ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

正宗白鳥が語る夏目漱石1

 1932年に中央公論社から出版された正宗白鳥著「文壇人物評論」の夏目漱石論を現代語訳した上、左記の本から『』内において引用しております。夏目漱石の研究の一助になれば幸いです。

 


『私はこの頃、はじめて「虞美人草」を読んだ。この長篇小説は、夏目漱石朝日新聞に入社最初の作品で、森田草平氏は、「明治大正文学全集」に添附された解題に於て「この作品は、先生が入社後京都に遊んで、帰来直ちに筆を執られたもので、即ち純粋に作家として世に立たれた道程の第一歩で、先生としても比較的此の一篇に力を注がれたらしく、想いを構うること慎重に、プロットの上から言っても一糸乱れず、文章から言っても実に絢爛と精緻を極めたものである」と言っている。
 この批評は当たっている。プロットが整然として、文章も絢爛と精緻を極めていることは、誰にでも認められる。この一篇だけを例に取っても、漱石が近代無比の名文家であることは、充分に証拠立てられる。それでは「虞美人草は読んで面白かったか」と訊かれると、私は、言下に否と答える。「私にはちっとも面白くなかった。読んでいるうちは退屈の連続を感じた」と、私は躊躇するところなく答える。
 漱石は、独歩などと違って、文才が豊かで、警句や洒落が口を吐いて出ると言った風であるが、しかし、私には、そういう警句や洒落がさして面白くないのだ。「猫である」は作者が匠気なく、興にまかせて書きなぐったところに、自然の飄逸滑稽の味が漂っていて面白かったが、「虞美人草」では、才に任せて、詰まらないことを喋舌り散らしているように思われる。それに、近代化した馬琴と言ったような物知り振りと、どのページにも頑張っている理窟に、私はうんざりした。
 馬琴の龍の講釈でも虎の講釈でも、当時の読者を感心させたのであろうし、漱石が今日の知識階級の小説愛好者に喜ばれるのも、一半はそういう理窟が挿入されているためなのであろう。
 「気炎を吐くより、反吐でも吐く方が科学者らしいね」
 「哲学者がそんなものを吐くものか」
 「本当の哲学者になると、頭ばかりになって、只考えるだけか、丸で達磨だね」
 哲学者を評した警句として、読者が感心するのか知れないが、私には、ちっとも面白くない。
 「そよと吹く風の恋や、涙の恋や、嘆息(ためいき)の恋じゃありません。暴風(あらし)雨の恋、暦にも録(の)っていない大暴風(おおあらし)の恋、九寸五分の恋です」
 「九寸五分の恋が紫なんですか」
 「九寸五分の恋が紫なんじゃない。紫の恋が九寸五分なんです」
 「恋を斬ると紫色の血が出るというのですか」
 「恋が怒ると九寸五分が紫色に閃(ひか)ると言うんです」
 こういう気取った洒落は、泉鏡花の小説のある部分と同様に、私に取っては、ちんぷんかんぷんである。
 「長篇虞美人草」の前半は、こういう捉えどころのない、美文で続くのだからたまらない。私はさきに、漱石を無類の名文家と言ったが、名文家というよりも美文家と言った方が、一層適切である。兎に角、彼は美文的饒舌家である。三語樓などが連想される。
 こういう余計なものを取り去ってしまって、小説のエッセンスだけを残すと、藤尾と彼女の母、甲野、小野、宗近など、数人の男女の錯綜とした世相が、明確ではあるが、しかし概念的に読者の心に映ずるだけである。女性に対する聡明なる観察はある。人生に対する作者の考察も膚賤ではない。しかし、この一篇には、生き生きした人間は決して活躍していないのである。思慮の浅い虚栄に富んだ近代ぶりの女性藤尾の描写は、作者の最も苦心したところであろうが、要するに説明に留まっている。謎の女にしてもそうだ。宗近の如きも、作者の道徳心から造り上げられた人物で、伏姫伝授の玉の一つを有っている犬江犬川の徒と同一視すべきものである。「虞美人草」を通して見られる作者漱石が、疑問のない頑強なる道徳心を保持していることは、八犬伝を通して見られる曲亭馬琴と同様である。知識階級の通俗読者が、漱石の作品を愛誦する一半の理由は、この通常道徳が作品の基調となっているのに本づくのであるまいか。

