ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

西欧文学と島崎藤村1

 東京堂から1961年に出版された「明治大正文学研究 特集 島崎藤村研究」から伊狩章氏による「藤村の比較文学的考察」は海外文学や田山花袋らとの比較の観点から島崎藤村を捉えた内容です。以下、『』内の文章は左記の論文からの引用となります。また、掲載にあたって、全て現代語訳しております。島崎藤村の研究の一助になれば幸いです。

 


藤村の比較文学的考察
           伊狩 章


 藤村が詩より散文に移った最初の二年間(一九○二、三年)に書いた「旧主人」「藁草履」「爺」「老嬢」の四篇習作が、何故あの様に生々しい性欲や、姦通、不倫などの問題を主題とするものになったのであろうか。同じ自然派の田山花袋が「叙情詩」集より「重右衛門の最後」にいたるまでに、二十数篇の感傷的な、抒情詩の延長の如き習作を積み重ねていること等と照合して、藤村の転換はそこに時代や資質の差を考慮するとしても、尚、余りにも急激な突発的の感がある。「落梅集」から「旧主人」に至る間に少なくとも数篇の抒情的作品があったとしても少しも不自然ではなかろう。それに当たるものとして「千曲川のスケッチ」があるが、しかしこれはどこまでもスケッチで如上の疑問の回答にはならない。
 更に、この四篇と次作「水彩画家」とを比較して見ると、その作風に一つの変貌が感じられる。「水彩画家」の内面描写や構成は前の四篇よりも「破戒」に近いものがあり、その意味で、逆に「旧主人」以下の四篇は藤村の初期習作の中でも何故か孤立した感を抱かせる。
 この四篇が散文作家へ転向した最初の習作である意味からも、その疑問の解答は重要であるが、筆者の考察ではその解答が「破戒」や「春」にいたった経過を説明する内容を含み、更に、「うたたね」における比較文学的考察と共に、最近話題になっている藤村におけるコンプレックスの問題に関連を持っていると思われ、いろいろの意味でこの四篇の開明は示唆に富む。
 いか順を追って考察しよう。


 1.モーパッサン流行


 一九○一年詩から散文へ移らんとした藤村は小諸になって、田山花袋上田敏、松岡国男達の示唆の下に西欧文学に傾倒していた。ツルゲーネフトルストイドストエフスキーフローベールイプセン、ハウプトマン等の文学書の他、ダーウィンラスキン、ルソーなどの著作が、書簡、感想に記録されている。それらの西欧文学を範として小説を書かんとしたのであろうことは想像にかたくない。手始めに為された「千曲川スケッチ」が「猟夫日記」(藤村書簡まま)その他の感化によるものであることは在来の研究に実証されている通りである。
 しかし藤村はそれら西欧作家の中に自己の小説の範として最も適切なものを容易に見出し得なかった。観察しスケッチした雑多な生のままの素材、頭にわだかまるアイディアを文学として造形定着するに相応しい洋式を発見し得ず苦慮していた。
 そうした状況に折しも、一九○一、二年頃中央の文壇では「モーパッサンの流行」という現象があった。
 藤村がモーパッサンを知ったのは早く「女学雑誌」時代で、その三○八号(一八九二・三)に発表した「小説の実際派を論ず」に「ピエールとジャン」序文』の小説論を引用したのがモーパッサンに関する記述の最も早いものである。但しその時真に「ピエールとジャン」を読んだかは確実でない。後述する如く後に上田敏に「ピエールとジャン」の英訳を照会していると事と、この一文の内容などから推察するに、これはゾラ及びモーパッサンなど仏蘭西自然派の紹介文によった形跡が濃い。
 その後、上田敏などからモーパッサン短篇集を借覧したことがあったかも知れぬが、大体殆どよまなかったものと想像される。
 九年後の一九○一年秋、その夏花袋が入手したモーパッサン短篇集「アフター・ディアナ」叢書十一巻の驚くべき内容を耳にした。続いてその暮、敏から「みをつくし」を贈られた彼はその中で、モーパッサンの翻訳「文反古」「いろり火」の二篇を読み「みをつくしの解題のうちに拝見せしモーパッサンの Piere et Jean, Fort comme la Mo-rt, Notre Coeur は、英訳有之候はば、出版の書店を教えたまわり度、猶其他の長篇にて英訳も御座候はば、御示し被下度候。」(藤村全集十八巻、書簡番号四八、十二月二十七日、上田敏宛)と漸く関心を示した。
 更に三日後の十二月三十日、花袋宛に問題の「アフター・ディアナ」版「短篇集のうちを一二冊拝借致し度」いと頼み、続いて同じ書簡の中に、最近文壇でその作風の変換を好評されている花袋の近作「野の岡、村長、老農等の御近作のうちを拝読致し度、御見せ下さるまじくや」(前掲書簡集、四九)と依頼した。花袋はそれらの依頼に応じたであろう。花袋から借用したモーパッサン短篇集と、花袋の近作「野の花、(「野の岡」は誤)村長、老農」とは、藤村にどの様な示唆を与えたであろうか。結論を先に述べるならば、「旧主人」以下の四篇はまさにその成果だったと考えられるのである。
 爰(ここ)で当時の文壇における「モーパッサンの流行」がどの様なものであったかを考えて見よう。この年一九○一年夏、初めてモーパッサン短篇集を入手読了した花袋は、在来の文学観を一変する様な衝撃を受け、これを「太平洋」誌上に紹介、また、周囲の作家達にも大いに宣伝した。(斎藤弔花「国木田独歩と其周囲」)花袋は直ちにその数篇を翻案、馬場孤蝶、上村左川等はこれを翻訳するという風に紹介されたモーパッサン(ほとんど短篇のみ)は、強姦、姦通、父娘相姦、兄妹相姦などの題材をはばかる色もなく露骨に描き出し、たちまち我が文壇に好奇心と驚異をもって伝わっていった。それがモーパッサン文学の真の理解からでなく、単にエロティシズム中心の好奇心からであったことはその後の日本自然主義文学の性格を暗示するのであるが、それはともかく、かくして紹介宣伝されたモーパッサンはたちまち文壇に広がり、翌一九○二年八月には早くも文芸時評の中に「モーパッサンの流行」が取上げられる勢であった。(「文芸倶楽部」時文、筆者中内蝶二)
 こうした文壇の風潮は小諸にあって新文学を苦慮している藤村にも相当の関心を呼ぶ現象だったに違いない。前掲花袋宛の書簡がそれを立証している。

