ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

徳田秋声の尾崎紅葉3

小説を入力してみようチャレンジ、只今、伝記に挑戦中です。昭和3年改造社から出版された現代日本文学全集 第18篇 徳田秋声集から「尾崎紅葉」に挑戦中です。ここでは左記の伝記を現代語訳した上、下記の『』内に引用しております。徳田秋声尾崎紅葉の研究の一助になれば幸いです。

 
『 この事は作品批評に譲るとして、筆者の知っている先生の性行(せいこう)の片鱗を示そう。
 まず何よりも先生は文字をいじくることが大好きであった。文章をひねるくることが畢生(ひっせい)の道楽であった。俳句なぞに凝ったのも、その流儀から来ているので、来客も多かったし、座談も好きであったけれど、まず終日机にへばりついて何か彼(か)か字をいじくっていたものと言っていい。自分が先生をある種のスタイリストというのも其処から来ているので、一作一作ごとに何かしら目先の変わった文体を試みようとしたものであるが、文章に凝り性であったことは言うまでもなく、俳句もなかなか遅吟(ちぎん)であった。字体にもまたずいぶん苦心したものだが、本の装幀とか口絵とかに至っても、全て自分の好みで、独特の句風を凝らすことに腐心したものである。で、机の前に胡座(あぐら)を組んで何か彼(か)かひねくっていられたが、健啖もまた有名なもので、若いにしてはまた非常なお茶のみであった。酒は一二杯で真赤(まっか)になって、すぐ横になってしまう。座談は殊に面白い方で、諧謔洒落が口をついて出るのであるが、決して軽薄ではなかった。
 生活は実にきちんとしたもので、物質に対しては殊に、ルーズなところが少しもなかった。これは収入が沢山なかったからでもあろうし、夫人の心掛けが好(よ)かったからでもあろうが、自体先生の物質観には堅実なところがあった。人の面倒を見るのにも、平日の用意がいいからで、人気作家が陥り易い生活の破綻などは見られなかった。これがまた濫作をしない先生の性癖と合致したもので、すらすらと書き流せば流せないこともないのであるが、自重してというよりは、道楽気(どうらくぎ)の凝り性がそれをさせなかったのである。「此(この)ぬし」は一夜漬けのものだということを聞いている。「男心」なども、先生にシテは珍しく書き流しのものらしい、生来文才に恵まれた質(たち)で、文章だけでは決して遅筆ではなかったのである。ただ物を疎かにしない気質が、先生を凝り性にしてしまったのである。
 先生には人間性に対する議論とか、人生についての談話とかいうようなものはなかったし、おもに江戸っ児(こ)趣味に基づいた人情美(にんじょうび)とか意気とかいうものが、いつも話しの味わいをつけていたものだが、口を開けばすなわち文章であったのである。俳句がまた非常に好きで、運座(うんざ)に出ないと機嫌が悪かった。自分達はよく箪笥町(たんすまち)の塾で、夜おそく上の先生の家(うち)からおりて来る先生を迎えて、一室に団らんして、徹宵気焔(てっしょうきえん)で明かしたこともあるが、しばしば自分達だけで運座が開かれた。
 硯友社員がおしまいまで友情で固まっていたのは、先生の愛党心(あいとうしん)、結束力というようなものが与(あずか)って力があったが、しかし親分気質(おやぶんかたぎ)の党派心(とうはしん)がまた祟りを成して、世間から詛われたことも少なくなかったし、快からず思った人もないとは言えなかった。眉山氏などは多分そうだったろうと思うが、友情ということになると、何処までも親分肌の先生は、どうかすると好(い)い意味でのエゴイストであったと言ってよかろう。忌憚なく言えばお山の大将でありすぎる場合もあったのであるが、それは寧ろ先生の目下に対する愛の深さから来ているし、また江戸ッ児風の時代的気質(かたぎ)の現れてでもある。
 先生は何か個人雑誌か同人雑誌のようなものを出すことが、一つ道楽で、その道楽は生涯を通じて終始している。文藝というパンフレットは晩年のもので、小品と俳句とを載せ、先生は小西増太郎(ますたろう)氏の訳にかかる「アンナカレーニナ」を省略し文飾して、ほんの少しずつ載せていたが、筆者にも文章を懲(ちょう)せられたのに対して、どうした気持ちだったか、元来無性(ぶしょう)な筆者のこととて今回はお間に合わせかねるという慇懃な手紙を出したところ、それが先生の逆鱗に触れたものとみえて、朱(しゅ)でもって筆者のもんくに、 数個所(すうかしょ)嘲罵の言辞を挿入して突返(つっかえ)されたので、早速ちょっとした小品を差し出したことを覚えている。


