ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

井上靖による島崎藤村の解説1

 中央公論社から1964年に出版された「日本の文学6 島崎藤村」から井上靖氏による島崎藤村の解説は、当時の藤村の偉業について明瞭に説明しており大変解りやすいのが特徴です。以下、『』内の文章は左記の解説からの引用となります。島崎藤村の研究の一助になれば幸いです。

 


解説
   井上 靖


 今年になってから、この島崎藤村集の解説を書かねばならないので、少しずつ心掛けて藤村の作品やら、それに対する解説、批評、または評伝、ゴシップに類するものまで、手当り次第読んで来た。藤村に関する参考文献は非常に多いので、もちろんその何十分の一かに眼を通したに過ぎないが、それでも私としては、一人の作家についての文章をこれほど多く読んだことはなかった。これまでは私は決して藤村のいい読者とは言えなかった。藤村に文学者としての不滅の輝きを与えた「家」や「夜明け前」も、それを完全に読んだのは大学をおえて社会人になってからである。藤村と同時代の他の作家のものは一応こまめに読んでいたが、どういうものか藤村には手が出なかった。「家」も「夜明け前」も読まなければならぬ作品らしいので読んでおこうといったそんな読み方であった。
 藤村の孤独な貌
 こんど改めて藤村の主な作品の全部に眼を通した。そして藤村が鴎外、漱石と並んで、近代日本文学の高い嶺と目されていることがきわめて当然であることを、今更ながら思い知らされた気持だった。文学者としての藤村の生涯は立派である。その業績の持つ大きな意味は後で述べるとして、その生き方だけを考えても、終始、文学者としての厳しさに貫かれた稀有なものであるし、その創作態度も、「東方の門」執筆半ばに倒れるまで、文学者としての誠実をもって貫いてみごとである。また一方で、藤村の主な作品を読んで、藤村に馴染めない作家や文学者のあるということも判る気がした。私にしても依然として自分が藤村の愛読者であるという思いを持つことはできなかった。これは、しかし、藤村を傷つけることにもならないし、非礼にわたることにもならないであろう。藤村に学ばなければならぬものは実にたくさんあり、藤村を読み直したことは、私にとってはやはり一つの大きな事件であった。
 私は藤村に会っていない。一度でも合う機会に恵まれていたら、どんなによかったかと思う。藤村と同じ時代に生きた作家の誰にも会っていない私が、藤村に会わなかったことをことさら取り上げて言うのはおかしいことであるが、この小文を綴るにあたって、しきりにそのような気がしてならない。鴎外、漱石、花袋、そうした人たちの場合は、写真を見ても特別な穿鑿的(せんさく)的な眼をあてることはない。鴎外はこんな顔をしていたのかとか、花袋はこんな顔をしていたのかとか、そんなことを思うだけのことで、その写真の顔を、その性格や、引いては作品に結びつけて考えさせられるようなことはない。鴎外の顔は「雁」とも「渋江抽斎」とも無関係にそこにある、と言ってもいっこうに差しつかえないと思われるが、その点、藤村は少し違うようである。私は藤村の若い時の写真でも、晩年の写真でも、そこに映っている藤村の顔を、その作品と無関係なものとして切り離して眺めることはできない。
 写真の藤村の顔は実にたくさんのものを併せ持っている。私は藤村の写真を見る時、無意識にその顔の中からいろいろなものを選り分けようとする。どうもそうしたことをしているように思われるのである。藤村の顔が私にそのようなことを強いるのか、藤村の作品が私にそのような見方で藤村の顔を見させるのか、そのいずれであるかは知らないが、こうしたところが、作家としての藤村が他と異っている独自なところではないかと思う。藤村の顔は写真で見るかぎりかなりみごとな“孤独”の浮き彫りである。藤村は晩年、石井鶴三氏の塑像のモデルになっており、これは穏やか肖像彫刻に仕上がっているが、藤村は晩年このような穏やかな顔になっていたのかと意外な思いで眺めたことがある。この晩年の彫刻は別にして、写真で見るかぎり藤村という巨大な孤独な精神が実に雑多ないろいろなもので形成されているのを感ずる。しかもそれが、求道者的な静かなつつましい姿勢に統一されているのを感ずる。誰でも知るようにこの閉鎖された精神は、告白という特殊な形において外部への通路を持っているのであるが、そのこともまた頭のどこかに置いて、私は藤村の顔を見ているようである。
 藤村ほど己が文学に真摯な信奉者を持っている作家はない。と同時に、藤村ほど同時代の一部の作家から冷たく見られた作家もないのではないかと思う。が、これは藤村のような型の作家の場合、きわめて当然なことと言わなければなるまい。作家は例外なしに精神の内部に秘密工場を持っており、そこで青い火を燃やしたり赤い火を燃やしたりしているが、藤村はいってみればその秘密工場の公開に、己が文学者としての立場を置いているようなものである。藤村文学の信奉者はそうした作家としての態度や姿勢に魅せられ、藤村嫌いはそこに己が好みに合わぬものを感じる。しかし、秘密工場は所詮、秘密工場である。いくら公開しても、それを操作する秘密までは披露できないのである。藤村研究家は、この秘密工場の操作の不分明なところに藤村理解の手がかりを発見しようとする。
 私は藤村に会っていたらよかったと思う。藤村の孤独な貌(かお)の中の二つの非凡な眼、ー生臭くして清純、猜疑深くて敬虔、優しくて強靱な二つの眼を、私は自分の網膜に収めておきたかったと思うのである。

