島崎藤村の「新生」解説1
東京堂から1961年に出版された「明治大正文学研究 特集 島崎藤村研究」から井上豊氏による“「新生」の問題”は島崎藤村が書いた「新生」についての解説です。以下、『』内の文章は左記の論文からの引用となります。また、掲載にあたって、全て現代語訳しております。島崎藤村の研究の一助になれば幸いです。
『「新生」の問題
井上豊
藤村の「新生」はダンテの「新生」と同じく愛を中心とした自伝的な作品である。ただしダンテは清純な恋をえがいているが、藤村の「新生」は肉欲に傷ついた人間が、精神的な愛にめざめる家庭を扱っている。ダンテの「新生」について事実か想像か問題があるように、藤村の「新生」にも伝記か創作か区別しがたいようなまぎらわしさがある。しかし藤村の場合著者は創作として造っているのであるから、どこまでも作品として扱うべきであろう。
一
主人公の岸本は、妻の死別後、荒涼たるデカダンスのうちに絶望的なあがきをつづけていた。そうした心境については序章がよく語っているが、「生存の測りがたさ。全て岸本が妻子を引連れて山を下りようとした頃に、斯うした重い澱んだものが一生の旅の途中で自分を待受けようとは、奈何して思いがけよう。中野(註一)の友人にやって来たというような倦怠は彼にもやって来た。かつて彼の精神を高めたような幾多の美しい生活を送った人達のことも、皆空虚のように成ってしまった。云々」等の言葉にも明らかである。ロマンチックな昂揚のあとの頽廃であり、それはまた時代的な雰囲気でもあった。「新生」は明治四十五年(四十一才)から大正七年(四十七才)にいたるまでの藤村の生活に取材し、大正七年から八年にかけて発表されているが、ちょうど自然主義の盛時から新理想主義の時代にわたっている。こうした時代傾向は「新生」の作品構成に多分に影響をあたえているようである。岸本は妻園子の死後、女性嫌悪の心から独身をつづけ、再婚問題などにも耳をかさずにいたのであるが、皮肉にも手もとにおいていた姪の節子と道ならぬ関係に陥った。節子は「かつて愛したこともなく愛されたこともないような娘」であり、「特に岸本の心を誘惑すべき何物をも」もたなかった。その節子と過失をおかしたのであり、過失の後始末が「新生」全体の骨子とされているわけであるが、過失のプロセスについては一向にふれず、ただ「犯すつもりもなく斯様な罪を犯した」、といい、「陥穴のようなところへ墜ちていった」ともいっている。さりげなく書かれてはいるが、単なる肉欲の衝動でも偶然の過失でもなく、運命的な不思議な力のなすわざであった。偶然のように見えながら必然と結びついている。岸本は八才の頃はじめて激しい初恋をしったとあり、青年時代の恋で新しい世界にめざめるとともに、恋の苦しさもしり、無知な妻との夫婦生活で情痴を楽しみつつ、一面ではいたましい孤独にも堪えねばならなかった。(後日の不幸はこの孤独に胚胎したと言っている。)妻の死後女性にたいしては冷淡にとおし、独身生活をばひそかに異性にたいする復讐とまで考えていたが、矛盾をはらんだ女性観はついに手きびしい仕返しをもって報いられることになった。
岸本は狼狽した。思いあまって巴里に旅立つ。遠く離れることによって、肉欲のきずなを断というとした。節子は切々たる思をうったえてきたが、愛を感じない。岸本が苦しんだのは、ただ過失にたいする罪悪感からであり、過失がうんだ結果にたいする恐怖のためであった。過失のあとでも妊娠の事実を告げられてはじめて驚いたことになっている。罪悪観としては不純といわねばならないが、基督教の洗礼をうけたり、ミッションスクールの教壇に立ったりしたことのある作者が、これらの点について曖昧を極めているのは不思議な感じを与える。もっとも藤村の洗礼を受けたころの信仰は不徹底なものだったらしく(この点については笹淵友一氏の「国語と国文学」に発表した研究がある)はやくから宗教と芸術のアンチノミーに悩んでいたようである。岸本は外遊に先だち節子の父親にだけ秘密をもらし、罪の子の後始末を頼んででかけたのであるが、節子にたいする気持はただ恐怖と哀憐に過ぎなかった。三年間懊悩をつづけたはてに結局帰国の覚悟をきめる。節子には結婚をすすめ、自分も再婚の決意のもとに帰ることになる。外国への逃避行といい、帰国後の方針といい、岸本の態度には無責任なエゴイズムが目だつ。
