ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

井上靖による島崎藤村の解説2

 中央公論社から1964年に出版された「日本の文学6 島崎藤村」から井上靖氏による島崎藤村の解説は、当時の藤村の偉業について明瞭に説明しており大変解りやすいのが特徴です。以下、『』内の文章は左記の解説からの引用となります。島崎藤村の研究の一助になれば幸いです。

 

『 小諸時代


 藤村の詩業は三十四年出版の第四詩文集「落梅集」をもって終りを告げている。それ以後完全に詩筆を断っているので、詩との別れ方ははなはだいさぎよいと言わなければならない。そして三十五年に文壇的処女小説「旧主人」を「新小説」に、「藁草履」を「明星」に発表、「旧主人」の方は姦通を取り扱ったために発売禁止の厄に遇った。続いて三十六年「水彩画家」を「新小説」にというように着々小説家としての道を歩み始めている。藤村は三十二年四月に小諸義塾の教師として信州小諸町に赴任し、三十八年四月にそこを辞するまで六ヵ年を小諸に住んでいるので、この詩から小説への転換は小諸時代に為されたわけで、上記の初期の小説のことごとくが小諸の教師生活の中において書かれたものである。そして、大きい成功によって作家としての藤村の地位を確固たるものとした「破戒」もまた、それが「緑陰叢書」第一篇として自費出版されたのは小諸を引き上げた翌年の三十九年三月であるが、それが書かれたのはやはり小諸時代である。「破戒」の一応の脱稿を契機として小諸から東京へ移ったのである。したがって六年間の小諸時代が藤村七十二年の生涯において占める役割と意義はきわめて大きいものである。後年出版された「千曲川のスケッチ」の草稿もまた、小諸で書かれたもので、小諸時代は「破戒」の発表までの第一期・習作時代と見做していいであろう。
 詩から小説への転換とひと口に言うが、詩人として高名を馳せた藤村が詩を棄てて小説を志したということは、やはり容易ならぬことであり、小説以外に自分の文学者としての道はないという確固たる自覚なくしてこれを考えることはできない。しかし、そうした自覚だけで為し得ることでもない。これがみごとに為されたということは、文学者藤村の中に、詩人藤村と共に、小説家藤村が初めから並び棲(す)んでいたことを示すものであろうと思う。詩人としての資質を次第に小説の方へ向かわせたというようなものではなく、詩人として、また小説家としての二つの資質を、藤村は生まれながらにして併せ持っていたのである。

 上記の処女小説「旧主人」を初めとする小諸時代に発表した初期の短篇は、「若菜集」の詩人の筆になるものとはとうてい思われぬほど、逞しく達者なものである。いずれもモーパッサンやゾラの影響でもあったかと思われるような題材の選び方であり、それを取り扱うにふさわしい粘りのある筆である。藤村が作家としての将来をただこの一作に賭けた「破戒」より、むしろある意味では才気と逞しい筆力を示しているといっていいかも知れぬ。藤村の詩に見える清純な抒情的な調べとはまったく異ったふてぶてしいものが到るところに顔を出している。「若菜集」の詩人藤村がいかにしてこうした作家藤村に繋がっているか、その関係を考える必要はないだろう。詩というものと、小説というものがいかに異る才能を地盤として開花するものであるかを藤村ほどよく知っていた人もなく、それを身をもってこれほどはっきり示した人もないと思う。初期の作品は後にまとめて第一短篇集「緑葉集」として出版されたが、それがいかに多様な作家としての才能を覗かせているにしても、初期の小説は初期の小説であって、藤村を作家として決定づけたものとは言えない。藤村は「破戒」によって、第二の転身を試み、初期短篇とはまったく異った作風を見せて、これが成功によってゆるぎなき文壇の地位を築くに到ったのである。