 

 若菜集」ほか


 藤村の第一詩集「若菜集」は明治三十年八月春陽堂から出版された。二十六歳の時である。前年九月に藤村は東北学院の作文教師として仙台に赴任し、「若菜集」出版の年の七月、一ヵ年足らずの仙台生活を打ちきって帰京しているが、この詩集に収めらえている詩篇はいずれも仙台の生活において生まれたもので、「文学界」に発表したものである。「文学界」は北村透谷(とうこく)、平田禿木(とうぼく)、戸川秋骨(しゅうこつ)、馬場孤蝶(こちょう)等が創刊したもので、藤村も関係しており、日本ロマン主義文学運動の母胎となった雑誌である。後年、藤村は次のように仙台時代を回顧している。
 「明治二十九年の秋、私は仙台へ行った。あの東北の古い静かな都会で私は一年ばかりを送った。私の生涯はそこへ行って初めて夜が明けたような気がした。私は仙台の客舎で書いた詩稿を毎月東京へ送って、その以前から友人同志で出していた雑誌『文学界』に載せた。それを集めて公(おおやけ)にしたのが私の第一の集だ。
 『若菜集』は私の文学生涯に取っての処女作とも言うべきものだ。そのころの詩歌の領分は非常に狭い不自由なもので、自分等の思うような詩歌はまだまだ遠い先の方に待っているような気がしたが、ともかくも先蹤(せんしょう)を離れよう、詩歌というものをもっともっと自分等の心に近づけようと試み、黙し勝ちな私の口唇はほどけて来た」(大正元年の改訂版「藤村詩集」の序より)
 この藤村の回想は静かに虔(つつま)しく綴られているが、おそらく「若菜集」を出した当時の心境はこのように語らるべきものであったに違いない。藤村が時代の先達たる新しい詩人としての自覚を持ったのは、おそらく「若菜集」一巻の大きな成功をみたあとのことで、翌三十一年には第二詩文集「一葉舟」、第三詩集「夏草」を相次いで出版し、三十四年には第四詩文集「落梅集」を世に送っている。そして三十七年には藤村は上記の四詩集の合本を「藤村詩集」と題して春陽堂から刊行しているが、その詩集に新しく序をつけている。
 「遂に、新しき詩歌の時は来りぬ。
  そはうつくしき曙のごとくなりき。あるものは古の予言者の如く叫び、あるものは西の詩人のごとくに呼ばばり、いづれも明光と新声と空想とに酔へるがごとくなりき。」
 こうした高い調子で始まる文章は、まことに「藤村詩集」の第一頁を飾るにふさわしいものであった。「若菜集」を出してから七年の間に己がものとした栄光と、新詩人としtねお自覚と矜持とが行間から立ち上っている感じである。これは新しい詩人群を代表しての藤村の若々しい宣言でもあり、凱歌でもあり、古い時代への袂別の言葉でもあり、また新しい詩に関する誇りやかな解説でもあった。
 「若菜集」を初めとする四冊の詩集に収められた藤村の詩業が、いかに日本文学史の上に高い位置を占めるかはここに改めて述べるまでもあるまい。藤村の詩集はその大部分が若い女性の恋愛感情を取り扱ったものであるが、それまで心底深く秘めておくべきものとされていた青春の感情は、藤村によって初めて大胆にあらわに脈動するものとして捉えられたのである。藤村が序の最初に宣したようにまさに「若菜集」一巻によって近代詩の夜明けはやって来たのである。
 