 又、当時藤村にとって花袋は良き文学の友であると同時に、小説創作の上では先輩であり指導者であった。後には立場が逆になったが、新体詩から散文に移らんとする藤村がまず指導を求めたのは花袋だった。「大主観の御抱負の……せめてはその清泉の一滴をばおぞき友にも分ち賜え、」などという花袋宛の書簡がその真実を物語っている。少なくとも藤村は花袋の小説に対して相当の関心を持っていたー或いは、自己の小説の範としたと考えられる。逆に花袋が小諸の藤村を「よく手紙で激励してやった」(東京の三十年)と言っていることも之を裏づけよう。
 当時花袋は「老農」(一九○一・一○・小天地)に続いて「村長」(同年・一二・文芸倶楽部)などとその写実的傾向を好評されている。藤村がこれら諸作を読んで何らかの感化を受けたであろう事も想像されるのである。
 さてこれら花袋の近作は実はモーパッサンの殆ど翻訳に近い翻案だった。花袋はこの前後モーパッサンの短篇を四篇翻案している。


 「老農」ー“Old Amable”(原作“Père Amable”)
 「村長」ー“Little Louise Roque”(“La Petite Roque”)
 「老子爵」(一九○二・九・文芸界)ー“One Evening”(“Un Soir”)
 「大旦那若旦那」(一九○三・七・太平洋)ー“Hautot Senior and Hautot Junior”(“Hautot Père et fils”)


 いずれも「アフター・ディアナ」版収載のもの全く翻訳といっても良い程度なのであるが、当時之がモーパッサンによると見破った批評は殆どなかったらしく、わずかに「小天地」(同年十月)が「『老子爵』はモーパッサンの翻案ならん」と気付いている程度である。藤村も恐らくは知らなかったのではなかろうか、とにかく、「村長」の強姦殺人、「老農」の不貞な嫁と舅の自殺、「老子爵」の姦通などの諸主題が藤村に影響したことは充分に考えられる。