もっとも岸本にしてみれば、フランス行きは絶望的な逃走であって、異郷に骨を埋める覚悟もあったのであり、帰国の覚悟ができたのは新生の一段階を意味した。かくて「新生」上巻の終りは、「死の中から持来す回生の力ーそれは彼の周囲にある人達の願いであるばかりでなく、また彼自身の熱い望みであった。春が待たれた」、といった言葉で結ばれている。エトランゼーとしての流離孤独の生活は生にたいする愛着の念をよびさまし、泥沼のような頽廃的な現実から脱けだす日が来たのである。
註一。「中野の友人」蒲原有明をさすらしい。有明との関係については、有明の「先駆者としての藤村」(「芸林間歩」第三巻第一号)も参考になる。
岸本は帰国してからは自分も新しい相手を見つけ、節子も家庭人となるようにはからうつもりであった。節子の心はすっかり岸本に傾いていた。岸本も次第に節子の切実な愛に動かされ、憐みから愛にうつっていった。こうして肉欲から出発した二人の関係は、肉欲をも叔姪のきずなをも超越して霊的な愛の世界に高められゆく。ここに復活があり、新生があった。冬の世界に春の訪れをみた。しかし岸本の心には二人の関係を秘密にしておくことの苦しさが重くのしかかっていた。岸本は己の罪過を節子の父なる兄義雄にしかしらせず、節子の母はついに告白をきくことなくして世をさった。一切を懺悔し告白して自由な世界にでようとの決意がかたく岸本をとらえた。ついに岸本は決意を実行し、姪節子との関係を作品として公にした。近親の驚きと怒りは想像のごとく、はじめから秘密主義を方針とした義雄は義絶をいいわたした。節子は台湾なる伯父民助の手もとにひきとられることになり、節子は永遠の愛を信じつつ遠く旅立つ。岸本は虚偽を憎むが故にこの挙にでたのであったが、かえってすべての関係に剣を投ずることになった。ただ二人の愛はあらゆる障害をこえて絶対的なものとなり、永遠性を獲得した。かくて絶望的な頽廃から、愛を通して宗教的な世界に到達することができた、とある。
告白の問題に関しては岸本は再びエゴイスチックになっている。自らを自由にし節子をも救うためとはいっているが、事実においては岸本の自己救済に終った。告白が節子を不幸におとしいれるのは、常識からいっても当然予想できることであり、節子のモデルになった女性の悲惨な後半生については周知のごとくである。ただ藤村はよくひかれるように明治三十七年「藤村詩集」に序して「思えば言うぞよき。ためらわずして言うぞよき。いささかなる活動に励まされて、われも身と心を救いしなり」といい、「破戒」においても告白が重要なテーマをなあしているので、作者がデーモニッシュな創作衝動にかられる傾向の強かったことがしられる。これは詩に、「わが胸の底のここには、言いがたき秘密性(ひめごと)住めり」(落梅集)とうたい、「半生を通じて繞りに繞った憂鬱」と自ら呼んでいる心内の秘密と密接に結びついているのであろう。「新生」後半のもつ矛盾はそうした創作衝動という点から理解すべきであろう。
二
藤村の新生については、平野謙著「島崎藤村」に、新生制作のモチーフとして、恋愛からの自由、金銭からの自由、芸術的作因、の三つをあげている。が恋愛からの自由を指摘した点には曲解阿があるように思う。節子との愛欲関係については作者の叙述をすなおに受取るべきであろう。岸本は自分を愛欲の泥濘に陥れ、七転八倒の苦しみをなめさせられた運命の手をこそおれたが、これ故に節子にたいしてもはじめ怖れをもったが、次第に愛を深めていったことは否定できない。矛盾は無理な作品化から生まれたので、虚偽の愛が生んだのではなさそうである。しかし愛欲の問題が「新生」の根本テーマをなすこというまでもない。はじめ岸本は愛欲の過失をおおうため逃げようととした。が節子の純情にひかれ、相互の愛を精神的なものに高めることによって新生に到達した。ただその新生は客観的にみて節子よりは岸本のための新生であり、一方的な解決に終っているのである。トルストイの「復活」の方がより客観的にリアリスチックになっている。正宗白鳥も「自然主義盛衰史」において、「新生」と「復活」を比較し、「復活」のネフリュードフにくらべて「新生」の主人公の行為は自分勝手だとしているが、「しかしトルストイと藤村との素質の相違がここに見られるのではなくて、『復活』は作り物語であり『新生』は事実の記録であるからだ。私はトルストイが理想化した人物ネフリュードフの崇高な精神に感歎するとともに、『新生』の愚かな所行に人間通有の心境を見て苦笑するのである」と説いている。もっとも「新生」もなかば作り話にはなっているのであるが、作品化の未熟さがこうした結果を生んだのであろう。
