ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

島崎藤村の「破戒」解説

 東京堂から1961年に出版された「明治大正文学研究 特集 島崎藤村研究」から岩永胖氏による“「破戒」成立の根本問題”島崎藤村が書いた「破戒」における問題点などについて解説した内容です。以下、『』内の文章は左記の論文からの引用となります。また、掲載にあたって、全て現代語訳しております。島崎藤村の研究の一助になれば幸いです。

 


「破戒」成立の根本問題
          岩永胖
  一
 「破戒」と「蒲団」との間に、近代リアリズムの私小説的屈折を指摘することは、私の見た限りでは、平野謙氏の「破戒」論(平野謙著「島崎藤村」に所収。河出書房刊市民文庫。)に端を発し、中村光氏の「風俗小説論」を始め諸家の近代文学研究論(西郷信綱著「近代日本文学史」のこと)において、最近では一種の定説らしい形を取り来っている。
 平野氏は「一杯のんでもらはねばならぬ地親さんや丑松の留任運動の方法を訓戒する校長などの存在に裏づけられて、『破戒』が特殊な人間群に内発する社会的抗議を芸術の言葉にまで晶化し得た事実」を指摘すると共に、「破戒の弱点」は、「全篇を通じて、藤村自身の主観的感慨を以て必要以上に丑松の真理を塗りつぶしてしまったその描法にもっともあらわである。」といっている。「主観的感慨」を以て主人公の心理を塗りつぶしながら、どうしてそれが芸術的な社会的抗議の力にまで至り得たか。氏の「破戒」論がもつ矛盾は、こうした問題をその破れの奥からのぞかせているようである。
 
 「『破戒』には恐怖(おそれ)、哀傷(かなしみ)、哀憐(あわれみ)などの言葉とならんで、眺め入る、泣くという言葉が随所につかわれているが、すべて藤村流の含みを持った一聯(いちれん)のボキャブラリーにほかならない。すなわち藤村は一部落民の子の悶えを決して上からの同情者として眺めてはいないのである。藤村は丑松に眺め入り、眺め入りつつ泣くことによって、その運命の烈しさに黙って抗議しているのである。(略)その主題的真実性の保証もまたそこ(平野謙著「島崎藤村」のこと)にある」 』
 「恐怖、哀傷、哀憐」と共に「眺め入る、泣く」という言葉こそ、所謂「主感的感慨」であろうと思われるが、それならば「主観的感慨」を以て丑松の真理を塗りつぶしたことは、作品「破戒」の弱点ではなくて、むしろ帰って強味ではないのか。即ち「その運命の烈しさに黙って抗議し」、「主体的真実性の保証もまたそこにある」のであれば、弱点どころか、強味ではないかと平野氏の所論に対する疑問が湧いて来る。そして、また平野氏のように、「恐怖、哀傷、哀憐」などの一連の言葉は、「主観的感慨」もしくは、単に藤村流に含みをもったボキャブラリーといってしまっていいか、どうかにも疑問がある。(島崎藤村著感想集「春を待ちつつ」・「ドストエフスキーのこと」参照)
 平野氏の「破戒」論には、その渉猟せられた上梓当時の批評文がおびただしく列挙してあるのであるが、それは早稲田文学に出ていた一覧によられたものではないかと思われる。しかし、「破戒」をめぐる批評その他の調査に基いての苦心の業績だとは認められるが「破戒」そのものに突き当っての腑分けにはなっていないようで、いわば作品研究とは別個の、「破戒」評論の研究に重点が傾いているようである。
 例えば、藤村が「鬱勃とした精神でこの作を貫くべく決心した」といった現代長編小説全集の序に対して、平野氏が「労働者運動がひとつの波として昂まって来た昭和四年五月には『鬱勃とした精神』という言葉で語った藤村の態度」として特筆しながら、実はこの言葉が作品「破戒」の用語そのものに基くことを看過し、その作品の内部における意義について一言も触れ得ていない点などは、そうした作品そのものの研究についての氏の傾向態度を示すものであろう。
 即ち、第十八章の末尾に、猪子蓮太郎について同僚勝野文平と論争する丑松を描写して、
 「僕は君、これでも真面目なんだよ。まあ、聞き給えー勝野君は、今猪子先生のことを野蛮だ下等だと言われたが、実際お説の通りだ。こりゃ僕の方が勘違いをしていた。左様だ。あの先生もお説の通りに獣皮(かわ)いじりでもして、神妙にして引込んで居れば好いのだ。それさえして黙って居れば、彼様病気などにかかりはしなかったのだ。その身体のことも忘れてしまって、一日も休まずに社会と戦って居るなんてー何という狂人の態だろう。噫(ああ)、開化した高尚な人は、予め金牌を胸にかける積もりで、教育事業などに従事して居る。野蛮な下等な人種の悲しさ、猪子先生などには其様成功を夢にも見られない。はじめからもう野末の露と消える覚悟だ。死を決して、人生の職場に上がって居るのだ、その概然とした心意気はー悲しいじゃないか。勇ましいじゃないか」
 と丑松は上歯を現して、大きく口を開いて、身を慄わせながら歔欷くように笑った。鬱勃とした精神は体躯の外部へ満ち溢れて、額は光り、頬の肉も震え、憤怒と苦痛とで紅くなった時は、その粗野な沈鬱な容貌が平素よりも一層男性らしく見える。銀之助は不思議そうに友達の顔を眺めて、久し振で、若く剛く活々とした丑松の内部の生命に触れるような心地がした。(圏点筆者)
 ここにある「鬱勃とした精神」こそ、まさに「労働者運動がひとつの波として昂まって来た昭和四年五月」に、藤村によって言われたのみでなく、それはすでに「破戒」そのものの内部に描かれた言葉であり、「予め金牌を胸にかける積もりで、教育事業などに従事している」ところの、「開化した高尚な人」ー校長、郡視学、勝野文平等に対して、「其様成功を夢にも見られない。はじめから野末の露と消える覚悟」の「野蛮な下等な人種」たる猪子蓮太郎、瀬川丑松、それに青年教育者達の闘争の精神なのである。ここには教育労働の内部における対立と、人種的な対立とが堅く結合されて採り上げられている。