 「破 戒」


 「破戒」は明治三十九年三月に著者発行人、島崎春樹の名をもって自費出版の形で出版された。
 「『破戒』はたしかにわが文壇における近来の新発見である。予はこの作に対して、小説壇が始めて更に新しい廻転期に達したことを感ずるの情に堪えぬ。欧羅巴における近世自然派の問題作品に伝わった生命は、この作によって始めてわが創作界に対等の発現を得たといってよい。わが小説壇に一期を画するるもの、もしくは画せんとしつつあった幾多の前駆者を総括して、最も鮮やかに新機運の旌旗(せいき)を掲げたものとして、予はこの作に満腔の敬意を捧ぐるに躊躇しない」
 これは「破戒」が出版されて間もなく「早稲田文学」に掲載された島村抱月の批評である。
 「島崎藤村の『破戒』が出た。二年間の労作だけあって、思想から言っても、文体から言っても、皆それぞれの特色があって、ずいぶん種々の研究の目的になることと思う。(中略)けれおdもともかくこの作が、わが文壇に始めて自然主義の描法を完全に行おうとしたのは、確かなる事実であろうと思う。今までにもずいぶん自然派のカラーのあった作も作家もあったが、それは唯ある動機によってその一局部がその思潮に触れたばかり、根本からその方針をもって筆を著け、徹頭徹尾、その思うところに進んだのは、この篇をもって最初としなければならぬ」
 これも「破戒」が出版された同じ月に発行された「文章世界」に載った田山花袋の文章である。「破戒」は大きな反響を呼び、各方面に好評をもって迎えられた。いかにこの作品が当時新しいものとして受け取られたかは、いまの私たちの想像を越えるものであろうと思う、この作品によって、初めて小説らしい小説が出現したといった感じであったのである。
 「破戒」の主人公は部落出身の一小学教師で、世の中に生きて行くためには出生の秘密を明かしてはならぬという父の戒めに縛られている。ところがそうした身分を恥じることのいわれなきために、彼の理性と感情の闘いを追求した作品である。社会的問題を取り扱っているので、当時最初の社会小説として見られたことも当然であるし、信濃の自然を克明に映し、地方人の生活を描写している点から自然主義の主張を生かした新鮮な農村小説と見られたこともまた当然だと思う。
 発表以来今日まで「破戒」はいろいろな観点から論じられて来、なお現在においても論じられている。現実の社会問題に取材した社会小説であるか、あるいは作者が部落出身の主人公に自己の苦悩を託した自己の精神内部の劇であるか、こうしたあことが主な論点であるようである。
 
 読者は、しかし、そうしたことに捉われることなく、自由にこれを読み、自由にこの作品の主題を受け取っていいと思う。なぜなら作者の藤村自身もまた、そのいずれの読み方をされても少しも困惑することはないであろうと思う。作者もまたこの作品の主題に対して、それほど明確な割り切り方はしていなかったに違いない。小諸時代に部落問題について見聞することも多く、それに対して社会的正義感から心を痛めたこともあったはずで、ごく自然にそれを材料として取り上げ、主人公の青年を書いて行きながら、当然のこととして、その中に自分自分を投入していったのである。
 「破戒」は日本文学史の上では言うまでもなく、作家藤村の作品系譜の上からみても、逸することのできぬ大きな椅子を占める作品であるが、いまこれを読んでみると、藤村の長篇小説の第一作としてのよさと未熟さも併せ持っていると言うことができよう。人間の描き方にも、人物の出し入れにも、また文章そのものにも、かなり方々に欠点を指摘できると思う。それからまた劇としての展開の仕方も未熟の譏(そし)りは免れぬだろう。しかし、そうした欠点はあるにしても、藤村がこの一作にすべてを賭けて取り組んだ力作としての独特の魅力を持っていることもまた否定できないと思う。現在なお、たくさんの外国ならびに日本の現代小説を読んでいる私たちの鑑賞にも堪え、私たちをして依然としてこの作を無視せしめぬところのものは、藤村の稚(おさな)い、しかし真剣な生への祈りのようなものが、この作品全体に重く流れているからである。
 「破戒」は、しかし、藤村の作品系譜の中では一本の太い幹から外れた作品であるとされている。私たちが藤村文学と呼んでいるものは長篇第二作であり、「緑陰叢書」第二篇として命じ四十一年に出版された「春」を起点として、そこから真直ぐに太い幹となって伸びている。「春」によって、藤村は三度転換し、初めて自伝文学者として自分が終生歩くべき道を発見したのである。

 

