大岡昇平が語る三好達治と中原中也2
昭和51年(1976年)11月に河出書房新社から出版された「文芸読本 中原中也」には「座談会 悲しみの構造」と題して大岡昇平、中村稔、吉田凞の3人による対談が掲載されています。この座談会では、数個のテーマを設けそれらに対して語り合う形式なのですが、その中に「三好達治と中原中也」というテーマがあり、特に大岡昇平氏は中原中也と三好達治両氏とも面識があるため、実にこの二人の違いと性質を的確に捉えていて大変興味深い内容となっております。以下、『』内の文章は左記の本からの引用になります。三好達治と中原中也、両氏の研究の一助になれば幸いです。
『中村 ただ、三好さんは、非常に不思議なのは、中原の出来のいい作品についてあまり書いていませんね。古典的な完成度の高い作品、たとえば「一つのメルヘン」などについては。
大岡 三好さんは、そういう調子でぼくを可愛がってくれたんだけども、ぼくが中原のことを書き出してから彼は、あんまり可愛がってくれなくなっちゃった。(笑)中原の詩がいくら評判がよくなったって、三好さんの詩より評判がよくなるということはいっさいなかったんだけれども、三好さんにはどうしても面白くない、なんか深刻なものがあった。
中村 それは普通は逆であって、中原が三好さんを嫌いだったのは、三好さんの名声が非常に高かったからじゃないですか。
大岡 それはそうですよ。それから酒の席やなんかでもてたということもあるしね。
中村 若い時期の三好さんの作品は、非常に颯爽としていて瀟洒でウィットに富んでいるし、中原が持ってないものばかり持っている。だから中原が三好さんを嫌いだったろうということは、わかるように思いますけども。
大岡 嫌いというより、燃えるような憎悪とぼくは書いたことがありますが、三好さんも中原に対する態度は普通ではなかったですね。ぼくが中原のことを書くと「だいぶこの頃いかれているようだね」って調子だった。中原の詩をどう思うかって訊いて「ノーコメント」って言うんだからね。これは戦後のことですけれど、中原に対する態度は終始意地悪と言える。こんど書誌的にはっきりしてきたでしょう。昭和十四年に「四季」の中原中也賞について書いたけども、同時に「帝大新聞」に中原の詩の悪口(註1)を書いた。あの文章なんか、中村さんはどう考えられますか。
中村 わたしは、三好さんの言うことは、三好さんの作品を棚上げして考えれば、当っているんじゃないかと思うんです。三好さんの作品がモデルであって、中原は三好達治流の詩を書くべきだという批判であればぜんぜんナンセンスですけれども。
大岡 三好さんはどう書いたんだっけな。
中村 三好さんのいわば古典的な尺度から中原を批判していて、自分の傷口を暴いているだけじゃないか、というものですね。それは、一方に三好さんの詩を基準にとればまちがいだけれども、そういう基準をはずして考えれば、かなり本当のことを言ってるんじゃないか、ということなんです。わたしはいまや、だんだんと反中原論をやり始めてるわけです。(笑)ただ、やはり三好さんという人は中原の詩がわからなかったわけじゃない。三好さんの「文学界」の評とか、そういうのは決して的がはずれているわけじゃないと思う。ただおっしゃった「帝大新聞」のは、ほんとにひどい、三好さんの全集の評論のなかで、中原評というのは最もひどい。こんなに悪口をいわれた詩人は他にいない。それはつまり、大岡さんの言われるように、それだけ中原を敵視していた。三好さんの側でも中原を憎悪していたってことだろうと思いますけどね。
大岡 そうですよ。詩壇的に考えれば、「四季」に中原賞ができたのは、長谷川泰子の夫君が金を出したからですが、三好さんはそれに反対することができない。そこで憂さ晴らしということでしょう。これは三好さんが師の萩原朔太郎の詩句に文句をつけたことと共通した、彼の詩壇的行動の癖ですね。それからもう一つ、『測量船』の出た頃は、三好さんも中原も、東大仏文グループにいた。中原の「朝の歌」はその前から「スルヤ」で作曲されてたんで、三好さんは中原を「四季」へ入れる時に、先輩として扱った、と言ってました。あのグループのなかでの競争者だったんで、中原の方でも三好さんのことはなにも書いていませんね。要するに詩観の相違、あるいは完成という観念の相違だろう、と思います。』
註1・・・三好達治が書いた「ぶつくさ」という題名の記事。昭和13年5月23日の帝国大学新聞に掲載された。
私自身も「ぶつくさ」を読みましたが、この時、既に故人であった中原中也に対し終始、彼の詩を否定することに激しい情熱を燃やしている内容でしたので、当ブログでの掲載予定はありません。三好達治が好きな方が読んでも、中原中也が好きな方が読んでもお互いにとって、あまり幸せになれない内容です。
また、私見を書きますと。やはり当時の三好達治は自身も詩を書くが故に、中原の持つ天才性に恐怖と同時に嫉妬を感じていたのではないだろうかと思いました。萩原朔太郎と三好達治は、詩として表現するものは違えど、詩作のスタイルは非常に近いものがあります。それが解っていたので、三好達治は萩原朔太郎の門下に入りました。
だからこそ、中原が最初から新しい詩の形を出してきた事に対し、繰り返しになりますが、彼は非常な恐怖と同時に嫉妬を感じたのだと思います。でなければ、「ぶつくさ」にある“潰しておかなければならない”と言い換えても差し支えない程の否定に尽きる内容に説明がつきにくいと感じました。
色々と書きましたが、私自身は三好達治の詩も中原中也の詩も、両方とも好きなので、この二人の関係は、まるで昼ドラみたいだと感じました。理解できるけど、理解したくない気持ちが、どちらかと言えば三好達治氏の方が大きかったように見受けられます。
それでは、全二回のコラムに最後までおつき合い下さり、ありがとうございました!