 そ の 著 作


 筆者は上来(じょうらい)略々(ぼぼ)紅葉山人の人となりを印象的に叙述したつもりであるが、書けば書くことはまだ沢山あるのである。しかしそれらは余りにも個人的のことで、書いても書かなくとも、紅葉研究には大した影響のないことばかりである。たとえばその日常生活のうえでは、先生はひどく食味通(しょくみつう)のように言われている。勿論一代の通人(つうじん)だけあって食道楽(たべどうらく)であったには違いないが、今から見るとそれもそう範囲の広いものだとは思えない。知識はあったろうし、各方面の食味(しょくみ)にも通じていられたろうけれど、今日(こんにち)の一流どころの流行作家に比べれば、寧ろ質素であったと言っていい。家庭の食膳なぞも、夫人が煮ものがうまかったし、先生も口喧しい方ではあったろうが、牛肉のロースなんかが好(い)い方ではなかったろうかと思われる。これは先生の経済から割り出しても当然のことで、先生には養育の恩ある荒木老人夫妻がいられたし、お子さんは四人あったし、玄関子(げんかんし)も二人くらいいたし、交遊の範囲も広く、しかも家政はきちんとして、少しもルーズなところがなかった。でもなかったら、文章に凝っているなんてことはとても出来ないことで、先生が常住不断机の前に座って文章か俳句か字かをひねくっていると同時に、乱作をしなかったということや、先生の経済的生活が引き締まっていたからである。これは一半(ぱん)また東京の堅気な家庭に育った夫人の内助にもよるので、夫人は筆者が知っている範囲では、紅葉先生を良人(おっと)にもったという幸福を十分に感謝していられたせいもあろうが、かつて着飾って劇場や寄席などへ行(ゆ)かれたことはなかったのである。一年の享楽は九段の招魂社祭りを見に行(ゆ)くくらいのものではなかったろうか。大作家の夫人としては甚だ趣味がなさすぎると言えばそれまでだし、先生は余り家庭に納まりすぎたとも言えるのであろうが、芸術家としての生活を崩さなかったことは、短い生涯にしては決して少ないとは言えないあれだけの作品を残し得た所以であろう。先生の「読売」から受け取る俸給はいい時で百円くらいのものだったと思われる。その他に雑誌へ書くものや、単行本の収入はあったとしても、生活は余り余裕のあるものではなかったので、先生も不満はありながら物質は諦めていたのである。貧富について社会観のような感慨を筆者は先生に聴いたことがある。その頃先生は安田一家の人と光彩していられたので、自然そう言った社会相(しゃかいそう)が反映したものであろう。「金色夜叉」の主題となっているところの概念もそう言った種類のものである。趣味性は高く洗練されたものでなかったにしても、江戸ッ児肌の庶民的気分から来る通人肌のところがあったので、先生も金はほしかったに違いないのである。家庭におさまって、道楽に俳句や何かをひねくっていたのは、それが先生の本質的なものであったし、本来道徳観念の比較的厚い人だっただけに、芸術家の矜(ほこり)を傷つけることは敢えてしなかったし、富貴を羨みはしなかったけれど、もう少し何とか門戸を張りたいくらいの考えはあったに違いない。
 道楽は文章や俳句のほかに、撞球(どうきゅう)、弓、狩猟、写真、なぞもあったが、弓が巧かったほかは、すべて不器用で、写真も狩猟も殆ど問題にならなかったようである。』


