島崎藤村の主要作品における解説1
1957年に河出書房新社より出版された「日本国民文学全集 第二六巻 藤村名作集」より瀬沼茂樹先生の解説を中略を多く挟んだ上で下記の『』内にて引用及び現代語訳しております。この解説は島崎藤村の主要作品を時系列に沿って解説した内容となっており、島崎藤村の興味や思考を理解する上で大きく助けとなります。島崎藤村の研究の一助になれば幸いです。
『解 説
瀬沼茂樹
近代日本文学のなかで、人並以上の長寿を完うし、しかも障害を終るまで、常に第一級の仕事につとめて倦まなかったという作家は数えるだけしかいない。島崎藤村はその稀な少数の作家の一人である。藤村は昭和一八年(一九四三年)に数え年七二歳で没したのであるから、詩人として最初の詩集『若菜集』を刊行した明治三○年(一八九七年)数え年二六歳のときから数えても、ほぼ五○年近い年月を、詩人・作家として、実に生真面目なまでに文学という仕事に余念なく一身こめてうちこんでいった。この五○年間に成就した仕事は、詩集四巻、短篇小説集五巻、長篇小説七篇、童話集五巻、感想集五巻、紀行四巻その他という量にのぼり、或いは量だけをとってみると、長寿に比較して、かならずしも多いとはいえまい。~中略~
かように作品の数こそ少なかったが、そこととは逆に、質的には仕事を集中・吟味・彫啄していったことになり、その作品は藤村の名とともに不休を克ちえているし、彼自身も近代日本文学を代表する少数の大作家の一人に位置している。~中略~
もし国民文学ということを言いたてるんらば、藤村こそ日本国民および国民生活の根から生えた一番その名にふさわしい国民的な国民文学の担い手であったというべきである。鴎外や漱石が知識人んお生活のなかから人間存在の本質を知的に追及して、最終的に悟りや諦めにたっした知識人の文学であるとするならば、藤村は自己および自己の周囲からではあったが、凡庸な生活者の日常生活のなかから、日本および日本人の自然な、また社会的な生活関係をとりだして、これを知的に組織することにつとめたものである。~中略~
藤村の国民文学の最初の形態は近代詩であった。
まだ自我のめざめの幼い明治二○年代に、一方においてはプロテスタンティズムの洗礼をうけ、他方においては近代思想、とりわけルソーの『告白録』に接して、「今まで意識せずにいた自分というものを引きだされるような気がし」て、「近代人の考え方」に入っていったとは、みずから回想するところである。~中略~
藤村は、ベアトリーチェ、オフィーリア、マーガレットのような「永遠の女性」をみとめても、そこに女性崇拝は結実せず、むしろ恋愛へのあこがれと変えられ、小春、梅川、お七などの江戸文学のヒロインに代表せられる悲恋のイメージに結びついている。
人間性の主体的なめざめは、これをとりまく宗教・教学・政治・社会などの封建的な生活習慣・伝統・制度の「束縛」にたいして、明治社会においてはなお批判と破戒とを呼ぶような危険きわまるものと見られ勝ちであった。~中略~
すなわち、人間性のめざめがおのずから恋愛感情の解放となるー恋愛の自由に生命の根源的な働きを認めて、その価値を声高く高揚するー自己感情の充溢を自然な激情として発揮する「束縛」によって悲恋のおもむきをしめす、徳川期の庶民生活のなかで親しまれた女主人公たちの登場が自然となった所以であろう。その上で、藤村は、これらの処女たちの内面において、恋愛感情を解放しながらーそこに官能的なエロティシズムを発散するー同時に外的な「束縛」によって、これを抑制していかなければならないことになった。そこで、七五調や五七調という伝統的な定形率の枠のなかで「平俗談語」によりながら、新しい詩語を発掘していくという迂回した道をとった。それは、いわば庶民的な国民感情を通して、庶民的な歌調をもって、うたいあげたということであろう。これこそ佐藤春夫が「やや高級に格調の高い民謡の如き感さえある」といったことであり、藤村詩が長くひろく日本国民の間に愛誦せられる国民詩となったのは却ってこんなところに由来するのである。
