ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

自然主義における島崎藤村

 東京堂から1961年に出版された「明治大正文学研究 特集 島崎藤村研究」から瀬沼茂樹氏による「藤村と自然主義」は自然主義の観点から島崎藤村を捉えた内容です。以下、『』内の文章は左記の論文からの引用となります。また、掲載にあたって、全て現代語訳しております。島崎藤村の研究の一助になれば幸いです。

 


藤村と自然主義
        瀬沼茂樹
  一
 島崎藤村が第二の長篇『春』を準備しているときに、雑誌『趣味』(明治四一・一)の問いに答えて、現在敬慕している外国作家はツルゲーネフの判断、イプセンの冥想、モーパッサンの束縛されない観察などだが、バルザックを忘れ、ゾラを忘れたように、いつかこれらの大家を忘れないものでもないと、いっている。これでみると、バルザックやゾラを敬慕していた時代があるようにみえる。それはいつの頃のことであろうか、はっきりとした実証はあげにくいが、韻文では自分の思想を現しにくい、「小説が私の思想(かんがえ)を現すに最も相応しい形だ」(緑陰雑話)と考えるようになったころのことであろう。
 藤村が韻文から散文に移った時代は、藤村だけではなく、同じような人が「大分ある様ですねえ」(同)といわれるような時期で、外国文学、特にゾラの自然主義に「開発され指導されて」一つの「模倣の時代」をみせていた時期、小杉天外永井荷風のゾライスムの見られたときである。
 だから、藤村もまた時代の動きに敏感に、散文への移りゆきを、バルザックやゾラに仰いだと考え、その時期はほぼこのころだと推定しても、さしつかえないだろう。しかし、ゾラはとにかく、バルザックについては、今日までに公にされている資料では、どの程度まで知っていて、敬慕していたのか、確かめにくい。『自然派と非自然派』(明治四一・三)という談話や、『モーパッサンの小説論』(明治四二・八)という感想には僅かにバルザックの『人間喜劇』の総序に言及したものがあるが、明治三十年代においては、どうだったか書簡などについてみても、はっきりした確証がみつからない。このことは、程度のちがいはあるが、ゾラについても同じである。
 そこで、もしいうように、バルザック、ゾラを敬慕していたにしても、『旧主人』『藁草履』(明治三五・一一)の「双児」的作品を書いて、小説家としてデビューしていったころには、すでにフローベールモーパッサンイプセンツルゲーネフ、ハウプトマンなどの、広いさまざまな自然主義の傾向が強くなってきている。このころになっても、一体、自然主義についてどのように考えているのか、たとえば僚友田山花袋の場合ほど、はっきりした考えは、感想評論などからは直接にうかがえない。信州の小諸にあって、三宅克巳にたいし「大兄の自然派に開くべき地面(明治三五・一○)といったり、田山花袋にたいし「大兄はナチュラリズムの趨勢を極めてすでに一歩を新しき地に転ぜらるる」(同・一一)と書いたりして、みずから自然主義の方向に独自の場を求めていたことを思わせるにとどまる。