 この重大な言葉を、作品そのものの具体的な場において指摘することなく、後年の序文に求めた平野氏の態度こそは、作品よりもむしろその外側に、作品の意義を尋ねようとした傾向を示すものであって、作品論としては欠陥をもつものであるといわなくてはならないのである。更に、この場面は、
 「奈何だい、君、今の談話(はなし)はー瀬川君は最早悦皆(もうすっかり)自分で自分の秘密を自白したじゃないか」
 と文平が「丑松の為に言敗(いいまく)られた」ので、「軽蔑と憎悪」を以て、尋常一年の教師に「私語」いたように、丑松の秘密そのものは自ら暴露したことになっているのである。客観的に立場を明らかにすることによって暴露せられた秘密に対して、更に何の主観的「告白」を重ねる必要があろうか。すでに丑松にあっては、「予め金牌を胸にかける積もりで、教育事業などに従事して居る」者に対する教育労働者としての立場と、特殊部落民としての自覚とが結合されて闘いは始まっているのである。この闘いのの発展を求めてこそ、あやまりなき丑松の「告白」は確保せられたであろう。ここに「鬱勃とした精神」が「破戒」全篇にあって、ただ一度出現し、それが二十数年後の藤村によって再言せられた意義は重大である。
 ところが、作品「破戒」にあっては、口火を切られた闘いは闘いとして発展せしめられてはいない。猪子蓮太郎の悲壮な死が、先の条件へ附け加えられながら、丑松が最後に取った「告白」の行為は、はるかにこの「鬱勃とした精神」からは交代したものとなっている。その敵として闘った校長や勝野文平の前にすら丑松は跪いて、激した額を板敷の塵埃の中に埋めて、「許して下さい」と云わなければならなかった。それは全く個人的な罪悪を告白して、赦しを求める姿である、といってよいであろう。この急激なる変化は、何によるのであろうか。
 平野氏がいっているように、一般的には『鬱勃した精神』と『眼醒めたものの悲しみ』とは『破戒』の表裏をなすものであり、それは流産せざるを得なかった明治ブルジョア民主々義」の行方が規定しているのであり、「市民的自由を背う近代的自我の確立を北村透谷、田岡嶺雲の賤に沿いつつ模索した作品」と評価することが出来よう。そして又、部落民小作人の運命を救済する現実的地盤を欠いたが故にこそ、奇妙な丑松の告白も、テキサス行の結末も説明されるであろう。それに関する平野氏の解剖はたしかに正しいものであった。しかし、問題は一度は教育労働者の闘いとして、「予め金牌を胸にかける積りで教育事業に従事」し、「教育は規則」「郡視学の命令は上官の命令」「軍隊風の教育」を信条として、町のボス等の振舞の席に「神主坊主」と同席する校長や文平等に対して、公然たる闘いを交えた「鬱勃とした精神」が突如として姿を消し、個人的罪悪の告白にも似た場面が忽然として現れて来ることには、その闘いに現実的地盤を欠いたとする一般的説明だけでは割り切れないものがあるのである。作家は、その転換に当って、何の矛盾も抵抗も感じ得なかったのであるか。私はこのような破綻をまでも「かえって彼らのリアリズムの一保証がみられる態のものでそれらはあった」といって平野氏のような曖昧なポーズで弁護する気持にはなれない。そこにはギリギリのところで必ず対決を回避しようとした意識的な屈折の方向が、作家の生活と結び合うものの中にあったに違いない。私はそれを明らかに知りたいと思うのである。
 余計な詠嘆やら、叙景によって朦朧とした混沌を拭い切れていないとはいえ、そこに見られる明らかな階級的な自覚に基いた闘いから、部落民たることの単なる「告白」への後退は何故に必要であったのか。「真実」の告白という自然主義のテーゼが、この混沌を精算する途として採用され、階級的な自覚と結合することによって得られた「破戒」の力そのものを根絶する方向へ反動的に作用していることも明瞭である。明治三十年代の混沌の中に、近代的な自覚への方向が労働者的階級的な「鬱勃とした精神」という姿で見出されているのだが、自然主義のテーゼはこれに導かれて文学の世界へ登場し、一旦はヘゲモニーを握り得た「鬱勃とした精神」そのものに背き去ることによって、近代文学のメーンカレントたり得たのではなかったか。「破戒」の内部構成の矛盾は労働者的な立場そのものの放棄を志向した作家の触手を思われる。私は作家の生活と作品とを結び合わせることによって、この後退の秘密を解きたいと思うのである。