 私は、最近、菊池寬君の「新珠」など、二三の通俗小説を読破したので、連想がそれ等の小説に及んだが、藤尾や糸子、あるいはニ三の青年の如き男女を表現している点では、むしろ、菊池君などの方が傑れているのである。わが佛尊しと見る偏見を離れて見るがいい。「虞美人草」の小説部分は、通俗小説の型を追って、しかも至らざるものである。……しかし、漱石の大作家たる所以は、その通俗小説型の脚色を、彼独得の詩才で磨きをかけ、十重二十重の錦の切れで包んでいるためなのであろう。私の目には、あまり賞味されない色取りであるが、他の多くの人々は、その錦繍の美に眩惑されるのであろう。美辞麗句が無限に続いているように思われるのであろう。
 馬琴は「餓えたるものは食を選ばず、逃ぐるものは道を選ばず、貧しきものは妻を選ばず」と言ったような、格言じみた気取った文句で、一回一章を書きはじめることがあったが「虞美人草」は、こういう癖を有っている。「蟻は甘きに集まり、人は新しきに集まる。文明の民は激烈なる生存のうちに無聊(むりょう)をかこつ…」(十一回)「貧乏を十七字に標榜して、馬の糞馬の尿を得意気に詠ずる発句と言うがある…貧に誇る風流は今日に至っても尽きぬ」(十二回)などの書き出しは、今日の読者には、古めかしく思われるだろう。宗近と妹との対話、藤尾と母親との対話など、サクリサクリと歯切れがよくって、なかなか巧みなのだが、例の説明の邪魔が入るので、折角の興が醒まされ勝ちになる。
 要するに「虞美人草」は、最初の新聞小説であるがために、雑誌に掲げられるために執筆されていたそれまでの小説とは、作者の心構えが自ら異なって、そこに作為の眼が現われ、作者の欠点を暴露することにもなったのであろう。何としても冗漫だ。新聞の読者がよくもこういう長ったらしい随筆録漫談集を、小説として受け入れて、辛抱して読み続けたものだと、不思議に思われる。今日の時世では、朝日新聞のような新聞でも、こういう長篇小説を安んじて掲載していられないであろう。
 私は「三四郎」という小説を、半年ほど前にはじめて読んだのであったが、それは「虞美人草」ほどに随筆的美文的でなかったに関わらず、一篇の筋立てさえ心に残っていない。読者を感激させる魅力のない長篇小説を読過することのいかに困難なるかを、その時感じたことだけ、今思い出している。


 二


 森田草平氏の「煤煙」が朝日新聞に連載されて、評判になっていた時分のことである。ある日、私は、博文館の応接室で、田山花袋、岩野泡鳴両氏と雑談に耽っているうち、談たまたま「煤煙」の価値に及んで、誰かが非難の語を挿んでいたが、
 「しかし、漱石の比じゃない」と、泡鳴は例の大きな声で放言した。
 「それはそうだね」と、花袋は軽く応じた。
 私は、黙っていたが、心中この二氏の批評に同感していた。「漱石の比じゃない」という評語を今日の読者が読んだら、「草平の作品は漱石には及びもつかない」という意味に解するかも知れないが、あの頃なら、その評語は「煤煙は、評判ほどのものではないにしても、漱石物のような詰まらないものではない」という意味に受け入れられるのであった。それほど、あの頃の漱石は、一般読者には盛んに歓迎されていたに関わらず、文壇からはおりおり侮蔑の語を投げられていた。
 泡鳴の如きは、最も勇敢に漱石や鴎外を蔑視して、「二流作家」呼はりをもしていたのであった。
 人間の栄枯盛衰、毀誉褒貶(きよほうへん)の定めがたきことは、ここにもよく現われているので、漱石の作品は死後年を追うて、ますます世上にのさばり返って、泡鳴の作品は、この頃たやすく手に入れることの出来ないくらいに埋没されている。それは、作品の真価のもたらす自然の結果なのであろうか。
 私は断じてそうは思わない。私自身の好悪を別にして、漱石の蔚然(うつぜん)たる大作家たることは否定し得ないのであるが、しかし、泡鳴が漱石などとは異なった素質を有った傑れた作家であったことも否定し得られないと思う。泡鳴の作品は今日の一般の読者に認められるべく、あまりに深いところを持っているのではあるまいか。