 初めての長篇『破戒』(明治三九・三刊)をだした直後の談話、さきにもちょっと引いた『緑陰雑話』(明治三九・四)になると、いくらか面白い暗示をみることができる。「恋愛にしても昔の様に感情ばかりでなく、今のは生活の問題や生殖のことも非常な関係を有って居ますから、一方に情熱が燃えて居ても一方には智が働いて居るのです。」わが国の作品が浅いのは、この智ー「深く人生を知ると云う様な方面が浅いから」である。これまで小説でまったく看過されている生活問題も「将来は甚深な関係を以て描かれる」であろう。以前は「局部の描写」だけが多いが、いままでわが国の文学に欠けていた「大体を観察し、更に進んで之を批評し解釈しようとする点に」力をそそぐようになるだろうといっている。ついで、近頃の自然主義には消極的なものと積極的なものと両面がある。国木田独歩のように「自ら敗れたものや、世の中から斥けられたすたり者の間にも一種の面白味を見出して之を描く」のが消極的な方だという。ここで積極的な方については、なにも書かれていないが、推測することはできよう。
 これは『破戒』完成の後で、自分はまだ「稽古の時代」だといいながら、或る程度まで自信をもって彼流に結晶しかけていた文学観の現われであろう。その後で、初めての短篇集『緑葉集』を編んで、その大部分の作品を、『破戒』とあわせて「千曲河畔の物語」といったときに、初めからこのような意図をもって「一地方の出来事」だけから書きすすめ、そこに「田舎風俗」の小説を考えていたのだろうか、それとも、東京に出て、このような文学観からの回想であったのだろうか、ということが問題になる。初めての小説の「双児」の一つで、発売禁止になって『緑葉集』に入らなかった『旧主人』が、やはり「千曲河畔の物語」の一つであり、フローベールの『ボヴァリー夫人』からきた「田舎風俗」であった。「田舎風俗」は『ボヴァリー夫人』のサブタイトルでもあった。そして、「双児」のもう一つ『藁草履』から『旧主人』を含め、『爺(おやじ)』(明治三六・一)『老嬢』(同・六)『水彩画家』(明治三七・一)にいたる「千曲河畔の物語」五篇は、ほぼ十五ヶ月たらずのあいだに、連続して世に出た作品であり、この地方をいろいろと書きわけようとした一連の「田舎風俗」であったとみることは、あまり無理がないのではないかと思う。
 『緑葉集』の序(明治三九・一一執筆)が、後からつじつまを合わせた理屈とみることは、この場合、あたるまい。田舎教師として小諸にきて高原生活をはじめ、「真に『田舎』というものが予の眼に映じ初めた」と感じたことはすこしも無理がない。そうであれば、「身のまわりから始めて、眼に映じたまま心に感じたままを写して見よう」として、「田舎」の「写生」として一連の「千曲河畔の物語」が成立するのも自然である。わたしは、「田舎」から「田舎風俗」を連想し、フローベールから藤村の心の隅に「田舎風俗」を置いてみた。この場合、「田舎風俗」は mores としての「民情」であり、バルザックの「風俗的研究」まで遡りうるものである。藤村が『人間喜劇』の総序』を、ツルゲーネフの「ハムレットドンキホーテ」やモーパッサンの『ピエールとジャン』序文とともに、小説観として重要視していたことは『モーパッサンの小説論』(明治四二・八)にみえている。これらが『旧主人』以前に手に入っていたものかどうかはわからぬが、関心のあったものもあり、或いは読んでいたかもしれぬ。読んでいたとすれば、ここにもつらなってくると思われる。
 すこし迂回しすぎたようだが、バルザックフローベール、ゾラなどからの自然主義が、三宅克巳に教えられ、ミレー、コローなどの写実風な風景画から出た自然観察(「写生」)ー『雲』(明治三三・八)を通じて、『緑葉集』の諸短篇、その「風俗研究」となって結晶していったと仮定することは、自然であろう。『緑葉集』から『破戒』までの間に、藤村の自然主義は、いわば正統的であり、本格的でありえたのである。藤村のいわゆる前期自然主義の問題はこの内容に立ち入って考えるところからはじまる。』

