ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

萩原朔太郎の水戸小遊記

 昭和15年に河出書房より出版された萩原朔太郎の「阿帯」なる随筆集には、「水戸小遊記」と題して、室生犀星と共に水戸の高等学校へ講演旅行に行った際、見聞した当時の水戸の印象が記されています。ここでは「水戸小遊記」を現代語訳した上、下記の『』内に引用しております。萩原朔太郎室生犀星の研究の一助になれば幸いです。

 
『高等学校からの頼みで、室生犀星君と二人で、水戸へ講演旅行することになった。元来僕は講演が不得意で嫌いであるが、室生君と来ては病的に大嫌いで、講演ときいても怖じ気を震う位なのだが、何ういう風の吹き回しか、珍しく承諾して、僕と行を共にすることになった。
 上野を七時四十分発の汽車でたち、約二時間半にして水戸についた。常磐線の汽車には初めて乗ったが、沿線の風景の蕭条として、沼滞の多く葦荻の茂っているのが目についた。水戸駅には、既に顔馴染みになった高等学校の生徒二三人と、町で白十字という喫茶店を経営している人で、水高出身の八木岡という人が出迎えに来ていた。八木岡氏は室生君の熱心な愛読者であり、文学的造詣の極めて深い人であることが後でわかった。公園内の旅館で昼食をとってから、直ちに高等学校へ行ったが、校長始め職員の人たちが、非常に慇懃に応接されたので快かった。校長は人品高く、篤実(とくじつ)な老学者を思わせる風貌の持ち主で、応接特に丁寧懇切であった。
 講演は一時から始まったが、僕は前晩にひどく痔が痛んで、殆ど一睡もしなかったため、疲労で喉が渇き、声が涸れて出ない上に、頭が困憊して、甚だ不出来であった。これに反して室生君は意外に上手なので吃驚した。彼の講演嫌いの原因が、多人数の前に出てあがってしまうという、小心恐怖症にもとづくことを知ってる僕は、内心はらはらして心配しながら、舞台裏の部屋で聴いていたが、意外に態度の落ち着いている上に、諧謔(かいぎゃく)を弄して聴者を笑わせたりする余裕のあるには全く一驚を喫してしまった。室生という男とは、何でも下手だと言って厭がりながら、実際にやらせてみると意外にうまくやる男である。しかも彼のうまさは、器用人のうまさではなく、天真爛漫の素朴さが、却ってその巧まざる技巧となり、所謂無技巧の技巧となって成功するのだ。かつてもコロムビア会社から頼まれて、自作詩の朗読吹き込みをした時にも、室生の朗読のうまさに感心したが、それもやはり無技巧の技巧であった。
講演後、八木岡氏の案内で水戸内を一覧したが、古い伝統のある城下町には似もやらず、甚だ情趣のない殺風景の町である。一本筋の本通りだけで、裏街のない都会というものは、すべて陰影のない乾いた感じがするものだが、水戸もまた例にもれない一本町で、夏にはさぞ街道が暑かろうという感じがした、城下町の癖に寺の少ないことも不思議であった。由緒ある寺の多いことは、町に幽邃(ゆうすい)の情趣と潤いをつけるものだが、水戸にそれが少ないのは、町を一層白っぽく乾燥して見せる原因だった。
 有名な偕楽園は、さすがに一覧の価値があった。今では市民の遊園地になってるらしく、梅時ではなかったけれども、かなりの人出で賑わっていた。八木岡氏の説によれば梅見時には難関を極め、東京あたりからの遊覧客で、俗悪極まる絃歌(げんか)乱酔地と化するそうだ。そう聞いてしまっては、再び此処へ梅見に来る気も起らない。しかし千波湖は美しかった。老松の翠色が鮮やかで、眼もさめるばかりであった。ただ庭園構成上に物足らないと思ったのは、千波湖が築山と別々に離れて孤立し、統一された聯絡(れんらく)がないことであった。もっとも最初の設計者であった水戸侯は、両者を包括的に統一したのであったが、後に地質上の変化によって、今日のようなものに変わったのだということである。とにかくその分離のために、公園全体が甚だ小規模に感じられ、金沢の兼六公園等に及ばないのを感じさせる。自称庭園師である犀星君は、この理を詳しく説明して僕たちを納得させた。』


幽邃(ゆうすい)・・・景色などが奥深く物静かな事。
絃歌(げんか)・・・三味線の音と歌声の事。三味線を弾いたり、歌ったりすること。

 

