ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

徳永直の小説勉強 – 夏目漱石1

昭和18年(1943年)に出版された徳永直(すなお)の「小説勉強」より、徳永直が学んだ小説家に対して宛てた随筆を現代語訳した上、掲載しております。ここでは、夏目漱石編を下記の『』にて引用しております。徳永直の研究の一助になれば幸いです。

 


夏目漱石


 日本の作家で漱石ほどひろく読まれている人は少ないだろう。そしてこれは菊池寛がひろく読まれたり、ないしは吉屋信子吉川英治が読まれているのとは、通俗作品を一つもまじえていないという点でちがっている。つまり純文学作家として一番ひろくよまれている人であって、またその意味で純文学作品としての漱石文学の特色を裏づけているとも言えないことはない。
 「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「三四郎」「それから」「門」などの初期の作品は、明治末期以来の日本人の青年時代、学生時代に一度は必ず読んできて、今日まで連綿とつづいているような作品だ。ところが後期の諸作品「行人」「心」「道草」「明暗」などの諸長篇となると、グッと減ってしまうようだ。つまり「吾輩は猫である」の読者は「道草」とか「行人」とかにまでついてこないで、どっかへいってしまうような、べつに統計してみたわけでもないが、そんな感じがあると思うのである。
 こういう例が他にもない訳ではなかろうが、たとえば菊池寛が後期には通俗作家となって益々沢山の読者をもっているなどと対照するのは無理か知れぬが、とにかく面白い。また別な意味で、漱石自身としては年をとるに従って、飛躍してゆくのにくらべて、初期の読者がその青年時代だけ初期の作品をかじると、それなりにつづかないということも、漱石作品の特徴を語ると同時に、日本の作家と読者の関係およびその全体的な、日本の文学環境を語っているのではなかろうか。
 漱石は本名を金之助といい、江戸牛込の喜久井町に生まれた。慶應三年のことで、父は名主であったというから、それこそ生粋の江戸ッ子だったにちがいない。四歳から七歳まで里子にだされて、両親の血縁的な愛情からは遠く育った事情は、後期の名作「道草」のうちでつぶさに語られている。
 明治十七年大学予備門、同二十三年帝国大学に入学、同二十六年から東京高師や、松山中学、第五高等学校などの教師となって同三十三年に英国へ留学した。
 「坊っちゃん」は松山中学時代「草枕」は第五高等学校時代に背景がとられていることは有名だ。
 漱石が始めて「吾輩は猫である」を発表したのは、英国から戻った三十六年から二年後の三十八年で、つまり彼の文学者としての出発は三十九歳ないし四十歳というわけである。
 そして、も少し経歴をつづけると、三十六年に帰朝してから帝大教師となって、たった四年で辞職し、明治四十年には朝日新聞へ入社しているが、帰朝後のこの経歴と、帰朝三年めから小説などを書き始めている事情と照らしあわせてなかなか興味ふかい。つまり江戸育ちの坊っちゃんは、学校的にはその主流をあるいて、時代の急激な進歩と共に、外国留学、帝大講師と未来の大学教授なり、総長なりを約束されながら、しかもたった四年で予約された栄達のみちを捨て去り、一新聞社へはいってしまって、生来のつむじまがりをみせた。そのまがったつむじと、四十歳で文壇生活へはいったということとにも、すでに漱石文学の特色とする本質的な契機がふくまれているではないだろうか。』

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