 2、モーパッサンの感化


 やがて藤村は自ら、他の西欧作家のものと共にモーパッサンを買うまでに至る。(一九○二・四・書簡五二)花袋の感化と、文壇の風潮に乗ぜんとする気持、この二つの理由から藤村はその散文作家としての出発をモーパッサンによることは寧ろ当然だったのである。
 彼は「アフター・ディアナ」版の第三巻から二篇をとり、之を夫々粉本とした。「パラン氏」を「旧主人」に、「蝿」を「爺」に換骨したのである。尚、之は筆者の創見ではなく、既に花袋が「近代の小説」その他で指摘している。
 先ず「旧主人」の内容の、伝えられているモデル問題の存否はともかく、中心となる姦通という主題女中の密告などの構成は何によったであろうか。モデルになる事件が実際にあったとしてもそれを小説化せんとする創作契機は何であろうか。考えられるのは「アンナ・カレーニナ」と「ボヴァリー夫人」である。前者は「千曲川のスケッチ」其六にも引用されており、藤村が之を読んでいた事は確実だが、後者はこの頃までに読了していたか否か明らかではない。この二作なども暗示を与えたかも知れぬが、最も直接にはモーパッサンの「パラン氏」の感化によるものだった。「パラン氏」の内容は、
 ー不貞を働いている若い妻がある。夫は近所の物笑いになっている。見るに見かねた女中が真相を教える。夫は苦悩した果、妻を偽って一度外出し、間もなくひそかに帰宅し、遂に妻が姦夫と接吻している現場をおさえる。その時の妻の蒼白な顔!ー
 「パラン氏」にはこのあと心理的な復讐の部分があるのだが、とにかくこれが「旧主人」の源泉であることは間違いなかろう。引例は省略するが「旧主人」の細部「パラン氏」と酷似する描写が数ヶ所にあることも付け加えよう。
 尚「旧主人」の二ヶ月前に発表された花袋の「老子爵」は前述の様にモーパッサンの「一夜」の翻訳であるが、その内容も「夫が姦通の場をうかがう」構成で、これも又、間接に「旧主人」を書かしめる一因となったかも知れない。
 又、同じ様なモーパッサンの姦通物によったものとして「老子爵」が官憲の眼を逃れ、「旧主人」が発禁になっていることは、花袋と藤村の小説技術の比較という点から興味深い事実と言える。(「老子爵」の方が内容的にひどいにも拘らず……)
 次にモーパッサンの感化著しいものは「爺」(一九○三・一・小天地)である。
 ーお島という多情な女が一人の男の子を生む。話手をはじめ、その叔父、親戚の男という風に、その男の子の父親は夫々自分だと思っている。良く調べるとお島と関係のあったのは五人もあったことがわかる。お島は吾々を「花に集まる蜜蜂のように」愛したのだ。吾々は五人で「お島のために一個の活きた記念」を作ったのだ。ー
 モーパッサンのは¨Fly”(原作Mouche)「蝿」というので、
 ーある男が語る。若い頃セーヌ河で仲間とボートを漕いだ楽しさは忘れられない。吾々五人の仲間の間に或日、蝿という仇名の娘が入って来る。多情な無智な女で「腐ったものに飛び寄る蝿」の様に男と関係する。その中妊娠するが五人の中、誰が父親だか分からないので、皆の子供ということにする。ところが死産して、女が余り悲しがる為、皆で又もう一人作ることを決めるー
 この梗概(こうがい)だけを対照しても藤村が「蝿」から換骨奪胎したことは確実であろう。ただ「爺」に加えられている父性愛の副主題なのであるが、これも「蝿」の収載されている「アフター・ディアナ」版第三巻に「父親」(The Father)という似たような構成のものがあり、これなども又多少暗示を与えたのではなかろうか。
 尚すこし後に上梓した「新片町より」にブウルヂエのモーパッサン論の一節をあげている中で「蝿」についての箇所を引用していることも附言しよう。
 「藁草履」「老嬢」には直接の粉本は見当たらない。しかし前者の、強姦、発情した馬、妻を殴殺する夫等の題材、後者の色情狂の構想など、それらがモーパッサン的な主題であることと共に、それらを主題にとりあげた創作契機の意味でもモーパッサンの感化があ見られるのである。又、「藁草履」「老嬢」の自然描写や細かい表現上のニュアンスなど、モーパッサンの田園物その他の感化が判然と見られるのは花袋の指摘する通りだ。』


梗概(こうがい)・・・あらすじ、戯曲や小説を短くまとめたもの。

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