撞球(どうきゅう)・・・現在のビリヤードのこと。徳田先生の説明によると尾崎先生は、弓は巧くてもビリヤードは苦手だったようですね。写真なども、きっと撮影すること自体が楽しかったのだと思います。

 

『 先生は殊に訪問客が多くて、座談が巧かったから、客のお尻が自然長くなった。晩年は殊にそうで、苦吟の「金色夜叉」が書けなかったのも、もっと深い芸術上の悩みがあったからではあるが、又芸術家の先生の生活とはそう深い交渉のない各方面の訪問客が余りに多かったことも、累を成していた。
 さて、いよいよ作品批評に入(い)るのだが、実を言うと筆者は余り読んでいない。誰のものもそうで、先生のものは寧ろ読んだ方であるが、それでもいくらも読んでいない。紅葉研究を引き受けたとき一応全集に目を通すつもりで、用意したのであったが、読んで通俗的興味のないこともないし、話術の巧いのにはつくづく感服させられるが、どう考えても私など野暮な人間の肌に合わないところがあって、全部通して読む気にはなれない。これは先生が江戸文学継承者であるというのが恐らく最も適当な批評であろうかと思われるところから来ているので、独歩氏の言うように成程洋装文学ということにも一応頷かれる点もあるけれど、先生の本領は何といっても江戸文学の脈を伝えているところにある。世界は勿論明治である。人物も明治時代の空気を呼吸している人間である。道徳観念や社会観といったようなものも、又その時代のものである。しかもそれらは全て外国文学洗練を受けない以前のもので、通俗的な人情と世俗的な道徳理念といったようなものの上を流れている。先生にはユーモアの才が多分にあったが、そのユーモアも江戸伝来の洒落が明治化されたような種類のもので、その洒落の歳分が作品の随処に横溢して、一般読者の興味をそそるところのあったのは言うまでもない。
 ずっと初期のもので、「色懺悔」が先生の出世作といってもいいのであろう。これは山田美妙が「都の花」によって斬新な言文一致で、作品の名は忘れたが、兎に角形式の全く新しい続きものを書き出した、ちょっと後のことで、文章はずいぶん捻ったものであるが、まだ小説というほどの内容形態を具(そな)えるに到らないもので、言ってみれば文章のための文章といった形のものである。一種の情緒はあるけれど、すこぶる甘い道楽気(どうらくぎ)の多いものである。これから見ると、「新色懺悔」は、ずっと進歩したもので、若い西鶴といったような、先生なりの人生に触れたところがある。
 筆者は先生が小説家というよりか、むしろ一種のスケッチライターではないかと思ったこともあるが、これは「金色夜叉」に晩年の六星霜を苦しんだということから来ているので、その他に長篇はあっても、結構のあるものが少ないように思ったからであるが、しかし必ずしもそうではない。「おぼろ舟」、「安知(あんち)ピリン」、「青葡萄」といったようなすぐれた小品もあるが、又「二人女房(ににんにょうぼう)」や、「三人妻」のような最も話しの面白い小説もある。「伽羅枕」は長篇としては初期のもので、これは先生の作家としての才分の豊かなことを裏書きしたもので、先生の理想──と言っては少し大仰かも知れないが、兎に角江戸ッ児の心意気といったようなものを、佐太夫(さだいふ)という一人の遊女によって、幽艶(ゆうえん)の才筆で浮き彫りにして見せている。文飾が余り絢爛なために却って真実味を欠いているところもあるが、作風が写実とは言うものの、外国文学の影響を受けた、所謂リアリズムの写実とはちがって、ここにも先生のうけて来た江戸文学風の、一種日本的想念というような観念が模糊(もこ)として、その文章の綾の間に漂っている。佐太夫が遊女になる動機にはドラマチックなものがあって、これをもっと近代風に翻訳することも不可能ではないし、遊女としての佐太夫の心意気などにも芸術的要素は多分にある。