室生犀星が語る芥川龍之介1
室生犀星は、芥川龍之介の死後、彼についていくつか随筆を残しています。ここでは、その内の一つである「憶(おもう)芥川龍之介君」を紹介しています。
以下、『』内の文章は三笠書房より昭和10年に出版された「犀星随筆集」の「憶(おもう)芥川龍之介君」から現代語訳した上で引用しております。芥川龍之介と室生犀星の研究の一助になれば幸いです。
『 「新潮」の芥川龍之介研究という座談会の記事を読んで、久米、広津の両君の芥川観が大変に面白かった。時は芥川君の好んだ梅雨の季節であるし、何となく芥川君のことを考えていると、「文藝春秋」から芥川君の思い出を書いてくれとのことであった。度たび追想記を書いたから今度は何を書こうか知らと、床に就いてからうつらうつらと考えていたが、茶棚の上に今朝ほど小林古径さんのお嬢さんから、家の娘におくられた近江の琵琶湖の大螢が白い蚊帳ごしに、明滅しながら燐のような光を放っているのを眺めた。籠が大きいので、立ったり落下したりする鋭い光芒が、陰陰として美しいというよりも妖しく、妖しいというよりも怖いような気がした。家人は睡り私と螢だけが家のなかに起きているようなものである。芥川君の最後に近い作品にある鬼気妖気の類が、この螢の光のなかからも分かれて入っているような気がし、私は容易に睡ることが出来なかった。
金沢に芥川君が来たのは大正十三年の五月も終わりに近い頃で、兼六公園の翠瀧の上にある三芳庵別荘に俳人桂井末翁さんの紹介で案内したが、老楓、古松の間にあるこの別荘はうす青い蚊帳のなかにいるような空気が昼間も十二畳の部屋を一杯に領していた。南蛮舟入港の六曲折の前に跼(せぐくま)んで見ている芥川君はううむと一つ唸り、又ううむと唸り、心臓のひ弱い人のように、しまいに、はあ、はあと荒い息をつき出した。「金沢には佳い物があるなあ、こりゃ佳いなあ。」と感嘆して言っていた。
晩に町の北問屋というお茶屋で夕飯をたべてから、おそく三芳庵に戻って行ったが、自動車(くるま)には帽子(シャッポ)という名前の妓(をんな)に、仙吉という名前の妓とが同乗していた、そんならお部屋だけ拝見してゆくわいなと言って、暗い公園の迂曲した松の根上がりで凸凹した小径を登って行ったが、提行燈(さげあんどん)の明りも乏しい闇のなかで芥川君は長い髪を額に下げて、わあ! と叫んで女の前に立ち塞がって脅かしたが、彼女らは五位鶯の夜啼きのような鋭い声できゃあ! と叫んで逃げたりした。
「帽子(シャッポ)という妓は薄命らしい顔をしているね。一体、帽子(シャッポ)という名前を付けるなんてみずあげした奴も奴だが、はかないなあ!」
芥川君は長嘆息をしたが、妓(こ)どもは先刻(さき)ほど喫驚(きっきょう)りしたことがなかったと言い、ずっと後まで胸を悸(き)きっしていた。
帰路を京都に取った芥川君から、帽子(シャッポ)さんに長い手紙を送って健康に気をつけるよう呉々も注意し、京都の妓ども二三人の署名までがしてあった。余程弱そうな健康が気になったものらしかった。帽子(シャッポ)は芥川没後三年目に肺で亡くなり、仙吉というのも帽子(シャッポ)と前後して哀れに死んでいた。
僅か三四日間の滞在ではあったが、金沢の方言に非常な興味を持ち、僕もとうに忘れているような言葉を何時の間にか覚えて、歌に詠みこんだりしていた。金沢川岸町の仮寓(かぐう)を訪ねて来た芥川君は長い川べりの土手を人力車に反り硬って乗っていて、色の白い優形の姿は鳥渡医科大学を卒(お)えたばかりの若い開業医のように見えた。菓子折くらいの小さいトランクに僅かな手回り品を入れた彼は、身軽に旅をする「五月の貴公子」のようであった。』
跼(せぐくま)る・・・体を前にかがめて、背をまるくする。
喫驚(きっきょう)・・・びっくりすること。驚くこと。
仮寓(かぐう)・・・仮の住まい。