 二
 『緑葉集』の初期短篇から、『破戒』以後の長篇ではほとんど消えてしまったような「様々な可能性」ー生の哄笑、戯画化、風刺、ユーモア、残酷な観察などを指摘して、藤村の無頼派時代と呼んだのは、最近の亀井勝一郎の論である。この指摘はさすがであるが、ここで注目をひいているのはいわばスタイルの可能性といったようなものである。
 ところで、自然主義文学が「智を働かせ」て、硯友社文学にもみられる虚構を通じて、まさに「深く人生を知ると云う様な方面」を計量できる可能性をみせたということが、もっと根本的に重要なことである。
 自然主義が恋愛を考えるにしても「生殖の問題」に関係させていく、生物的に考えていく、初期短篇の主題が共通して愛欲であり、それも多く姦通である(藤村が主題を姦通に傾斜させた根本の動機は、後にみるように別に彼自身のうちに求められる)ことについては、改めて注意するまでもないことである。自然主義といえば、誰しもとかく第一にこの点に思い及ぶからである。しかし、そこでも、生殖を通じて、「生活の問題」に深く思いをひそめるところに、自然主義の本来の意義があったろう。藤村は、恋愛を考えるにあたって、生殖と並んで、「生活の問題」が「甚深な関係」にあることに着目しようとしていたし、それがまた『緑葉集』のもっていた根本の可能性に関係しているとすれば、それはどういう方向に、どういう内容をもつものであったかを調べてみなければなるまい。
 『雲』の自然観察と『緑葉集』の風俗研究とを媒介するものは『千曲川のスケッチ』である。明治四十四年から『中学世界』に連載された原型が明治三十五年頃に書かれたという稿本とどういう関係にあるか詳かにできないが、たとえ後年の筆が相当に加わっているにせよ、『緑葉集』や『破戒』にいたる過程のものとして当然に踏まなければならぬものである。『雲』の自然観察からミレーやコローの風景画としての風俗描写を思えば、『千曲川のスケッチ』は極めて自然に浮かびあがってくる人事観察ではあるまいか。ダーウィンツルゲーネフの『猟人日記』を思い、「従来小説等には全然看過されて居た生活問題」が、『雲』の自然観察の次に、気象から農耕へ、何の飛躍もなくとる「民情」観察になっているといってよかろう。
 『千曲川のスケッチ』には、藤村の小諸生活、小諸義塾の生活もかなりに描かれているが、それにもまして、「地方生活」が克明につづられている。その「地方生活」も、どちらかといえば、農夫の生活が中心になっている。ことに「君はどれ程私が農夫の生活に興味を持つかということに気付いたであろう」(『農夫の生活』)というように、農民生活に深い関心がそそがれていく。なかでも『収穫』のように、ミレーの或る画を連想させるタブロオ、スケッチもある。藤村文学を考えるものには、これは叙事詩『農夫』(『夏草』所収)などとかわらない根本的な傾向と思うにちがいなあいが、ここでは叙事詩のような物語性をすらことさらに作為せずに、ただめぐまれぬ自然や風物のなかに労苦する農民の労働生活に温い愛情をよせ、かえってその故にその日常を、ありのままに静かに切りとってみせるというタブロオになっている。
 藤村がふみこんだ「生活の問題」は、かくてまず農民生活への関心のうちに結晶する。ところがここではまだ「局部の描写」が多くて「大体を観察し、更に進んで之を批評し解釈しようとする」ところまで十分に展開しているわけではない。なぜなら、ここに描かれる農民生活は、いわば自然と人間の関係が表だって関心せられるにとどまるからである。『農夫の生活』で、「彼等に近づけば近づくほど、隠れた、複雑な生活を営んで居ることを思う」という一例は、ここの小作が語る雑草の悩みのように、自然とたたかって生活している面が重点になっている。藤村が観察し、批評し、解釈しようとしたものは、このような面だけではなかったはずである。
 長塚節の『土』に先駆する農民小説となる可能性もあったはずの『小作人の家』は、地主と小作人の関係にふれ、他のスケッチには概して自然関係に掩(おお)われていた人間関係が生活の問題として露頭をあらわしてくる。しかし小作争議は隠居の昔話として出てくるだけで、「御年貢」の俵づくりに、「百姓らしい話」が運ばれていく。ここでも、自然関係や人間関係が、それぞれの「局部の描写」に支配されていて、まだ「大体」の観察に綜合され、批評・解釈されるところまでいたっていないが、しかし次第にその方向を志向し、貧しい人たちの生活関係にふみこんで、人生を知るところに出ていこうとする気配がみられる。
 こういう点から一歩つきすすんだものを求めるとすれば、やはり『破戒』にいかなければならない。自然主義文学としてのわが国における最初の可能性は『破戒』が顕にしてきたいわゆる社会性は一応は主人公の瀬川丑松が部落民であるという社会関係、これにともなって地方教育界、政界、財界、その他の条件に直接に描き出されてくるものであるが、それだけではあるまい。それだけだとすれば、丑松という特殊な不合理な存在がとりあげられながら、ここですこしでも部落解放という社会問題を解決しようとも、また解決されるとも考えていないことに、不足を述べなければならない。
 
