ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

正宗白鳥が語る志賀直哉と葛西善藏1

 1932年に中央公論社から出版された正宗白鳥著「文壇人物評論」の志賀直哉と葛西善藏を現代語訳した上、左記の本から『』内において引用しております。二人の研究の一助になれば幸いです。

 


『一
 「荒絹」「老人」「清兵衛と瓢箪」「赤西蠣太(かきた)」「十一月三日午後の事」「小僧の神様」「矢島柳堂」…志賀直哉氏のこれ等の短い作品を読んで、私は、少し大袈裟な言葉であるが、醇乎(じゅんこ)として醇なる芸術に接した感じがした。無難な荒っぽい毛むじゃらな腕をまくって、ゆすり文句を並べているような文学を、屢々読まされている今日、私は志賀直哉氏のある作品によって、胸のすがすがしくなる気持ちがした。強烈なる文学、戦闘的な文学、濃艶な文学、悲壮な文学。古今の文学にはそれぞれの形に於いて存在の価値を保っているのであるが、激しさしつこさを表に現わしていない、和やかな感触を読者に与える芸術も、尊重していいのである。ことにこの頃は、そういうものがなさ過ぎる。
 如上の小説には、淡彩の日本画といったような趣きがある。これ等に比べると、有島武郎氏の作品は油絵である。志賀氏のような作品は、原稿料を当てに生活している作家には、とても書けそうでないが、そこに、文学者としての氏の弱点も潜んでいる。世路の経験を経たあとでも、温室育ちのお坊ちゃん気質の痕を留めているところがあって、読者に与える感銘に於いて損をしている。氏の初期の作品ではあるが、「網走まで」を取って、葛西善藏氏の「急行券」という小品に比べて見るといい。共に、汽車のなかで起った小事件であるが、二人の作者の日常生活を反映していて面白い。無論前者の方が物を見る目も傑れているし、筆の使い振りにうま味もある。しかし、後者の、作者自身に備わっている生活苦から染み出ている哀歓の影に、前者の遊び気分よりも我我の心は惹かれ勝ちになるのを如何ともしがたい。
 それで、志賀氏には「温室育ちのお坊ちゃん」らしい所が、随所に作品に現われていて、時として作品を安っぽくしているが、芸術家としての天分の備わっていることは、葛西氏などとはよほど違っている。人間を見る目が冴えていて、頭脳も粗末でない。
 「老人」がいい。「小僧の神様」がいい。二つとも私の好きな作品であったが、今度新たに読み直して、新たに興味を覚えた。芸術の匂いがしているようで、人生味も豊かだ。こういう作品には、ありがちな感傷語の濫用がない。ユーモアが自ら備わっていて、わざとらしさがない。下品でない。「老人」は、図本の細字で僅か二ページばかりの小品であるが、ある老人の心境を、簡にして細かに写している。作者の初期の作品であるが、若くしてこれだけ客観的に印象明晰に書けたと思う。
 この小品を一つの問題として、もっと批評を進めよう。老人にもいろいろある。概括して言うと、世上の老人というものは、ここに現わされている「ある老人」のように物わかりがよくはない。
 もっといやらしいものである。もっとしつこいものである。もっと意地きたないものである。しかし、老人の醜いところを捉えて、面皮を剥がないで、和やかに彼を取り扱いながら、空疎な描写に堕しないこの小品は、志賀氏の芸術のいい方面をよく代表している。またこういう芸術をも観賞し愛好し得る興味が、私の心にもあればこそ、この世の生存に堪えられるのである。
 十年ほど前に、当時の新進作家菊池寬氏は、「文章世界」に志賀直哉論を寄せていたが、そのうちで「老人」を推賞して、「こういう題材を自然主義の作家が扱ったなら、皮肉の目で老人を見たであろう」と、結末のところなどを例として挙げていたと、私は今も朧げに記憶している。老人が死んで、「かつて老人の坐った座布団には、公然と子供等の父なる若者(老人の妾の密夫)が坐るようになった。その背後の半間の床の間には、羽織袴でキチンと坐った老人の四つ切りの写真が額に入って立っている。…」という結末は、読者を微笑ませもするし、悠々たる人生の影がそこに映っているようにも感ぜられる。しかし、この老人の一生をこう見ないで、この作者の閑却とした方面から老人の心に喰入って、結末に於いて、人生の破産の影を見せる作風が、菊池氏の思っていたらしく、芸術の邪道であるとは思われない。志賀氏のような境地もいいが、それに安じ過ぎると、世の中があまりお目出た過ぎるようになるのである。』