『水戸義公の学校であったという、好文館へも行って見た。広い校堂の外に、義公等の資質が幾つかあるだけで、特に見るべきものは一つもなかった。しかし昔この学校で、水戸藩士の子弟が学んだ教育というものが、どんな種類のものかということを考えたら面白かった。
 関ヶ原戦争や大阪陣の経験により、加藤、福島など、豊臣恩顧の武士でさえが、自家の領土安泰と個人的な私情の為に、主家に背いて東軍についたことなどから、当時の武士気質をよく知悉(ちしつ)した徳川家康は、幕府の御家萬歳を計るために、武士に教育して儒教を教え、大義名分の観念を明らかにした。その朱子学の教育とは、武士は二君に仕えずとか、私事と公事を区別せよとか、仁義礼節を墨守せよとかいうことであり、要するに諸侯の上の諸侯であり、君主の上の君主である徳川氏に対して、絶対忠節をちかって服従せよということだった。然るに尊皇倒幕の基因となった思想は、皮肉にもその幕府御用哲学の朱子学であり、儒教の教えた大義名分論であった。つまり徳川幕府は、自分の処方した解毒剤で、自ら自殺したようなものであった。
 水戸藩士の子弟たちが、義公の学校で習ったものが、特にこういう朱子学の辛辣な精神であった。水戸は徳川親藩の随一でありながら、光圀以来宗家に楯突き、幕府に対して厭がらせばかりしていた。幕府がその順逆を顚倒(てんとう)する自衛のために、極力誹謗して奸佞邪智(かんねいじゃち)の小人と貶した石田三成を、光圀は故意に掲揚して豊臣家の忠臣と言い、あっぱれの者と賞した。
 そして楠公の碑を湊川に建て、寓意ありげに大書して「嗚呼忠臣楠子之墓」と大書した。さらにまた幕末には、正面から徳川を攻撃し、尊皇倒幕運動の先駆となった。つまり義公や烈公は、その天質的な否定精神と叛逆精神を、儒教によって哲学づけることに熱中したのだ、此処に人々は、一種の儒教的なニヒリズムと、何かの興味ある病理学を発見するかも知れない。そしてまた実際、水戸人士の地方的気風の中に、今日尚そうしたものが残っている如く思われる。
 詩人山村暮鳥(やまむらぼちょう)の未亡人と令嬢とが、水戸市に現住されてることを思い出し、室生君と共に訪問した。夫人等の寓居は、裏通りの静かな小路にあった。妹の方の令嬢は不在であったが、学校に教職しておられる姉の方の令嬢と、その母上の夫人とが家におられた。唐突のことなので、初めは僕等が記憶に浮かばず、少しまごついたらしかったが、解ってから昔のことを思い出し、たいへん懐かしげに悦んでおられた。良人を失って自活してウオーレン夫人の家の小窓に、アネモネの花が咲いているという、北原白秋の「桐の花」の歌を、そぞろに僕は心に浮かべて口ずさんだ。
 八木岡氏の案内で、ついでに大洗を見物して来た。昔年少の時、海水浴で一度行った記憶があるが、その古い印象が依然として残っていた。旅館も女中も昔の通りに、漁師町らしい粗野な情趣があって懐かしかった。晩秋の日のうすら寒い海岸で、幾人かの男が砂を運んで働いていた。浪の砕け散る岩の上で、終日魚を釣ってる老漁夫もいた。すべては荒寥(こうりょう)とした眺めであった。ふと室生君が声をあげて、楼を駈けるように降りて行った。そして漁師の釣ったばかりの、溌剌とした黒鯛を買って来た。その盥焼きを菜にした昼飯はうまかった。
 暮鳥がその晩年をすごし、自らイソハマの詩人と称した磯浜も見た。それは小さな侘しい漁村で、蕪村の句「魚臭き村に出にけり夏木立」を思わせるような村であった。湊という漁師町へも特に室生君の発議で行こうとしたが、途中鉄橋が断絶して、自動車の通じないため、渡船を待たねばならなかった。鉄橋は洪水で落ちたのだそうだが、後に工兵隊が爆撃したとかで、あたかも写真で見る空襲後の市街のごとく、惨憺たる廃墟の状態を曝して、或る痛々しいものを感じさせた。それを見ている中、室生君が急に引き帰そうと言い出した。理由をきいたら、渡船に乗るのが怖くなったからだと言ったが、おそらく断橋の印象が、神経に不安をあたえた為であろう。僕等ばかりでなく、一体に文学者というタイプの連中は、極端に神経過敏で、こうした脅迫観念が病的に強いように思われる。
 帰途のプラットフォームには、学校の生徒や八木岡氏の外に、三人の女性が見送られた。新たに妹の人を加えた、暮鳥一家の人々であった。』


奸佞邪智(かんねいじゃち)・・・心がひねくれていて、ずるがしこく立ち回る事。または、その人。
山村暮鳥(やまむらぼちょう)・・・群馬県出身の詩人、児童文学者であり、室生犀星萩原朔太郎と共に詩などの普及するための会社「にんぎょ詩社」を設立した。茨城県大洗町で肺結核のため死去。萩原朔太郎の随筆を読む限り、生前は山村暮鳥とは家族ぐるみでつき合いがあったようである。