藤村における恋愛詩が恋愛へのあこがれであり、恋愛の昇華と理想化とによるロマン的な憧憬だとすれば、それが他面において恋愛の実現を無限の可能性に追いやる恋愛への漂泊でもある。漂泊は人生の浪漫化の一つの姿態にほかならぬが、『草枕』のような漂泊詩がすでに自伝詩ー自己の生涯の内面化による人生的把握であったことを想起しなければならぬだろう。藤村文学が自己および自己の周囲の生活に取材して、そのかぎりで一貫した自伝的文学である趣きはすでに遠くここに淵源していた。~中略~
藤村が詩から小説へ出ていったのは明治三○年代の七ヵ年にわたる小諸義塾における教師生活の間である。『千曲川のスケッチ』をはじめ、「千曲河畔の物語」と呼ばれた『緑葉集』におさめられる一連の短編小説や、その一環としての長篇小説『破戒』などは、それの文学上の成果であった。大体、小説家としての藤村の出発は明治三五年一一月に同時に発表された『旧主人』と『藁草履』との「双児」で、これ以前の『うたたね』その他の習作は考慮にいれなくても差支えあるまい。詩人の内面の「抒情」が小説家の「写生」の実証によって媒介されて定着したのが藤村の小説の発足となったのは当然であるが、その出発が信州小諸地方の地方色・郷土色をもち、風土民情を基礎としていることを改めて評価してみる必要がある。~中略~
藤村の追及は自己の生活する地方生活の本質を究めようとするきわめて生真面目な研究心、真理を求める謙虚な心に発するものであったといってよい。それは、日本の一般社会のなかに国民生活のありかたをとりだしていく、基本的な行きかたであったのである。もともと地方出身の藤村にとって、地方生活は自分の生活の熟知した根拠ともいうべきものであったからである。
『破戒』は自然や習俗の細密描写においては『千曲川のスケッチ』や『緑葉集』の諸短篇において習熟したものの集大成である。短篇小説や紀行随想などで、思念においても、描写においても、習熟したものを長篇小説に組織する。長篇小説においてこころみ、なおモチーフを残すものを短篇小説において遂行するという作品の累積法は、その後も、藤村の好んで行ったところで、そこに藤村文学の強靱な構想性と見事な彫塑性とが生じる独特のやりかたがあったが、『破戒』は、「千曲河畔の物語」の集大成として、このようなやり方の最初の収穫である。~中略~
『破戒』の主人公の身分である部落民という限定は、本来からいえば、あるはずのない封建時代の階級制度の遺物にすぎない、それが明治社会にはなお習俗や人情として不合理な差別待遇を残していること、そういう封建的差別に理由無く苦しめられなければならない人たちの現にある国民生活に着目し、これに臆せずに正面から取りくんでいったところに、『破戒』の革新的な意義が当時としてあった。
しかし、『破戒』は一篇の単純な社会小説ではない。~中略~藤村が社会小説としてこれを『破戒』に試みたとすれば、藤村自身まだ時代に制約されて封建的偏見から完全に脱却していなかったような弱点が多々あることは否認できない。だが、ここに作者の意図したところは、人間性の自然と古い秩序の拘束との間の格闘を、主人公の内面の劇として、主人公の魂の内面に投入したdrame intimeに描いていくことであった。~中略~
とにかく、『破戒』は、近代日本文学にとって、若干の弱点をもっているにしても、地方生活を平凡な庶民の間からとらえ、そこに一つの日本人の生活のありかたを展示した国民的な国民文学であったことにはまちがいないのである。そこには、藤村が漱石と同じく庄屋出身でありながら、後の自伝文学において繰り返し書いたような地方の旦那衆としての「矜持と欲望」に関係するところがあるし、また次には藤村が丑松において描いたような内向的性格をみずからにもっていたことにも関係するのである。~中略~