醇乎(じゅんこ)・・・全くまじりけのないさま。

 

『あの頃は、世間一般に自然主義系統の作品に嫌厭を感じていたためか、微温的な明るみある「白樺」一派の文学が、文壇に地歩を占めた。ことに、志賀氏はあの頃の新進作家の仲間に敬畏されていたようであった。広津和郎氏も、会うたびに、私に向かって、志賀直哉讃美の語を放っていた。芥川龍之介氏は、あれほどの才人でありながら、志賀氏の前へ出ると頭があがらなかったということも、この頃聞いた。去年芥川変死の後間もなく、軽井沢に私を訪ねて来た某氏の話によると、志賀氏は、芥川氏の作品をも人となりをも、あまり好まなかったそうだ。それ故、面と向かって芥川氏から敬意を表せられる時には返答に困ったそうだ。私はその話を聞いた時、「何だ。芥川は志賀なんかに対して引け目を感じる訳はないじゃあないか」と、口に出かかるのを危うく圧(お)さえた。それから、自分を軽視している人の前でその人を讃美することの、如何に頓間(とんま)であるかをも考えた。…一昨年の一月であったと記憶しているが、「新潮」の合評会に私は出席した。その時花袋氏も芥川氏も出席していたが、志賀氏の「鶴」という小品を、花袋氏は特に推賞した。「いい日本絵である」という意味の評語が下されたようだった。私が何とか言って非難すると、芥川氏はその非難を不当とするようなことを言った。今度読んで見ると、この小品は、成程、茶室掛けに相応しい絵である。龍之介はこういう作物に現われている風韻(ふういん)に傾倒していたのであろうか。
 こういう芸術味は、感覚の粗雑になった今日の文壇では味われなくなっている。しかし、「白樺」派の盛時に於いても、多くの青年読者は、志賀氏の持っていた風韻や雅致(がち)を賞味していたのではなくって、むしろ、彼の作品の中の一つの特色となっていた所謂「人道主義」といったような思想感情に共鳴を覚えていたのであろう。「十一月三日午後の事」という小品の如きが好個の代表作である。


 二


 「十一月三日午後の事」が発表された時、その月の雑誌月評を読売新聞でやった和辻哲郎という人は、この小品を極度に賞讃して、この宝玉のような傑作の前では、他の雑誌小説は瓦礫のようだとでも思ったらしく、他のすべてを黙殺したことがあった。文学その他の芸術については、異性に対すると同様に、好きとなると、盲目的に好きになるもので、そこがまた面白いのである。志賀氏のこの小品が、当時迎えられたのは、そこに「人道主義」「非軍国主義」の感情思想が現われているためであった。田舎道を鴨を買いに行った主人公が、途上で兵隊の演習の苦労を見て心を動かして、「自分は一人になると又興奮して来た。それは余りに明らか過ぎる事だと思った。それは早晩如何な人にもハッキリしないではいない事がらだ。何しろ明る過ぎる事だと思った。すべては全く鞭から来ているのだと思った」と、現今の軍事組織を憤慨して、家へ帰っても、折角買って来た鴨を殺すことは勿論、自分で食う気もしなくって、他所へ送ってやったというのが、この小品の要点である。この小品は、田舎の秋の街道の光景を叙し、演習の片影を叙し、それに触れそれに離れる主人公の微妙な気持ちをまつわせて、味いの深い純芸術品をつくり上げている。私は、今度も愛読した。しかし、和辻という人などの感服したような非軍国主義の現われに感心したのではない。軍国主義の非難は、談何ぞ容易ならんやと思う。小説家が秋のそぞろ歩きに二三の兵士の苦労を見て感傷的感慨を起こしたくらいで、国家の大事が極められるものではない。
 「すべては全く無知から来ている」と言っても、実際について深くしらべたら、どちらが無知か分ったものじゃない。由来詩人芸術家は、あわれみの情に富んでいるので、他の苦労を見るに忍びないのだからこの小品には、その詩人らしい美質が現われていいのであるが、しかし、その思想を実際界に当て嵌めて卓見視するのは幼稚である。
 当時の青年批評家が「卓見」視した志賀氏の思想は「山形」という短篇や「和解」という長編や、その他の小品のなかにも、おりおり微見えているが、しかし、十年足らずの間に時代の思潮は変わって、今日の青年読者や青年批評家には、志賀氏の社会観などは微温的なものとして冷笑されるようになった。もっと荒っぽく根本的でなければならぬと言われるようになった。』