 「春」
 
 「春」は明治四十一年四月から「東京朝日新聞」に連載されたもので、この作品は北村透谷(青木)と藤村(岸本)を中心に「文学界」に拠った一群の若い文学者たちの交渉やら動きを描いたもので、そっくりそのまま体験を描いてはないにしろ、はっきりと自伝的作品と言えるもので、これ以後終生変らなかった藤村の作風は一応ここにその最初の形を見せていると言っていい。「破戒」がまったくの仮構であったのに反し、藤村は「春」において、作家としての別の姿勢を見せ、小説というものに対する考え方が違って来ていることを示している。ここで取り扱われている時代は明治二十五年より二十九年までの、つまり「若菜集」が出る前の四年間である。そのころの藤村および藤村の周囲の浪漫的な若者たちの苦悩や憧憬や憂鬱や破綻などが描かれてあるので、そのころの多情多感な青年たちの生き方や、時代の風潮を知る上には好個の資料である。この作品で藤村は自分に大きい影響を与えた若き思想家透谷を熱情をこめて描いている。
 「春」は藤村の作品系譜の中では、「破戒」とは違った意味で、やはり重要な位置を占めるものであるが、藤村の作品の中では特に優れたものとは言えないと思う。人間の造形にもあいまいなところがあり、人間関係も平板で、青年たちの生活環境など説明不足や書き足りないところがあってはっきりしていない。同じ自伝的作品と言っても、「家」などに見る何でも包みかくさず書こうといった厳しさはまだ現われていない。この作品の結末で、藤村は主人公に「ああ、自分のようなものでも、どうかして生きたい」と思わせている。この表白は藤村流の一種のさわりであるには違いないが、これを一概に難ずることはできまい。どうにかして生きたいという祈りこそ藤村文学に一貫して見出せる基調音であって、これなくしては「新生」も生まれなければ「家」も生まれなかったはずである。私は藤村の最高傑作は維新変革三十年の中にこの国の動乱や推移を描いた歴史小説「夜明け前」であり、次に位するものは、自伝的作品の中で写実主義の完璧さを見せている「家」であると思う。そうした傑作を生む先駆として、この集に収められた「破戒」「春」の二長篇の持つ意味は考えられるべきであると思う。


 「千曲川のスケッチ」


 「千曲川のスケッチ」は信州小諸地方の自然と人間生活を観察し綴った小品を集めたものである。大正元年の出版であるが、書かれたのは小諸時代で、詩から散文への移行期の所産である。文章には推敲が加えられ、小諸時代のものとは異った文体になっているかと思われるが、それにしても、小諸時代の若い藤村がこれだけのものを客観的に見る眼を持っていたということは驚くべきことであり、すでにこの時代に藤村は立派に散文作家として完成していたと言っていい。ここには浪漫的な傾向はどこにも見られず、みごとに写実で終始しているのを見る。当時の北信の風俗、人情、自然は手にとるように明確に写生され、読んでいて一種爽快な美しさに打たれる。この小品集の何篇かは「破戒」にも使われている。「千曲川のスケッチ」はやはり藤村の代表作の一つとして挙ぐべきものであろう。
 以上、藤村の初期の詩や小説について述べて来たが、藤村の文学は、自伝的作風に拠った「春」以後はもちろんのこと、それ以前のものも、それを完全に鑑賞し理解するためには、藤村の生立ち、家族関係、または郷里信濃の自然などについてでけいるだけ知識を持っていることを必要とする。そうしたことについては、この小文では触れることはできなかった。亀井勝一郎平野謙瀬沼茂樹氏等の優れた述作があるので、それによっていただきたい。
 藤村の作品につちて私流の見方を長々と綴って来たが、この小文の筆をおくにあたって改めて痛感することは、いかなる偉大な文学者も、その作品も、それが不動の地位を築くことは、批評家、研究家の力によることが甚大であり、藤村の場合も例外でないということである。藤村は今日、日本近代文学の最高の地位に坐っており、数々の藤村に関する論文を読んでいると、時に一指も触れることのできぬような威圧感さえ感ずる。藤村にも名作もあれば失敗作もある。失敗作であっても文学史的意義においては不朽の作品もある。読者は自由に読んだ方がいい。
 藤村は生前も死後も、おびただしい数の信奉者や研究家に取り巻かれている。生前つつき廻された藤村は死後も同じようにつつき廻されている感じである。藤村の一言一句、一挙手一投足、ことごとく取り上げられて論じられている。藤村は文学者として大きな栄光に包まれ、一人の人間としては不幸であったし、ますます今後も不幸であるかも知れない。作品が栄光に包まれ、人間が不幸になって行くことは、文学者としては本望であろうし、その作家が先駆者的役割を担って偉大であればあるほど、こうした運命は免れぬものであろう。私もまた、藤村をつつき廻した一人である。「夜明け前」「家」「千曲川のスケッチ」「若菜集」の作者藤村に対して、改めて心からの敬意を表して、この稿を終える。』