『田端の芥川君の家と私の家とは裏通りから坂二つを横に通って。五六町くらいしかなかった。仕事にも草臥れて芥川君を訪ねて元気な顔を見ようと出かけると、そんな時分、向こうからも少し温かい日でもマントをふうわりと被った、なりの高い彼は漂々乎(ひょうひょうこ)として歩いて来るのであった。今君のところへ行こうとして来たんだというと、僕も君のところへ行こうと思って出かけて来たんだと立ち止って何やら相談するようなふうで、結局、距離の近い方に行くことになるのであった。僕の家の潜り板戸は開けるとかたんと音がして、鳥渡(とりわけ)開けにくかった。芥川君の戸の開け方は不器用で二三度かたんかたんと音をさせるので、すぐ龍之介入来であることが判るのであった。「やあ。」という彼は弱っている時でも、病気をこぼしている時でも、何所か経文を誦む時のように鼻にかかった声は何時も張り切って、気魄的に甚だと言っても好い位元気だった。
「菊池寛がね君、この座敷から離れまで飛石に雑巾がけをさせて、ぺたぺたと離れまで素足で行ったものだよ。どうも敵わん男だよ。」と私が金沢へ行く前に明け渡した貸家を菊池君が住み、庭下駄を引っかける手数をはぶいた菊池君のことをこう彼は話していた。
「菊池君がね君、こんど雑誌を遣るんだよ。旨く遣れたら原稿料を皆に払うんだというんだが、菊池のことだから旨く遣るかも知れないよ。」この話しがあってから「文藝春秋」が生まれて、今日の雑誌になったのであった。
それから小穴隆一君の名前が大抵の場合に話しの間に飛び出していた。小穴が小穴がと言い、小穴がとうとう足を一本切ってしまって僕が手術に立ち合ったのだよ。小穴に君の字が旨いと言ったら、室生犀星にだって旨い字が書けるなら、おれも習字して遣ろうと言っていたよ。小穴の妹が死んだんだよ。この間小穴は弱っていたよ」とよく言っていた。
「小穴が君の庭の玉笄花(ぎぼし)を写生に行くかも知れんよ。席はなくとも好いから写生させて遣って呉れよ。それから小穴はきみの奥さんをモデルにするかも知れんが、それも頼めないかなあ。──小穴がね、こんど画会を起すんだよ、いろいろな人に這入って貰うより君ひとつ入会(はいっ)て遣ってくれんかな、一口四十円だよ、まだずっと先のことなんだがね。」と言っていた。
或る日芥川君をたずねると、君、きのう奥さんが僕のことを変な男だとか何とか言いはしなかったかねと尋ねた。君に途中で会ったと言っていたけれども別に何も言わなかったと言うと、そうか、実はね郵便局の前あたりで猿又が下がって来てね、こいつは大変だと懐中から手を入れて猿又を引き上げながら歩いていると、奥さんにばったり出会したんだよ。急に慌てて了った訳なんだ。そうか、気づかなかったのか、そりゃ宜しかったと安心して言っていた。家に帰ってこの話しをすると、道理で様子が可笑しかったと女房が言っていた。
これも或る日のこと、僕の部屋でこの間の葡萄酒がまだあったら、少し呉れんか。あれは旨かったよといい、グラスで出した白ぶどう酒を芥川君が甘味そうに、ほんの少量ずつ舌の先で舐めていた。あとさき十年芥川君がうまそうにお酒を呑んだのを見たのが、始めてであった。
或る時、金沢から持って来た木越三右衛門の鉄瓶をじっと見てから、「ああ、好い鉄瓶だ、文壇斯くのごとき鉄瓶を持っている者は先ず君一人だろうね。」と感嘆して言った。或る時、岸田劉生氏の絵を上野で見てから、「そう、そう、君がこの絵の好きな訳がわかったよ。朝子嬢に似ているからだよ、やあ、全く似ているなあ──。」
或る時、梅原龍三郎氏の木立と池のような構図の絵を見て、旨いなあ、これが君に分らんというのは、君はてんで絵を解ろうとしないんだと言った。絵を解ろうという所まで僕はいつも行けないで、途中でぶらぶらしていたらしいのである。──或る時、佐藤春夫君のからだを見たと言って、あれは君、古備前のようないい体をもっているよ。羨ましいよと言っていた。或る時、動坂町の汁粉屋で汁粉を二碗たべてから、どうだこの汁粉は旨いだろう。この界隈にこのくらいの汁粉は稀だろうと甘い物の好きな彼は褒めに褒めていた。だがね、金沢の森八の汁粉というものは鳥渡(とりわけ)うまかった。あれは餡がいいんだよ。金沢はお菓子がいいよと彼は二百年の舶来名菓を看破していた。