風韻(ふういん)・・・趣がある様子。風趣(ふうしゅ)。
雅致(がち)・・・風流なおもむき。雅趣(がしゅ)。
叙する(じょ・する)・・・文章や詩歌に書き表すこと。述べる。または、順序に従い位階や勲等などを授ける。

 

『しかし、それは志賀氏の作品が価値を失った証拠にはならないので、芸術家たる氏の芸術を味わわないで、附属の思想を見るから起ったことなのだ。トルストイを廃物視するのも、粗雑な頭脳をもった一部の現代青年の愚昧な所業であって、トルストイのえらいところは、原始宗教観や無抵抗主義の説教にあるのではなくって、その芸術にあるのだ。今日のプロレタリア文学だって、一知半解の思想や理窟だけで、芸術としての価値を有っていなければ、明日は亡んでしまうのである。「十一月三日午後の事」にしても「小僧の神様」にしても、一幅の人生図として翫味(がんみ)していると、今日見ても、昨日見た時に劣らないほどの味わいが味わわれるので、十年や二十年で廃物になる訳がない。仮に、兵隊の演習が廃止される時代が来ても商店の小僧制度がなくなる時代が来ても、それ等の作品の妙味は失われないのである。文学は日常の実用品とは違う。
 同じ「白樺」派であっても、有島武郎氏の「生れ出づる悩み」と、志賀氏の「清兵衛と瓢箪」とを比較すると、この二人の作風が如何に異なっているかが分って、年少の徒の小説学研究の好資料になるのである。どちらも美に対して敏感な貧家の少年を題材としているのだが、武郎は、力を籠めた筆使いでゴテゴテと書いている。直哉は、いかにもアッサリ書いている。油絵と日本画の相違がある。武郎の油絵には、今春上野の博物館に陳列された松方所蔵の英国の前世紀の絵画に見られたような、鈍重さギコチなさがいくらか見られ、直哉の日本画には、昨秋芝の美術倶楽部で、山陽遺墨と共に陳列された武田の書帖にでも見られたそうな含蓄のある筆致が見られる。
 私の愛好する志賀氏の作品は、所詮はこういう短篇や小品の範囲に留まると言っていい。作者は「図本」の序詞に於いて「作者というものから完全に遊離した存在となっている」芸術を渇仰している。芸術の極致はそこにあるのかも知れない。楽屋落ちの興味によって辛うじて存在を保っているような瑣末な身辺雑記小説の如きは、芸術として、下の下なるものかも知れない。そして、氏の小品のうちには、作者から遊離した芸術の趣きの偲ばれるものがないでもない。
 「遊離」という言葉に、志賀氏はどういう意味を寓しているのか知らないが、私は、この言葉の意味を、自我を無視したものとして受け取らない。むしろ自我が完全にその作品に融和し尽くしたものと思っている。


 三


 ところで、私は、志賀氏の自伝的小説にはあまり興味を有っていないのである。ある家庭ある社会の事相の記述として、多少の興味が寄せられないことはないが、それは敬意を持った興味ではない。傑れた芸術に対しての興味ではない。
 長篇「大津順吉」の甘さ賤さに、同人雑誌小説見たいな未熟を感じるばかりでなく、「ある朝」「鵠沼行」などの短篇にも、ある人の日常雑記以上のものは感じられない。この点では、葛西氏の身辺雑記小説のある者はまだしも読者を動かす力をもっている。そこには自ら生活苦が出ているからだ。
 私は、最初雑誌に出た時、非凡な小説のように言われて、文壇に珍重された、この作者の製作のうちでは長篇の部に属する「和解」にも、さほど感心しない。無論よく書かれているのだ。描写に於いて凡庸の作家の及ぶところでない。しかし、父子の争闘の根本が曖昧模糊の感じがする。こういう生活の余裕のある家庭では、お互いの我儘から、こんなことがあるという、客観的態度を、作者があくまで侍しているのではなく、作者は、こせこせと主人公たる自己をいじり廻しているので、作柄が小さくなっている。この主人公は、自分に接触した人物の瑣末な一言一行一挙一動を、自分勝手に解釈して、「いい印象を与えられた」だの、「不快だ」のと言っているのが、私にはせせこましく思われることがある。志賀氏は芥川氏のお辞儀の仕様にまで難癖をつけていたと、去年某氏が言っていたが、小説家には有勝ちの神経性によるおてゃ言え、「和解」には、これに類した煩わしさがある。』


一知半解・・・なまかじりで、知識が十分に己のものになっていないこと。一つの事を知ってはいるが、半分しか理解していないこと。
翫味(がんみ)・・・食べ物をよくかんで味わうこと。又は、言葉や文章などが表している意味や内容などをよく理解して味わうこと。

 

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