ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

徳田秋声の随筆集「灰皿」1

「私は随筆文学をあまり好かない。」から始まる印象的な徳田秋声の随筆集「灰皿」ですが、なぜこれが世に出たかと言えば、まずは出版元である砂子屋主人の好意に加え、秋声氏の息子である一穂氏が編集と校正の一切をやってくれた事が大きかったようです。当時、秋声氏は66歳。今で言えば老眼鏡が必要になっている年頃です。

 
 以下、『』内の文章は昭和13年(1938年)に砂子屋書房より発行された徳田秋声の随筆集「灰皿」より現代語訳をした上で引用しております。徳田秋声の研究の一助になれば幸いです。


『最近私は花袋全集に憑かれたような日が幾日か続いた。そして床の間に積まれた、やがて、二十巻以上に達する全作品、旅行記、感想文の中から、その当時評判のよかった作品を十以上も読んだ。明治の中葉から昭和に至る四五十年間にそれぞれの仕事を残した作家はすこぶる多い。その全集もまた殆ど四十には上がっているだろう。中には一巻あるいは二巻三巻阿で事足りているものもあるが、相当の巻数に上がっているものも沢山ある。もっとも全集といっても、過去の作家のものよりも、現在作家のものの多いのは、現在の文壇にそう長い歴史がないからである。正宗氏に言わせると、凡庸の水準を抜いているものは一つもないというのであるが、これは多分外国文学の水準から言ったものであろう。しかしその物の考え方と見方とで、日本の文化が西洋の文化に及ばないと言うのと、同じ論法である。勿論ゲーテトルストイドストエフスキーやツルゲーネス、ないしはゾラ、ゴングール、ロマンロラン、ジイドのような大きさや高さに登っている作品があるとは思えないが、開国以来西洋の文化を移入するに当たって、民族の生存の急に応ずるためには、なにをおいても功利的な方面から手をつけなればならなかったことは勿論で、制度や科学が自然先に立つことになり、その中でも資本主義的機構と軍備が最も重要視されて来た。美術や音楽はその芸術の功用が文学より国際的社会的に比較的謙著な地位を占めるものなので、何とか彼とか言っても文学に比べて、政府の息がかかり富豪の支援を得ている。考えようによってはそれも好し悪しだが、兎に角文学ほど継子扱いにはされなかった。自由主義を奉ずると否とに拘らず、文学が本質的に政府の御用には立たず、金権にも阿附しなかったのは、西洋は知らず、支那や日本においては、それが昔からの伝統なのである。支那は古来文学を重んじた国に違いないが、好い詩文は大抵感化不遇のあいだから生まれている。明治の文学が必ずしも特に感化不遇であったとはいえないが、漱石氏が小説に当たってから遂に大学を去って、溜飲を下げたというようなことは、単に漱石氏の文人気質とばかりは言えず、アカデミーの空気と文学とが一致しえない特殊の事情によるものである。私が芸術院会員を受けたのには別に説があるが、それはここで言う必要はない。
 それにしても日本の文壇が、既に三十四十、あるいはそれ以上の個人全集をもっているということは、その実質は暫く問わないにしても、それが四五十年間の各時代に生きた作家達の鬱屈した生活の結晶である点で貴重視さるべきである。それらの個人全集の生命は必ずしも同じだとはいえない。不朽だとも思えない。死んでしまえば、直ちに跡形もなく消えてしまうものもあり、生前の人気を死後幾年あるいは幾十年持続しうるものもあるかも知れない。その時代時代に振り当てられた役割を果たして、殻となって残るもの、風俗世体の考証資料として保存されるものもあるであろう。
 「花袋全集」について書くつもりで、つい冗漫な前置きを書いてしまったが、この全集はその装丁や題字に感服しない点があり、偉大なる作家花袋氏の業績にふさわしくないのを残念におもうが、序文や解説はあまり無用の詮索に走らず、要を得ている点で編集者の努力を多とすべきであろう。最初私は「独り山荘にいて」という作品を読んで、それが氏の文学と家庭と恋愛との三つの交叉点に立っている点において興味をもったのだが、何よりもその作品に気取ったスタイルや思わせぶりな詠嘆がなく、淡々として山荘独居の静寂境を叙してある点に、作者の風格を偲ぶことができると同時に、氏が尚そう深い執着の泥田に足を踏み込まない頃の恋愛の逸楽を描いた詩境に同感したのである。この禅僧のような山荘生活の静かな中に、氏の熱烈な恋愛、苦悶、嫉妬が、しばらくその憩いを得ていたものであることは勿論である。
 「生」、「妻」、「縁」の三部作には、私はまだ手をつけていないが、「重右衛門の最後」、「田舎教師」は初期の自然主義的作品としては典型的なものであり、ゴングールの手法を得たものだという点も頷かれる。「一兵卒の銃殺」は前の二篇の手法から見ると、手触りのこうこう生温かいもので、あれほど突き放しては書いていないし、省略法が考えられていないので平面に流れ、心理描写も深いとは思えないが、何か洋々とした人生の姿に接することができる。総て氏の作品にはトリックや気構えがなく、どれを見てもそこに人生の姿が洋々として流れている。勿論題材が「一兵卒の銃殺」である以上、現実描写において筆を拘束されていることは今も昔も同一揆で、その点ちょっと歯痒いところもあるが、今もしこれが映画化される自由を有するものだとしたら、その大衆的な点において、かなり大きな効果を収めるに違いない。「田舎教師」もまた新劇や映画の好い台本である。その他そういうものは沢山ある。私は紅葉、漱石、鴎外諸士のものばかりでなく、これ等花袋氏のものも、充分現代の大衆の前に持ち出されて然るべきものだと思っている。
 花袋全集については、もっと読んだうえで又書きたいと思っている。(昭和十三年一月「あらくれ」)』