芭蕉も思い付きで作った句が相当にあると私がいうと、いや、そんなことはない絶対にないと憤然として食って懸った。写生の句なんかすらっと詠んでいるじゃないかと言うと、いや何度も置き換えていると言って、例句を引用して却々(なかなか)聞かなかった。
芥川君はよく一緒に「中央公論」などに書く場合に、今月は君と合乗りだよと言っていた。合乗りとは面白い言葉だと思うた。そして僕の方が何時も先に書き、芥川君はずっと遅れていて、瀧田樗蔭(たきたちょいん)氏は昨日三枚きょうは午前中に三枚は出来る筈ですと、そういう長い時間のかかるのを楽しそうに言った。
瀧田樗蔭氏はよく芥川君とかけ持ちで、私の家に見えられたが、いま芥川さんの所に寄ると四月号ならちゃんと取って置きの材料があると言われていたが、芥川さんらしいですねと瀧田氏は嬉しそうに話していた。瀧田氏は芥川君の話をするときは、何時もほくほくと嬉しそうであった。ああいう機嫌の好い時に嬉しそうにする人を、今まで見たことがなかった。「芥川さんの原稿は手垢でよごれているんですよ。ところどころ継ぎ張りがしてあってね。」こういう瀧田氏は甚だ機嫌美(うる)わしかった。
芥川君は平常喋る言葉に大体の用語が定っていた。彼はお辞儀するときとか、会った最初には決ってやあといっていた。「ありゃ君とても敵わん。」とか、「内田百閒の話を聞いていると変になるよ。」とか、「あれは傑作だね。」とか、「僕は大いに同情した。」とか、「ちょっと美人だね。」とか、「ありゃ豪傑だよ。」とか、「怖かったなあ実際」とか、──
軽井沢で同じ旅館にいたとき離れの部屋の前に、大きな楓の木があった。それを登ると松村みね子さんのお部屋が見えるという話が出て、芥川君は登ろうかと言って早や脚をかけようとしていた。私はのぼれ、のぼれと囃しかけると、君、登れるかと言ったから、登れないというと、よし登って遣ろうと脚の長い男だけにするすると登って行った。悪い時は悪いもので、松村みね子さんが廊下へ突然出て来て、ちょいと驚いたふうで見て居た。かれは下りると失敗った見られたと言っていた。
この間奥さんがお見えになり、家で湯の立たない日だったので私は銭湯に出かけて行ったが、芥川君が銭湯の話をした事がなかったので、帰って女房と話をしている奥さんに尋ねて聞いてみると、銭湯が嫌いで行ったことがなさそうである。鵠沼で一ト月お湯にはいらないことがあったそうだった。軽井沢で一所に湯に入ると、毛深くて僕より肥っていた。「ああ快い気持ちだ、風呂桶に犀星のいる夜寒かなはどうじゃ。」と彼は夜の明けたようにさっぱりした顔付でいった。彼はいつもオムレツを一皿とお椀のおつゆで膳に向っていたが、私は鮎や肉を彼の二倍くらい食べていた。「ああ、よく食う男だ」と彼はいい、僕は「何という少食の男だろう。」と感嘆して言った。それほど彼は少量しか食わず、所きらわずに足を捲くって見せ、痩せたお腹を出して見せたりした。彼の胃袋がいつも胸のところに下がっているような気がした。
何時か夜中に芥川君の近隣に出火があって、出かけて見舞いに寄ると、芥川君は玄関に仁王立ちになり、少し胸をはだけて見舞客に一々長い髪を掻き上げ掻き上げ、重畳に挨拶を交わしていた。背丈が高いので玄関一杯に広がっている格好は、非常に頼もしい主人振りであった。火事はもう済んだよ、ちょっと上がって行ってくれ、ちょっとでいいからと言い、私は夜半の書斎にはいって行った。あの晩ほど芥川龍之介を頼もしい男だと思ったことがなかった。もひとつは、震災当日午後四時頃、彼は反り返って背後に渡邊庫輔君を随えて、悠々然として僕のところに見舞いに来た。僕も今夜から自警団に出なければならんよ、火事は全市に起っているらしいと言って戻って行った彼はその時分それほど元気だった。
僕が或る夏軽井沢に行くというと、芭蕉のことはおれが見てやるといい、留守宅に行って二三本の乏しい芭蕉の成長を見とどけた上、手紙に「芭蕉蒼然たり、幸に安心これあるべし」と書いて知らしてくれた。』