 ところが、社会的な慣習としての風俗は、一片の法制では左右できない深い人間関係に即していたし、だからこそ丑松の内側からの悲劇も生まれてきたわけであろう。藤村が、農民生活によせたような深い関心が、虐げられた人たち、このような特殊な被厭迫階級の側に立って、彼なりにその人間的な自覚と飛躍とをつきつめていこうとし、またいくことができた、それが本来の社会性であったのだ。
 もちろん、特殊な部落民を扱った社会小説、風俗小説としては、これはもはや「過去の物語」に属するものにならう。風俗には常にそういう時代の腐蝕がみられる。その上に、ゾラの系統にたつ正統な自然主義文学と考えるためには、教育界、政界などの社会関係の分析は、いかにもブッキッシュで、すぐれた自然描写に及びもつかないといえる。
 そういう面から考えていけば、明治三十年代の信州の風俗研究としても、いたらぬところが多かった。初めから自然的な社会誌、または社会的な自然誌を書くという意図はなかったのではないかと疑われよう。果してそうだろうか。
 環境と遺伝を原理とする自然的な社会誌のようなものが、注意深く、豊かに基調にあることは丑松の経歴を用意するところにみられている。いや、根本的には、丑松をめぐる人間関係が、たとえいかにブッキッシュな面をもっているにしても、藤村としては慎重な実証的踏査の上に成立していることは認めなければならず、このような社会的な虚構が実証と研究との上にきづかれたことの新しい意識ー民衆の側から行われていることを考えなければならない。
 今日における『破戒』の意味は瀬川丑松の形成、そこにおける近代的人間の自覚と解放との普遍的な意義にあることは、いうまでもない。そういう内外のせめぎあいの場として、章悦の社会性は考えられなければならないことを示唆する。しかし、半面において、藤村が自己の分身として虚構のうちに丑松を設定し、その追求が『春』以後の岸本捨吉の原型となったこと、その因由と意味とは、『破戒』を『春』の自伝的文学への出発点とさせ、かくして日本自然主義が前期から後期へと移行する。それにしても、『破戒』においてはとにかく岸本捨吉ならぬ瀬川丑松に仮託し、虚構を通じて主題を展開させたところに、やはりまだ自然主義の正当性を主張する作品になている。』