 「若菜集」が時代に果たした最も大きい役割は、誰もが指摘しているとおり感情の解放であった。そして、新しい酒は新しい瓶に盛られねばならなかった。と言って、藤村は従来にないまったく新しい詩型を採用したわけではなかった。新体詩の詩型をそのまま踏襲して、それをまったく新しいものとして生まれ替らせたのである。これを為しとげさせたものは詩人藤村の天分である。
 藤村の詩を読む読者のために、藤村の詩が持つ生命がいかなるものであるか、それを最も正しく説いたものとして、佐藤春夫氏は河井酔茗(すいめい)氏の次の一文を挙げているが、私もまたこれ以上の藤村の詩に対するよき理解はないと思う。
 「藤村は青春の情熱をじっと抑えつけて、感情の浪費と消耗とを避け情感を整調してうたの言葉に現わそうとした。現わす場合に激しい憤りや怨みやを一切底に沈めて潔らかな流れのようにして現わした。一つの水のうねえりの底からの動きが現れたものであった。で、言葉には根があった。生命があった。今まで多くの人々に根もなく生命もなく使われていた言葉にも新しい生命の呼吸が通う魅力が生じて来る。一語一語切り離してしまえば格別異った言葉でもなく、ただその言葉だけのものが、その言葉が一句つづけられ二句つづけられ、一節となって格調をととのえて来ると、実に潑剌たる感興が盛り上って来る。この手法の新しさこそ藤村の持つ大きな強みであって、何人にも共通する直感力の把握である」(河井酔茗「酔茗詩話」所収の「藤村の前と後と」より)
 藤村の詩の持つ生命は、まさしくこのようにして生まれて来るものに違いないと思う。そして新体詩という詩型は、藤村によって、まったく新しい詩の生命を盛る函(はこ)として、ここに新しく生まれ替らされたのである。

 私は学生時代、藤村の詩を読むと言い得るような読み方で読んだことはなかった。私ばかりでなく、私と同年配の者は大体において同じではなかったかと思う。私たちの前に立ちはだかっているのは藤村ではなくて、萩原朔太郎であった。現代の若い人たちも同じではないかと思う。藤村の詩は、日本近代詩の最初のものとして、文学史上に永遠不滅の椅子を占めるものではあるが、しかし、もはやその詩からは何ものも学ばないし、学ぶべきものもない。私もかつてこうした考えを持った時期があったが、現代の若い人たちも同じように考えているのではないかと思う。
 しかし、果してそうであろうか。私はいま自分が若い時懐(いだ)いたような藤村の詩に対する不遜な考えは持つことはできない。私たちはやはり藤村の詩から大切なものを学んで来たし、そしていまも学んでいるのである。藤村の詩に西欧的な詩精神を取り入れた、藤村の詩の後継者といっても、そう間違いではないと思われる三好達治氏は、次のような文章を綴っている。
 「心の宿の宮城野よ
 『若菜集』を開いてこの一行に出会うごとに、私には一種格別な気持の動くのが常である。或は詩集を開くでもなく、ただ唇に浮んでくる時にも、やはり同じように格別な気持を覚える習慣である。(中略)私なども熱心な藤村詩の愛読者というのではないけれども、いつのほどというでもなく、藤村詩の恩沢を蒙ったことを、自分なりの分限においてたしかにあり難いことに思っている。
 恩沢などと重ったらしい言葉でいうのは気がひける。
 時は暮れゆく春よりぞ
 また短きはなかるらん
 と、ふと、前後は略として、口ずさむような時のこと、そのことを私はいうのである。
 
 なぐさめもなき心より
 流れて落つる涙かな
 という風な一二行がおのずから唇にのぼってきて、しばらく私の気持が甘美な言葉とともに停むこと、そのことを私はいうのである」(講談社版日本現代文学全集「島崎藤村集(一)月報より」)
 三好達治氏のこの文章に、何もこれ以上つけ加えることはないと思う。私たちは藤村の詩集を繙(ひもと)くと繙かないにかかわらず、藤村の詩の大きい恩恵を蒙っているのである。私は前に挙げた河井酔茗氏の文章と共に、この三好達治氏の文章を、藤村の詩を語る珠玉の文字であると思う。「晩春の別離」にしろ、「小諸なる古城のほとり」にしろ、それが長い生命を持って、人に記憶され、口誦(くちず)さまれるということは、単なる感傷でもなければ、言葉の言い廻しの美しさのためでもない。もっと厳しく、冷たく、澄んだものが、詩の生命が、甘美な言葉の織物の中に大切にしまわれてあるからである。容易には誰にも気付かれぬ形で、大切にしまわれてあるのである。』

 

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