   


 「特殊な人間群に内発する社会的抗議を芸術の言葉にまで晶化する」とは「破戒」に対する平野氏の評価である。だが、「特殊な人間群に内発する」ものが、果して「社会的抗議」に高まる純粋な過程としてこの作品は描かれているのだろうか。この疑問を裏返せば、この特殊な人間群に内発する不平不満が、社会的抗議として客観的に形成される過程こそ、「破戒」の芸術的形成過程であるべきなのであって、あらかじめ用意された社会的抗議があって、それが芸術的に粉飾されるのではないから、もし平野氏の言葉が真実であれば、その不満が純粋に高まる過程が描かれていなければならぬということだ。
 ところで、「破戒」における「特殊な人間群に内発するもの」は、貧民、労働者に内発するものとの間に、それを区別するどのような特殊性が認められているのであろうか。先にあげた文平との闘いにあっても無論のこと、職場でえの対立は、良心的な教員としての対立であるのか、部落民としての対立であるのか、混沌として区別されているわけではない。常に両者の立場が切り話すことの出来ない関係として、相互には混沌とした区別し難い関係でありながら、その対立者の前には結合して立ち現れているのである。「予め金牌を胸にかけるつもりで教育事業に従事する」ような、「開化した高尚な人」に対立するものは、そんな成功は夢にも見られないにしても、明らかに良心的な教員であり、例えば銀之助のような人であるべきであるにも拘らず、「野蛮な下等な人種」ー特殊部落民たる猪子蓮太郎でなければならないとする。ここでは闘う者の立場は明らかに、部落民と教員ー労働者的な立場とが結合されているのである。一方の立場だけでは、「開化した高尚な人」と闘う力にはならない。勿論、ここには労働者的な立場のヘゲモニーは必ずしも認められてはいないのである。』


ヘゲモニー・・・主導権、主導的位置の意。

 