タブロオ・・・絵という意味。あるいは、表。
ブッキッシュ・・・本好きの。書物に凝った。あるいは、堅苦しい、学者臭い。これ以外では、(軽蔑して)机上の。非実際的な。という意味を持つ。

 

『  
 わたしはふたたび『緑葉集』の「千曲河畔の物語」五篇に帰らなければならない。この五篇は『雲』から『千曲川スケッチ』『破戒』にくらべると、いかにも別格のようにみえる。それは、自然観察から社会観察へとすすみ出ていく線にたいして、これらの五篇が愛欲を主題とし、そのことにおいて自然主義的であるにしても、異質だとみえるからである。しかし、もしこれらが「田舎風俗」の種々相であるという点に思いをめぐらし、この面からその題材とする愛欲や姦通をかえりみれば、これまた地方風俗の様態として考えられないこともないのである。さらに藤村の使った説明をもちいれば、それはまさに「民情」として、また別箇の「生活の問題」でありえたわけである。「民情」とは人民または民衆のありさま、暮らしむきの様子であり、ここで愛欲を中心としていえば、性を通じてみた「生活の問題」、性風俗でもあったとみられる。ただし、厳密にいって、藤村のコント・ドロラティクというべき作品は『爺』一篇だけで、これが僅かに「性の哄笑」という名に値する「えげつない」作品だったといえば、いえよう。
 「千曲河畔の物語」は、藤村自身が部類わけしてみせたように、まず信州の各地方の風物誌である。男女の風俗は風物誌のなかにおける「生活の問題」で、銀行家、牧夫、女教師、画家、その他を通じてみた地方生活である。『ボヴァリー夫人』と『人形の家』とを結びつけた「人形妻」の姦通を描く『旧主人』にせよ、『寂しき人々』からの示唆を認められる夫婦双方の側における姦通の危機を示す『水彩画家』にせよ、自然主義文学が虚構の世界を、こういうさまざまな地方人の側から描いてみせる可能性をみせたものと考えられる。この上に立って、これらが特に女性の姦淫、堕落を一貫したテーマとしていることは、この時期を描いた『家』に、また『水彩画家』のモデル問題からの藤村のアポロジーにみるように、新婚の自分の妻に恋人があり、不謹慎な文通をしていたことから受けた藤村の打撃、それから出た女性への不信と嫉妬と復讐とを動機とすることはいうまでもない。
 藤村に女性への不信と蔑視と復讐とがあり、『爺』の集団姦淫を極端な例とするまでの一連の性風俗を描いて「千曲河畔の物語」としたとすれば、これらの作品のスタイルの可能性と内容の奔放、その性の肯定とをもって、たとえ作品の美的イデーとしたにせよ、そこに「あそび」を認め、「無頼派」をたてることはどうであろうか。むしろ女性への不信が「女性の堕落」をつきはなして、これをいろいろと試みてみたもの、藤村にとっては極めて厳粛な探求であったと考えるべきものではなかろうか。しかも作品の内容はかならずしもデカダンス(無頼)を表現しようとしたものではなかった。逆に、このような作品を通じて「女性の堕落」から「人間に通有なる荒廃的傾向」について考えていた、或いはいこうとしていたとみられるからである。もし単に「あそび」から「女性の堕落」を、無頼にさまざまな可能性においてこころみてみただけの作品であったとしたならば、誰が今日このような作品に興ずるであろうかとも、いいうるだろう。
 「千曲河畔の物語」が「女性の堕落」を題材としながら、五篇に描きわけられたところは、厳粛にこの問題に思いをひそめ、さまざまに考え、究めようとしたからである。それは自己の内心の「荒廃的傾向」にも気づいたからではあるが、小説こそ彼の「思想(かんがえ)を現すに最も相応しい形だ」という彼の文学的信念ー自然主義文学から得た判断の実現を試みたものであり、そこにイプセン流の「冥想」もあったにちがいあるまい。その上でのスタイルの種々相なのである。わたしがこのようにいうのは、実は雑誌『新古文林』が『女は如何なるハヅミにて堕落するか』ー当時の「女学生問題」に関連して出された問に答えた藤村の談話(明治三九・一○)が、一種の「千曲河畔の物語」の思想的決算のようにみえるからである、なかには五篇のうちの題材と一致する考え方さえも出ている。
 この文章は、女子の堕落の原因は「人間に通有なる荒廃的傾向」とみた上で、さらに細分化していく。無知、懶惰(らんだ)、浮気、過度の虚栄心なあどの「性格の欠陥」、無職業、反動、変化のない生活などの「境遇」、萎縮、荒廃、無思想の状態などの「社会一般の空気の堕落」が、これである。たとえば『旧主人』の女主人公の堕落は、変化のない生活を「境遇」とし、一種の虚栄心を「性格」とする場合と、単純化して考えられないこともない。さらに、「女子特有の性質」として、愛情の激しい念とか、あるいは競争心とか、過度の性欲(女子の月経との関係)とかを挙げている。こらは堕落の初期の原因で、「人生に対する絶望ーその悲惨な経験ー斯うこうことは女の性質を一変させて、全然自暴自棄の人たらしめる」と、「深く落ちて行く原因」をあげている。
 
 これは「女子の堕落」の原因を考えるものとしては、いまでは常識的で、かならずしも珍しい独自の思想ではないかもしれぬ。しかし胸に浮かんだままの談話として、このようなものの考え方が自然に浮かび、性格と境遇、さらには生理的原因を算えるとは、きわめて自然主義として正統な考え方であり、ここに「千曲河畔の物語」の実験をへて結晶した思想を認めても、すこしも奇とはしないであろう。
 そして、藤村が虚構を通じてさまざまに試みてみようとした思想は「女性の堕落」だけではなく、『旧主人』『水彩画家』にみられる新旧思想、『破戒』の「父と子」の問題等、細かに考えれば、さらにいろいろある。しかも思想を小説に試みよう、試みることができるとしたのがこれらの小説の意図の一つであり、小説こそこれに適した形式と考えるようになったことが、自然主義を通じて獲得した最初の、大切な文学観であったというべきであろう。
 しかし、この文学観は獲得したときに、小説形態を早くも内から変形することになる。
 わたしは、藤村と自然主義と題して、明治三十年代の前期自然主義時代ーそれは自然主義として本格的なものであったーにおける文学観を、具体的にみるだけで、この問題を残して、あわただしく筆を擱(お)かなければならない。』


アポロジー・・・謝罪、陳謝あるいは正当性を主張すること。
イデー・・・ドイツ語で理念のこと。