 

 上記では、田山花袋の全集について、語っていた秋声ですが、今度は森鴎外の全集を読んでの随筆を書いています。これらを読む限り、秋声のより良い作品を書くために読む、という姿勢を持っていたことが窺えます。

 

『一穂が「阿部一族」を読むために友人から借りてあった鴎外全集の第四巻にある評判の高い「雁」という小説を読んでから、一つ読み二つ読みして、二晩ほどかかって殆ど全部読んでしまった。
 私は若いおりその頃文学青年として「しがらみ草子」に載ったものは大抵読んだのだが、「国民之友」に載った「文づかい」と雅文体の短いものが、博士の作品の公けにされた最初のものではなかったかと思う。「石炭をばはや積みはてつ」という書き出しは多分この「文づかい」であったかと思うが、よく覚えていない。そんなものよりも矢張り「埋れ木」などの翻訳に多く読み耽って、後年書かれた作品も二三読んだだけであった。「大塩平八郎」とか、「護持院原の仇討」とかは印象に残っているが、これも今読んでみると、記述が精確だということと、書き方が自然主義風に冷厳だという外、そう読み応えはしなかった。「阿部一族」「堺事件」「安井夫人」、その他「高瀬舟」「佐橋甚五右衛門」なども、記述が冷厳で、中には何か観念がかったものもあり、批判の裏付けの透けて見えるものもあるが、「護持院原」や「阿部一族」などには更にそうした主観の翳しかみえず、記憶を忠実に並べたにすぎないと思わせるほど、精緻に書いてある。「雁」は人に言わせると好くないというが、私もあれには苦心の痕を認めるけれど、多元的な描写の形式から言っても、いかにも明治時代の小説らしい技巧上の苦労から言っても、あまりに小説でありすぎる観があり、その点で感心するには感心するが、そう高くは買えないかと思う。しかし鴎外さんのものとしては、もっとも好いものでhないにしても、面白いものではある。漱石と紅葉の各の特徴を綜合したような形もある。「阿部一族」はむしろ「殉死」とした方がいいようなもので、殉死が適当な機会を得なかったために、犬死にはならなかったにしても、後の結果が好くなかったという阿部一族の悲惨な運命を描くには、あの時分の殉死をめぐる宿命的な主従関係や、そうした事が武士の一つの見えでもあり、甚だしきは頽廃的な感傷の惑溺でもあると同時に、暗々裏には旧時代と新時代の交代の促進、又は老朽淘汰の方法ともいうべき不文の習慣的制度を説明しておく必要があり、その背景があってこそ、この悲惨な事実の審理がはっきりして来るのだとも思えるが、それにしても少し前景が重すぎる。
主人が死んで、その子どもが世に出るとなると、前代の従属者の影が薄くなり、時によると邪魔物あつかいにさえされがちなのは、昔も今も同じだろうから、殉死はあの時代のもっとも利巧な引退法かも知れないが、それにしてもあの純忠の精神の陰には、実に陰鬱なものがあり、忍従もあそこまでくると、阿片中毒のように不健全になってくる。あの中には男女の心中と同じような陶酔もあったようである。仏教の諦観や、ニヒリズムもあったに違いない。私は読んで好い気持ちがしなかったし、あれほど冷静に書き得た鴎外さんの心理に敬意を表したものかどうかわからないのである。こんな態度や筆致は、メリメによく似ているのであり、メリメもずいぶん思い切った事を書いてはいるが、それは人間性の悪とか、性格の強さというものから来ているので、東洋風の戒律的忍従からくるものとは違う。勿論殉死者にも、色々の心理があるだろうが、自刃ということには兎に角すばらしい勇気と潔い決心とが必要で、武士は幼少から戦場はおろか、畳のうえでいつでも、死ねるだけの修養をつんでおくのが、封建時代の習わしなのだが、この習わしはあまり人にほこるべき習わしでもないので、私は西洋人に無闇に腹切りを見せるなどもどうかと思うのである。
 鴎外さんがこんなものに興味をもったのには、何か理由があるだろうか。「堺事件」などには、その自殺の仕方があまり悲壮すぎて、却って野蛮に見えるものがあるが、あれはあれとして犠牲の精神があり、反撥の気概もあって、悲痛は悲痛でもそこにはドラマチカルな精神の高揚もあるから、そう陰惨ではない。もっとも仏蘭西革命時代のギロチンなどは、酸鼻の極みで、目をおおわずにはいられないものであり、それから見ると自決の方はむしろ壮美の感があるのだが、封建時代の宿命的な殉死だけは例外である。鴎外さんはたまたまあんな材料があったから書いたものだろうが、伝統の武士の魂もあって、共鳴したのではないとも思えない。(昭和十三年五月「あらくれ」)』

 

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