 世界の文学の種類は千差万別である。批評家や読者の好みもさまざまである。私にはおのづから私の好みがあって、それはいかんとも難いのである。たとえば、明治の中期以降、特異の作風によって、一部の文学愛好者に熱愛され、目まぐるしい文芸思潮の動揺変遷の間にも、堅くおのれを持していた泉鏡花氏の作品については、私は縁なき衆生と言ってもいい。幼少の頃から、いろいろな文学に親しんで来た私も、鏡花氏などの作品を鑑賞する素質を、生まれながらに欠いているのかも知れない。
 そういうと、「自然主義を信奉している作家には、鏡花氏の芸術が分る筈がない」と、旧套的評語が、鏡花贔屓の人々から下されるであろう。しかし私は、文学に於ける自然主義の信仰者であるかないかは別問題として、かなり種類の異なった文学を観賞して来た。哀傷の文学をも詠歎の文学をも、怪奇の文学をも、艶濃な文学をも、淡彩の文学をも、みなそれ相応に愛誦して来た。私は、長い間歌舞伎芝居に惑溺したこともあった。「即興詩人」に心魂を蕩かされたこともあった。
 かつて「隅田川」を読んで恍惚としたこともあった。青年期に於てさえ、落寞たる実生活を経験していた私は、芸術の世界に於ては、人一倍現実を離れた夢をそこに見ていたかも知れなかった。父祖の遺伝や環境から言っても、芸術的才華を身心に具えていないに違いない私は、自ら豊かな夢を描く力に欠いていて、貧寒な文章をのみ書きつづけて今日に至ったのであるが、自分の描かんとして描き能わざる美しい夢を描いた文学を愛好することは、人後に落ちなかったと思っている。しかし、鏡花氏の文字や着想は、すべて私の観賞欲を跳ね返して、氏独特の世界へ私を入れさせないのである。殆ど、一章をも一節をも快くは読み得られないのである。…氏の讃美者のいろいろな評語も、私に取っては、いつも空言としか思われない。したがって、明治以来の知名な作家のおもな作品は大抵読破したつもりの私も、鏡花氏のだけは、いくばくも読んでいない。読もうとしても読めないのである。
 それでも、氏の初期のものは、昔幾篇かを通読した。そして、「照葉狂言」「湯島詣」「夜行巡査」「高野聖」「琵琶伝」など、初期の作品は、氏のその後の作品よりも、鏡花臭があくどくなくって、純真素朴で、芸術として傑れているのではあるまいかと、ひそかに思っている。
 私の学生時代には、当時の新進作家のうちで泉鏡花の名声が最も光っていた。島村抱月氏主宰の下に、我々数人の文科生によって催された合評会で、最初に選んだものは「新小説」所載の鏡花氏の「注文帳」であった。私が世間に発表した最初の文章は、この「注文帳」の批評であった。
 私はまた、その頃数人の級友とともに、鏡花氏を訪問したことがあった。島村氏も、屢々鏡花氏を推讃していた。欧州留学から帰朝した後、間もなく島村氏は、当時の文壇の不振について批評を加えているうち、「しかし、鏡花だけは、他の凡庸の徒とちがっている」と言って、文芸倶楽部所載の「霊象」と題された彼の新作を称讃した。
 年少の頃には、人はたやすく周囲にかぶれるものである。自然主義流行の時代にでも、マルクス主義流行の時代にでも、周囲が騒がしく囃し立てていると、年少の徒は、それ以外に真理はないと思って雷同するのである。確信をもって異を樹つることは難い。私も、鏡花讃美の声を、左の耳からも右の耳からも聞かされていると、訳も分らずに、正体も分らずに、鏡花のえらさに感歎しなければならない気持になることもあった。多数の拝む偶像をば、われも拝みたくなるのが、人間通有の面白い心理らしい。鏡花漱石など二三の文人について、私自身の経験した些細なことも萬般の世相に広く押及ぼして見ると面白いのである。
 
 私は、今、新潮社出版の「現代小説全集」中の泉鏡花集を取り出して、久し振りに鏡花氏の作品に目を触れた。しかし、相変わらず読むに堪えぬのである。何となく名文らしい感じがするだけで、私の心に響くところは少しもないのだ。巻頭の「玄武朱雀」は、ひどくイナセナ景気のいい書きっ振りだが、この鏡花式とも言っていい調子づいた文章が、私には快く受け取れない。有り振れた平坦な写実的描写を試みないのが、この作者の特色であるが、異常な特色を有った文学は、それを受け入れるに足る素質を備えた少数の読者にのみ観賞されるのであろう。「玄武朱雀」を努力して読み通した。私はこの調子づいた文章に於て、作者がうしろ鉢巻きでステテコを踊りつづけているのを見るような感じがした。』

 

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