい響きを与えるであろう。その中には翻案ものもあるが、先生の腕にかかると斧鑿(ふさく)跡は少しも見えないで、渾然珠(こんぜんたま)の如き日本好みの芸術品となってしまうのである。
 有名な「多情多恨(たじょうたこん)」は明治三十年の作で、「我家の小説は米の飯なり」という抱負をもって書かれたもので、先生はその頃は漸く三十を越したばかりだと思われるが、絢爛の境(きょう)を通りこして、平淡(へいたん)の味を欲するに至ったものと見てよかろうし、これを大きく言えば、人生味(じんせいみ)というものが、漸く出て来たのだと言うことも出来よう。それ故この作品は先生の製作品のなかでは、もっとも自然なもので、艶麗(えんれい)な文章のてらいは先ずないと言っていい。
 「多情多恨」で人間の日常生活を描き、平淡の境(きょう)に入った作者が、どうした動機でか、一代の傑作とうたわるる「金色夜叉」という大きな山に取りかかったのは、すこぶる注目に値する。筆者はいささかその時の状況を知っているが、慌ただしい師走の巷(ちまた)に黒い夜叉や紅い火焔を描いた立て看板が配置されたのは、恐らく新聞小説の宣伝としては未曾有のことではなかったろうか。何にしても物凄い勢いであった。そして「金色夜叉」の掲載されたのは、三十一年の一月からだったかと思う。
 先生としては大きな結構と主題のある作品で、人生観といえば人生観、社会観といえば社会観のようなものが、筋の運びと、その心理描写と経緯を成して、到るところに披瀝されている。恐ろしく理屈っぽいところもあって、常識哲学とも言わるべきであろうが、文体は和漢洋を折衷したもので、「多情多恨」でのろのろ田んぼ道を拾っていたものが、たちまち高い山岳をよぢはじめ、深林大澤(しんりんたいたく)を跋渉(ばっしょう)するの概(がい)がある。
 しかし「金色夜叉」は先生の一面の代表作ではあろうが、意図と態度から言って、決して先生の本領であったとは言えないであろう。芸術品として優秀なものは、むしろ「むき玉子」、「おぼろ舟」、「紫(むらさき)」、「青葡萄」などスケッチ風の小品や短篇であった。先生もそうした意気なものが好きであったので、西鶴モーパッサンが気に入っていたのも、その為である。あの頃の文壇、ことに年の若い先生が、どの程度に西鶴モーパッサンを理解したかは、一つの時代の問題でなくてはならないが、しかし筆者の記憶するところによれば、その頃しきりにライトタッチという事が先生の口にされた。これはモーパッサンの作風から来たことであったろうと思うが、先生も一種のスタイリストであると見ていい以上、人生の触れ方が軽くていいくらいの程度のものであったろうと想像される。先生のところへは上田敏氏などが来ていた。千葉鑛藏(こうぞう)氏も遊びに見えていた。田山花袋氏は千紫万紅(せんしばんこう)時代から、執筆者の一人であったように聞いている。先生はシャーロット・ブロンテあたりの通俗小説を余り上手でない発音で読んでいられたが、以上数氏(すうし)から外国文学のことは聞いていられたように思う。モーパッサンはまさしく上田氏の輸入で、ライトタッチという言葉もその辺から出たのではなかったか。勿論筆者が初めて拝謁したときにはディケンズの話しなども出たほどで、英文学については、時代相当の知識はあったものと見ていい。晩年病床についていられた頃、枕頭(ちんとう)にハウプトマンの「寂しき人々」やオストロフスキイの「嵐」などがあったのを、筆者は借りて来て読んだことを記憶しているが、それらは千葉鑛藏氏が寄せられたものであった。
 「金色夜叉」のような長篇は、勿論先生が試みた最初のものであるので、あの一篇をもって先生の本質を論ずるのは間違ったことかも知れないし、もしも四十五十ないし西洋の大家のように七十八十までの寿(じゅ)を保たれたならば、体験も加わり、人生観も深まり、偉大な作品が出来たかも知れないが、短い生涯を通じての上では、決して得意の作とはいえない。先生もまた「金色夜叉」の執筆中しばしばそれを口にされた。
 先生の晩年は健康も衰えていたし、芸術についても煩悶があった。想(そう)なしとか。浅薄だとかいう批評もあったので、「金色夜叉」がざっと六年もかかって、あれだけの量であったことを思うと、苦吟であったことは想像に難くない。人気と比較して、社の待遇がそれほどでもないというところに、先生も少し自重の態度を取ったことも、筆者は今から想像し得るのであるが、それにしても長篇小説の筋を作るのは、先生に取っては余り楽な仕事でなかったことは判る。』


斧鑿(ふさく)・・・詩文などに技巧を凝らす事。又は、おのとのみ。あるいはそれらで細工をする事。
シャーロット・ブロンテ・・・イギリスの作家。この時代は英国文学の翻訳も多かった。
ディケンズ・・・チャールズ・ディケンズの事。日本では、この時代ディケンズの「二都物語」などが翻訳され出版されていた。

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