『しかし、ここに問題がある。すでにこれは「藤村みずからが人種的偏見に囚われていたことと相手が部落出の知的な青年であったことが、ぬきさしならぬ与件として存在しなければならなかった」ことが、「破戒」構築の前提として一応は平野氏によっても触れられているところである。しかし、人権的偏見に囚われている作者が人種的偏見に抗議するとは、どのようにして可能なのであろうか。たしかに藤村は人種的偏見の持主であり、「破戒」以後においても、人種的偏見の発生の基盤たる封建的身分制の残滓に連る家門の伝統に自負する人でもあった。(「夜明け前」その他に父島崎正樹や「家」の伝統を誇示した点を参照。)
 そして、いかにいいつくろうとしても、「破戒」における人種的偏見に対する作者の見解は、動揺する弱さを示しているのであって、それのみが純粋に客観的に社会的抗議の力に高まり得ているとは、みとめられ難いのではないだろうか。平野氏は


 天渓、天弦、孤島、郭濱生、夢蝶閑人、国男、秋江、あうたう、晶子、楠緒子らはすべて口をそろえて、主人公の苦悶が誇張された特殊な人種的偏見に根ざしたものゆえ共感しにくい、と難じたのである。


 として、これらの評家が「近代社会にあってはそれ自身で、「社会問題」的であるそのような存在に取材し、どんなにたどたどしい手探りであろうと、それを芸術のすがたにまでとらえることは、それ自身でひとつのたたかいを意味した筈である」との実情に着目し得なかったのだと非難している。しかし、部落民に取材したというだけなら、すでに秋声の「藪柑子」も、風葉の「寝白粉」も出ていたのであって、ただ「破戒」だけが特に取り上げられるに足るとは思えない。「破戒」が問題であるのは、作者藤村が人種的偏見の持主であったからでも、またそれが「部落出の知的な青年」であったからでも無論ない。ただ、知的な青年が労働者的な教員としての立場にあって、それが部落民としての立場と、それこそぬきさしならぬようにからみ合って現われているところにあるので、特殊部落民としての不満が、客観的な社会的抗議としての力をもち得ているのも、教員としての、民主々義的な闘いによって照され、支持され、その中に確固たる人間的自覚を築きあげて行くところに根ざすのである。
 特殊部落民としての丑松は、銀之助やお志保や、小学生達から、何故に支持され、それが校長や文平等に対立する力として形成される客観性をもつか。銀之助もお志保も小学生も、皆人種的偏見そのものから脱却したからではない。むしろそれに色濃く染められている人間でありながら、それと告白した丑松に何故に同情し、これを支持するか。それは丑松が教員として、同僚として、隣人として、最も人間的に、労働者的に民主々義的に行為したからであろう。この教員としての自覚に支えられて、丑松は特殊部落民たる差別待遇に社会的抗議の力をもち得ているのである。この点が見落されると、「破戒」の抗議性がわけのわからぬものになってくるのである。労働者としての教員の民主々義的自覚に支えられていたからこそ、部落民に対しては幼稚な認識しかもち得ない作家藤村が、その内発する不満を取り上げて社会的抗議の力にまで形象的に組織し得たのだ。ここに到って丑松の客観的な力の根源が、それをつくり上げる作家藤村の立場に発していることがわかる。混沌たる網膜を透しながら、丑松の眼を通じて、敬之進、校長、銀之助、文平、ーかつては蓮太郎を照らし出しているものの中に、はっきりと労働者的な教員の眼が民主々義的に光っているのである。部落民の眼はこの眼によって生命をあたえられているのであって、それ単独では照明の力をもっているとはいえない。
 それを何よりも明瞭に裏面から立証するのは、作者自体の部落民問題に対する見解の動揺である。
 「同じ人間でありながら、自分等ばかり其様に軽蔑される道理がない」とか、「道理のない非人扱い」という烈しい抗議を提出しているかと思えば、「部落民の中でも卑賤しい身分のもの」としたり、「屠手として使役われている壮丁は四十人許り、いずれ紛いの無い新平民ー殊に卑賤しい手合と見えて、特色のある皮膚の色が明白と目につく。一人一人の赭ら顔には烙印が押当ててあるといっても宜い。中には、下層の新平民にかくある愚鈍な目付を為ながら、此方を振返るもあり」とする丑松やその叔父の眼を透かしての観察は、「賤民だから取るに足らん、斯ういう無法な言草」はと如何に憤慨して書いていても、銀之助や文平が「新平民が美しい思想をもつとは思われない」とするのと同じ思想的基盤に立っているのである。更に