次に金銭からの自由については、新生に限らず藤村の生涯には金銭事情がいたましくからんでおり、藤村論としては見のがしがたいが、作品分析の立場kらはさして重要視しなくともよさそうだ。「島崎藤村」の「新生」論は愛欲事情と近世事情を重視し、芸術的作因はつけたりのように扱っているが、愛欲問題が中心をなしていることは争えないとして、金銭からの自由を重視しすぎ芸術的作因を軽くあしらっているのはどうであろうか。暗い運命をせおってうまれた藤村にとって、芸術は自己救済の血路であった。「新生」が作品化において未熟なものがあるにしても、モチーフの問題としては芸術的作因が重視されねばならない。
なお「新生」に関しては、芥川龍之介の「或る阿呆の一生」に、「殊に『新生』に至ってはー彼は『新生』の主人公ほど老獪な偽善者に出逢ったことはなかった、」とあり、「新生」は藤村の「新生」をさしたものとされ、藤村自身も、自分の新生をさしたものらしい、として自己弁護を試みている、(「市井において」。)こうして藤村について老獪とか偽善とかいうレッテルがはられ、近くは正宗白鳥なども、
私は「新生」における藤村の悩みや態度について感銘が深いが、今度読返して見て、この小説の甚だ不愉快であることも感じた。「新生の主人公ほど老獪な偽善者はない」と芥川が言ったのは有名である。(自然主義盛衰史)。
と述べている。しかし芥川は右の言葉に前後してストリンドベルクやルソー、ヴィヨンのことなどにも言及していて、藤村の「新生」ではしっくりしないし、ダンテの「新生」をさしたともとれる。ダンテについては「神曲」にたいする白鳥の冷評にも賛意を表している。が、「侏儒の言葉」でも「新生」にふれ、「新生」読後と題して、「果して『新生』はあったであろうか?」と反問し、その前に懺悔について懐疑的な言葉を述べている。ダンテの「新生」は懺悔とはいえないから、やはりどちらも藤村の「新生」をさしたことになるのであろう。ただし芥川が「新生」の偽善を問題にしたのは、ダンテやストリンドベルク、ルソー、トルストイ、等の偽善をも問題とせずにはおかぬような懐疑的な神経からきていることも考えなくてはならない。芥川はひどく藤村嫌いだったらしく、それには出生の秘密もからんでいるという。肌合の相違もあるが、芥川の死に女人問題がからんでいることも、「新生」にたいする冷語を理解するうえに役立つと思う。
藤村は芥川の反問をよみ、「市井にありて」の中で、「芥川君は懺悔とか告白とかに重きをおいてあの『新生』を読んだようであるが、私としては懺悔ということにそれほど重きを置いてあの作を書いたのではない。人間生活の真実がいくらも私達の言葉で尽せるものでもなく、又書きあらわせるものでもないことに心を潜めた上での人で、なお且つ私の書いたものが嘘だと言われるならば、私は進んでどんな非難に当りもしようが、もともと私は自分を偽るほどの余裕があってあの『新生』を書いたものでもない。当時私は心に激することがあってああいう作を書いたものの、私達の時代に濃いデカダンスをめがけて鶴嘴を打ち込んでみるつもりであった。荒れすさんだ自分等の心を掘り起こしてみたら、生きながらの地獄からそのままあんな世界に活き返る日も来たと言って見たいつもりであった」といっているが、懺悔や告白に重きをおかぬといい、自分を偽るほどの余裕はなかったといっているあたり、曲筆があるようであるが、
「私達の時代に濃いデカダンスをめがけて云々」とある言葉も注意しなければならない。従来(註二)の「新生」論はあまりこの点を重視していないようであるが、序章をよめばこうした意図がかなり強くはたらいていたことがしられる。これのみがモチーフであったとはいえないが、有力なモチーフの一つといってよい。ただ作中では愛欲問題と告白が中心をなしているようにあつかわれているので、右のような意図ははっきりでていない。とにかく「新生」は愛欲上の過失からの新生のみを意味せず、より一般的な意味をもたせようとしたものであった。すなわち新理想主義的な精神傾向と歩調を合せたところがある。ただし自然主義的な自己告白の傾向と理想主義的な傾向とが充分にとけあわされず、作品化において未熟さがめだつのである。
註二。瀬沼茂樹著「島崎藤村」にも「新生」についてたちいった考察があるが、この問題についてはやはり自己告白に重点をおき、「自己告白は藤村にとって自己解放であり自己救済であった。あらゆる意味において自己解放自己救済であった、」と説いている、しかし下巻における態度の変化についても注意している。』