藤村にとって自伝的文学でありながら、一時代の若い世代の生活に即した青年の理想や芸術や青春の普遍化したものとみていくならば、日本および日本人の生活と意見を代表する立派な国民文学であったことがいわれるし、またそのようなものとして存在したのである。~中略~
藤村は木曾山間の名もない小さな村の、十数代もつづいた旧家の出身であった。みずから「父とその時代」を描いたという最大の長篇小説『夜明け前』は、この木曾山中の小村馬籠を、歴史の転回点におしあげたように、藤村はその文名とともに、ここを一種の知名な場所にした。~中略~
藤村は一○歳の時に上京、木曾福島の薬種問屋に嫁した姉の家が東京にあったので、そこにひきとられ、他人の飯を食って成人していった。もし木曾山中にとどまっていたならば、藤村自身も、また馬籠という場所も、今日のように広く世間に知られることなくして終わったであろうから、一○歳の時の上京は藤村の文学者への第一歩をひらく重要な出発であったと見なされる。
ところで、島崎家の血統は『夜明け前』では省略されているが、『家』や『新生』をみれば、日本の古い家にしばしば見られる血の頽廃が濃度に現れているし、そこに家族制度特有の家族的エゴイズムも典型的に汲みとることができる。これが藤村文学の素因を考えるときに考えられなければならぬ第一のものである。しかし、その反面、『夜明け前』に理想化された父正樹の国事を思う正義感が庶民的な根拠から成立していることを見逃すわけにはいかない。これが第二の素因で、それは、藤村の母の里、馬籠の島崎家をついだ正樹の次男広助が、『家』などによると、木曾の「山林事件」ー木曾の五木を初めとする伐採の禁止が維新後、従来立入伐採の許されていた地域までを官有林に編入、山林に衣食する木曾の民の生計を奪ったことから、これを解放する運動がつづいたーに関係したことにも現れている。~中略~
こういう意味での父祖の血が藤村のうちにも脈うっており、自己および自己の周囲の生活を見廻しても、そこから庶民の立場に立って国民生活の有り様を汲みとる方向に出ていった、そこに藤村が日本および日本人の生活を、真の意味で、国民的に表現する国民文学者となりえたのだと考えざるをえない。
藤村は、『春』から後は、最後まで自伝的作家として大成していった。自己と家族とをくりかえし見つめることによって、そこまら自己の生命の根源をみるとともに、島崎家の系譜をたどるのであり、日本人の血と家を典型的に把握していくのであった。~中略~
長篇小説『家』にからまる旧い家の重荷が主人公捨吉の上に暗い影を投げているし、また捨吉の、否、藤村の漂泊自体が、この家の血統的なもの、遺伝と本能に関係し、兄に「捨吉も年頃だ。そろそろ阿爺(おやじ)が出て来たんじゃないか」という血の怖れが描かれている。しかも『春』を書いている間に、作者の身辺にはその怖れが単なる怖れにとどまらない、実生活上の苦労や破綻となって渦巻いていたことを、わたしたちは知って居いる。(『家』参照)
もしそうだとすれば、藤村が後に『幼き日』に書いたように、詩の『初恋』にはじまる暗い生の狂熱の自覚とこれにたいする警戒から即ち第一の素因から、一種の慎重な生きかたが発明工夫されていくのは当然なこととして納得される。後の『桜の実の熟する時』は明治学院の学生時代における自己の実例で、反省であり、明治女学校の教師時代もまたその継続である。これらは、藤村が実に悲壮な決意をもって意志的な努力を重ねて自己の人間形成につとめている姿であって、倫理的人間としての風貌が或る人たちのいうように、他人を欺く老獪な偽善などではなかったことを証している。~中略~』