ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

阿部六郎が語る中原中也11

阿部六郎氏が中原中也に言及している、または中原中也との思い出を書いた文章をまとめたものです。小林秀雄なども登場し、かつての交流を偲ばせる内容です。以下、『』内の文章は各書籍からの引用となります。中原中也の研究の一助になれば幸いです。

 


『強烈な詩魂
  ──「中原中也詩集」──


 中原中也が死んで十年、彼の遺したただ二つの詩集『山羊の歌』と『在りし日の歌』が一緒になつて、『中原中也詩集』として創元選書で出た。
 生きている間、われわれ親しい者には中原という存在があまり強烈に感じられるものだから、詩の方はとかく影のように軽視しがちな傾きがないとはいえなかつた。絶対に詩人としての他は生きようのないこの熱烈な詩魂は、それほど真実の迫力に充ち、それ自身稀有の詩を放射していた。この詩魂は最も言葉にいい表わしがたい領域にわいてくる衝迫に充ち、しかも歌いたい衝迫は最も熱烈だつた。どのような詩ができても、十全な陶酔を歌い得たという満足を彼は知らなかつた。常に新しい嘆きが残つた。その苦しみは全く悲劇的だつた。一篇の詩ができると彼はわれわれのところにもつて来て見せた。われわれはそれを悦んだりいぶかつたりしながらも、ここにいうにいえない柔い弾性と豊かな全体性で生き、うめきながら生成して行く彼の詩魂と引き合わせれば、それが悲しい片りんにすぎないように感じた。思えば残酷なことである。
 今は中原中也はやはり彼の破り残したこの詩集をとおして生きて行くほかはない。そしてどの詩にも彼の魂の律動はたしかに生きているのである。この詩集の根本的な衝迫の土台となるようなものは、日本の伝統にも、日本近代の摸索の中にもなかつた。彼は何もないところから創り出さねばならぬ新しい魂だつた。自然とか、官能とか、知性とか、映像とか、神秘とか、心の機能の一局面になずんで美を彫琢することは彼の本能ではなかつた。最も自然な平俗なものをも愛しながら本然のいのちの泉を踏み、その一元に結集して最も大胆奇矯な幻想までも多角全面に射光し、そのたくまぬ宇宙を無心の魂の抒情に自在に流動させること、それが彼の詩の個性であつた。(B6三二○ページ・八○縁・初版・創元社=東京都中央区日本橋小舟町ニノ四)(評者は成城高校教授)』
日本読書新聞」より引用(昭和22年10月1日付けから)


『嘗つて或る不幸な詩人が私のところへ来て、「僕はなぜ君が歌えないのか分つた、君は心の貧しさが足りないのだ」と言つた。私は自分の心の貧しさを証明するやうな諸瞬間を記憶の中に探しながら抗議してゐることに気づいて自嘲した。私はこの詩人を愛してゐた。しかし彼の無邪気がすぎる時や、無意識を説くことによつて人の無意識をぶちこはす時には彼を憎んだ。』
「小児虐待防止法案」より引用(昭和8年12月「作品」から)


『×月×日
 苦しい休止の夜だ。昨夜俺は曇つた月明の部屋で、駱駝のやうな酔漢を相手にして、自らの危機の上に娼婦のやうな才気を娯(たのし)んでゐた。
 駱駝に対する汚らはしい誇が今夜俺を窒息させる。
 こんなことを言つたために、この灰色の皮膚がいつはりで乾いてゐることがますます鋭く目を刺して来、そのくせ心臓が動き出そうともしない焦(いらら)がしさに、俺は自分を喰ひたくなつてゐた。トタン屋根に落ちる早足の雨滴が俺をからかつてゐるやうに聴えた。昨日の心はどこに行つたのだ、と思つた。愉しげな若い女の笑声も燥(はしや)がない湿つた曇日の街で、つつましい眉を見る度に、遠い一つのものに吸はれて行つた心、炎熱の沙漠をくねる回教順礼者の群の唄に和してすべてを忘れたいと願つた心は、哀れつぽいにしても生きてゐた、と思つた。
 その時Nが呼んだ。小雨の中に出た。バツハを聴いたら今迄あまり怠けてゐる間にみんなとり逃してしまつたやうな気がして、いらいらしてしやうがないと言つてゐた。俺は俺のからつぽなガタ馬車のやうな自己嫌悪をゆすぶりながら、黙つてついて行つた。ビールを二杯ほどのんだ。
 帰つて鏡をみたら、犬殺しの金茶色の目をしてゐた。
 彼等の夜に俺を入れたがつて迎へに来たNを、尖つて唸る乱心を口実に断つて帰した。やつとしがみついた部屋にひとりになつたら、乱心が廻れ右をして俗人の呆然にだれやがつた。


 これが孤独か、化猫さん、
 どつかで家骨が崩れやしたぜ、


 雨がふつて、菌が生へて、
 お月様は葬式の馬になる、か。』
 「断章」より引用(昭和9年5月「作品」から)「断章」は、阿部六郎氏が1929年(昭和4年)の春から1933年(昭和8年)の夏まで書いた日記を抄録したもの。Nは、中原中也のことを指す。


『突然小野松二氏から「作品」にエツセイを書けといふ手紙を受けたのは一昨年の五月頃のことだから、丁度「作品」の三度目の春だつた訳である。河上氏のドストエフスキーが連載されだしてゐたのに添へて、その頃身辺に不穏になりかけてゐた学校改革騒ぎの中で、私はシエストフと自分の因縁記みたいなものを書いた。それ以後ずつと雑誌を送つて貰ひ、一番親しい雑誌になつた。~中略~
 しかし私が初期の「作品」を買つて読んだのは、実は二度か三度だけだつた。自分の没落生活にいくらかの意固地になつてゐなかつたとはいへない。井伏氏の小品と、神西氏の絵を描く女の人の日記の静かなこまやかな清新な心持に感心したことを憶えてゐる。もう一度は小林秀雄氏の「からくり」といふ短篇の載つた号である。中原中也がやつて来たので、「からくり」のことを話すと、中原は声を挙げてそれを読みながら、六七行読む度に、えいとか、おおとか、そこだ、でかした、などと掛声をかけながら机を雑誌でぴしやぴしや叩きつけるのである。私は何か分らないその気勢に圧倒されながら、からくりの終りに出てくる渡り鳥のイメエジを追つてゐた。』
「無題」より引用(昭和10年5月「作品」から)

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