徳永直の小説勉強 – 島崎藤村2
昭和18年(1943年)に出版された徳永直(すなお)の「小説勉強」より、徳永直が学んだ小説家に対して宛てた随筆を現代語訳した上、掲載しております。ここでは、島崎藤村編を下記の『』にて引用しております。徳永直の研究の一助になれば幸いです。
『藤村は二十六才で始めて詩集「若菜集」を出し、三十二才で「水彩画家」等の短篇を書き、小説家として漸く地位を固めることの出来た最初の力作「破戒」を発表したのは三十五才であるから、当時では殊に、遅い文壇進出であったろう。年代的に主なる作品をあげてみると、三十六才に長篇「春」三十七、八才で「家」上下巻、四十三才に「桜の実の熟する時」四十七、八才で「新生」上下巻、六十才から約七、八年がかりで、「夜明け前」第一、第二部が完成している。
もちろんこの間に、有名な詩散文とでも名づくべき「千曲川のスケッチ」があり、数冊の詩集があり、数冊の童話集がある。さらに藤村文学にとって大きなポイントともなる、「破戒」や「春」や「家」や「桜の実の熟する時」までの諸作品が大きく旋回して「夜明け前」の集大成に達する、その鍵ともいうべき一連の欧州紀行文「故国を見るまで」「故国に帰りて」「仏蘭西紀行」その他の諸篇がある。
秋声の作品は前回で書いたように、膨大であるばかりでなく、八百八町のお江戸の大路小路のごとく錯雑していて、どっから手のつけようもないようなのに比べると、藤村の作品はもっと整然としている。山の上から麓の部落をみるように藤村が尻端しょりの草鞋がけで、コツコツと人生街道を歩いているのがわかる。あるときは困難な峠道を汗をふきふき、あるときは小春日和の野良道をポクポクと、その後ろ姿がよくわかる。
しかもその特徴は、ちゃんと文章のスタイルにもあらわれている。まったく争われないもので、藤村の文章は謹厳であると同時に朴訥である。秋声の文章スタイルは都会人的な気分の複雑さを、短い動作と低い声と言葉以外の眼色やアクセントで表現するような緻密さにくらべて、藤村のスタイルは単純質朴な尻声のたかさや、動作の明らかさがある。牧歌的な詠嘆声はあっても、秋声の都会の空を覆うている鉛のような重くるしさはみることができない。たとえば「千曲川のスケッチ」の随所に出てくる信濃路の困難な百姓の日々のくらしの描写でも、同じ背景になる「破戒」の中の人々の描写でも、ついには四季の自然の推移にとけこんでしまうことで、自ら浄められてしまうような一種の明るさを漂わせている。
藤村作品は有名で、文庫物や全集物で、読者諸君も既に馴染みのことと思う。概して日本近代文学の初期には自然観照的な作家が多かった。徳冨蘆花や、田山花袋やハイカラな国木田独歩や、夏目漱石でさえが、一面ではやはりそうであった。島崎藤村はその代表的な作家である。秋声は同じ時代の作家としては、まことにめずらしく徹頭徹尾人間臭さに終始している作家であるが、そのいずれが散文芸術の本道であるかなどという論議は、簡単に出来ぬことである。藤村のそれは自然観照を最も人間的なもので貫き、険しい山路をよぢ、涯しなくうねりつづく野原道を、裸の一人旅でする姿がどれだけ強く文学のありかを、後進の私たちに教えているか知れない。
藤村の父正樹は「夜明け前」に出てくるような、木曾路の御本陣の主人であり幕末の国学者平田篤胤の門人であった。だから藤村が十三才で英語を学ばんとしたとき、父の反対を極度に怖れたと、藤村自身書いている。しかし十五才では三田英学校に入り十八才では基督教の洗礼を受けている。』