この心意気は、武士階級の武士道、つまり大和魂といったようなものの、やや大衆的になったもので、デカダン式に混濁し糜爛(びらん)したところのあるのは勿論で、先生はこれを相当気品のある文章で、芸術家の同感をもって書いているので、必ずしも大衆文芸には堕(だ)していない、作家としての天分のほどが十分伺われるのである。人間の運命を取り扱ったものは、先生の作品にはほかには沢山はない。この「伽羅枕」と「金色夜叉」と二つくらいのものであろう。その点でもこの作品は先生の仕事としては、他(た)の作品よりも有意義なものではないかと思われるが、芸術品としての香気(こうき)は「金色夜叉」よりもむしろ「伽羅枕」の方が高いんではないだろか。もっとも先生は大の話し好きで、場面場面の場景(じょうけい)を、少し冗漫ではないかと思われるほど、長々と描写することが得手であって──というよりもそれが西洋文学の影響を受けていない証拠で、黙阿弥の狂言などにもこれと同じだれ気味がある。もっとも「伽羅枕」はむしろその欠点の少ない方であろう。「隣の女」とか、「三人妻」というようなものには、最もそれが多い。これは先生が話術が余り上手に過ぎてるからで、調子に乗って委曲(いきょく)をつくしすぎる結果、面白くは読ませるが深味をなくする憾(うら)みがある。「伽羅枕」は初期の作品だけに、話術はそう達者ではない。むしろ余情に富んでいる方である。
 筆者は今度三つばかり読んでみた。「夏痩」、「むき玉子」、それに「三人妻」である。これは第二期のもので、先生の才華(さいか)の最も爛熟した時期のものかと思われる。これと同系のものは「二人女房」、「おぼろ舟」などで、やはり同期のものかと思われる。この期間のこの種類の作品は、恐らく先生の作家的生活の高調を楽しんだ時で、戯作脈(げさくみゃく)があると同時に、得意になって欠いているという風がある。その後段(こうだん)に感ずるようになった芸術家の煩悶といったようなものが、少しもその影を落としていない。勿論全てが純粋な客観描写で、しかも写実の筆が「伽羅枕」時代の想念にかかったものをひ脱(だつ)し来たって、別に紅葉一流の常識哲学、常識道徳といったような、堅固な批判性をそなえて来ながら、一層リアリスティックに事相人物が明瞭になって来ている。
 一体先生の作品には、この常識道徳の分子が非常に多い。その説法が到るところに出ている。筆者などもよくそれを聴いたものであるが、その説法が独特のユーモア或いは洒落と織り交ざっているので、厳粛味(げんしゅくみ)を欠くと同時に、愛嬌が加わって来る。道徳的説法は大抵処世的のもので、経済観念なぞもそれから出発していた。一体先生は人情ぶかい方で、どの作を見ても同情があふれている。センチメンタリストに陥らないのは、都会人的洒落があったからで、この第二期時代には、殊に先生の人情美に対する讃美が出ていると同時に、洒落気分が多いのである。
 「夏痩」は純然たる人情話である。圓朝(えんちょう)の作品なぞに比べて遙かにロマンチックな分子が少ないと同時に、遙かに写実的であるが、しかも人情話という点では大同小異のもののようである。ただ濃艶(のうえん)な才華と、通人風(つうじんふう)な豊富な知識が極彩色に人間を塗りあげ、涙を江戸ッ児風な洒落で緩和している点が、先生が一般の人気を呼んだ所以で、書くことの巧さに至っては類が少ない。
 以上の諸作は大抵西鶴風の形式文章に型どったもので、雅俗折衷というのであろうが、年が若いせいもあったろうし、江戸の戯作の脈をうけ継いでいたので、西鶴のような広い人生の背景がない。勿論大陸の芸術のように、その描くところの事件なり人生が、大自然や宇宙の悠久性を背景としたものでもない。自然主義以前のものは大抵そうで、客観描写といっても、ごく常識的な自然さと必然性とを具備しているだけである。』


糜爛(びらん)・・・ただれてくずれる事。
委曲(いきょく)・・・詳細でくわしいさま。

 

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