 「新平民の子らしいのが、七つ八つを頭にして、何か「メンコ」の遊びでもして、その塀の外に群り集まっていた。中には頬の紅い、眼付きの愛らしい子もあって、普通の家の子供と少しも相違のないのがある。中には又、卑しい、愚鈍かしい、どう見ても日陰者の子らしいのがある」


 といったり、「斯うして無智と零落とを知らずに居る穢多町の空気を呼吸する」といったりするーここには、愚鈍、無智という素質的先天的なものと、零落という経済的なものとが区別されていることが明らかである。新平民なる特殊部落民の形成が経済的政治的なもので、愚鈍と無智とはそのためにもたらされた人為的歴史的なものとする近代的思想は、ここには現われていないのである。むしろ愚鈍と無智に零落が基因するという前代的な思想が「破戒」にあっては支配的なのではないか。
 だからこそ、藤村は主人公丑松の知性に対して「新平民の種族中でも殊に四十戸ばかりの一族の「お頭」と言われる家柄」の子であり、「獄卒と捕手とは維新前までの先祖代々の職務」であり、「東海道の沿岸に住む多くの部落民の種族のように、朝鮮人支那人露西亜人、または名も知らない島々から漂着したり、帰化したりした異邦人の末とは違い、その血統は古の武士の落人から伝わったもの、貧苦こそすれ、罪悪の為に穢れたような家族ではない」と言うことによって、道理のない侮辱に対する抗議の根拠としている。この根拠が新平民に対する偏見と同じように封建的身分制を基礎とするものであることはいうまでもなく、従って、その講義はその枠の外からする批判的近代性をもつものではなく、却って内部から身分的差別を強化し、偏見それ自身の支柱となっているものである。
 藤村には血統と家柄に対する抜きがたい封建的な信念があり、後年の「夜明け前」制作の情熱の一にもなっている程であるが、丑松の先祖を「武人の落人」としたことは、藤村自身の封建的偏見と立場とが溶かし込まれているのである。更に、この傾向は人間の地方的特色を執拗に追及する結果にもなっているが、「信州北部の人間」とか「信州北部の女」とか、「信州人ほど茶を嗜む手合いは少い」とか、特色でも何でもないことを意味ありげに挙げて、他の地方人との間に線を画くしようとしている。これは科学的な観察に基くもののように「千曲川のスケッチ」其他でいっているが、ここには郷土的偏見と狭隘な観察眼ー排他的な封建性とが結合しているのではないか。
 彼は家柄の人間を家柄のない人間から区別し、部落民を非部落民から区別する生理的要因を物理的観察によって求めながら、その反面に部落民の差別待遇や家柄や地方によって差別的に待遇される傾向に反発するー矛盾した二つの方向を以て「破戒」を築いているのではないか。こうした致命的欠陥をかくし持ちつつ、しかも「破戒」一篇がよく抗議の書たり得たのは、何によるのか。
 もしも「破戒」が部落民としての侮辱に堪え忍び、それを「告白」するというだけに主題が限定されていたならば、この作品の力強さはあり得なかったであろう。ところが、丑松が教員としての自覚と、その民主々義的な闘いに支えられ、更にそれが敬之進の生活を擁護する行為と結びつき、これらの闘いの行為を足許から縛ろうとする身分的封建的制約と対決する過程として、この特殊部落民としての自覚の過程が描かれることになっているために、藤村自体の部落民問題に関する滑稽な錯誤や偏見ー観察と分析の未成熟にもかかわらず、今日なおこの作品をして問題の書たらしめているのである。こうした「破戒」のもつ方向を推進することによってこそ、単に丑松ばかりでなく、藤村自体をその家門の矜持と血統的な苦悩のコンプレックスから救い上げる道ではなかったであろうか。「春」「家」ーそれから「新生」「夜明け前」への道は、「破戒」そのものの中で用意されたかくの如き道を放棄することによって、彼自らが好んで進んだ道だったのではないか。(未完)』