ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

関登久也が語る宮沢賢治10

関登久也氏は、宮沢賢治と同郷で氏の生前を知り、尚且つ賢治氏に関する細々とした随筆を残しています。長かった本コラムも今回で最後になります。最後は、賢治氏がなぜ結婚しなかったのかなど理由や、レコード収集の趣味がどうして始まったのかが分る内容です。
以下、『』内の文章は1941年に十字屋書店から発行された関登久也「北国小記」より宮沢賢治関係の随筆のみ、現代語訳した上、引用しております。宮沢賢治の研究の一助になれば幸いです。

 


『 童 貞(三)


 賢治氏が東京へ行って三千枚の童話を書き、百千の詩稿を故郷への唯一の土産に持ち帰ったのはまだうら若い二十五、六の頃ですが、大きなトランクをたずさえて私の家へ来られ、この中に一ぱいつまっている作品はこれは私の子供ですと言いました。その時の事はよくこまかに記憶していませんけれども、賢治氏としてはほんとうにそう思っておられた様でそばに居た私達もなる程そうかなと感じました。
 親類縁者ないしは兄弟両親よりしばしば妻帯を慫慂(しょうよう)されるというよりは、むしろ拝まんばかりに頼まれてもその事だけはいつもきっぱりことわられるので、晩年は誰も言葉にして話す人はありませんでした。ある時賢治氏の母上のお妹、つまり叔母ですが、叔母さんの梅津セツ様が何かの集会の時、おそる、おそる、妻帯の一件の事を話しますと賢治氏はきっとなり、今晩はこれで御免蒙りますと言って、さっさと席を立たれた時などは私達はしばらく茫然としたものです。賢治氏のお父さんの話だと、賢治氏は生活力がないため妻帯しないので、自分の事は自分でよく知っているために、生涯一人で居たいのだという風にもおっしゃいますけれども、人間賢治氏にもそういう弱い気持ちはないとはいわれないが、私達から見ればやはり性欲の浄化、大きくいえば深い人類愛の念願を持って一生を終始したかった賢治氏の深く他界念願の発露であったと思うのが最も至当だと信じます。


 蓄 音 機


 私の養家の岩田では東京から蓄音機を貰いました。賢治氏が、バッハとか、ベートーヴェンとかのレコードを収集する様になったきっかけはこの岩田の蓄音機が因になったと思います。
 ある日岩田の家へ来て、始めてレコードというものを聴いたという様な風をして喜んで聴いておられましたが、それからレコードに興味を持ち始め、たびたび岩田に来ては人に捩子(ねじ)を廻してもらっては微笑しながら聴いておられました。その内にお家の方へ蓄音機を借りたいと申し出られたので、私は背負って持って行きました。その時賢治氏は捩子の巻き方も針のつけ方も良くは知らず、レコードに疵をつけはしまいかと危ぶみながら賢治氏のあやしい手付きを見守っていた事を記憶しています。何事にも真剣な賢治氏はそれから段々レコードを集め始め、洋楽ものなどは花巻一番の蒐集者になりました。
 竹針を自らつくったり、色々レコード保存の上には苦心をはらわれた様です。
 洋楽のリズムというか、とにかく賢治氏の詩作品の中に、泰西名曲が十分消化されているのは多分にレコードの影響を蒙ったのでありましょう。』


慫慂(しょうよう)・・・そばから誘いかけて勧める事。