ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

関登久也が語る宮沢賢治1

関登久也氏は、宮沢賢治と同郷で氏の生前を知り、尚且つ賢治氏に関する細々とした随筆を残しています。以下、『』内の文章は1941年に十字屋書店から発行された関登久也「北国小記」より宮沢賢治関係の随筆のみ、現代語訳した上、引用しております。宮沢賢治の研究の一助になれば幸いです。

 


宮沢賢治


 僕の町に宮沢賢治が生まれ、死後またたくまに、天下の宮沢として、その詩も童話も人々の讃歎の的となった。
 既に全集六巻が東京の十字屋書店から出版され、再版されたりしている。
 十数年前、賢治の処女詩集「春と修羅」が自費出版で九百刷ったが、かろうじて百部売れたかどうかというまことに憐れな結末をつげたが、その「春と修羅」が現在三十円でも手離さぬという奇異な現象を呈している。
 昭和十年十一月二十五日にはその門下生や知己友人の手で、賢治の詩碑が建立された。高さ十一尺、巾四尺五寸、厚さ一尺五寸ぐらいの水成岩で、碑文は賢治の晩年所持していた手帳に走り書きをしていた覚え書から抜いたもので、なかなか感銘の深いものである。文字は高村光太郎先生が書かれた。


   野原ノ林ノ小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
   東ニ病気ノコドモアレバ 行ツテ看病シテヤリ
   西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
   南ニ死ニソウナ人アレバ 行ツテコハガラナクテモイイトイヒ
   北ニケンクワヤソショウガアレバ ツマラナイカラヤメロトイヒ
   ヒデリノトキハナミダヲナガシ
   ミンナニデクノボウトヨバレ
   ホメラレモセズクニモサレズ
   サウイツモノニワタシハナリタイ
                    宮沢賢治


 右の如くカタカナ交じりで八行に書かれている。この詩のように賢治という人は全く人々の為にのみ生涯を尽くしたので、郷党は賢治の徳を忘れかねている。』


宮沢賢治素描
 先 祖


 賢治氏は長男で、次はとし子さん、しげ子さん、清六さん、くに子さんの二男三女の五人兄弟です。その内とし子さんは、大正十一年十一月二十七日、二十五歳でなくなりました。御父さんは政次郎氏(今年六十五歳)御母さんはイチ(今年六十四歳)御祖父さんは喜助といって宮右という家から出た人です。その宮右のずっと遡っての先祖は花巻町吹張町の土部屋(どべや)こ宮沢という家で、大工を業としていました。それから何代目かの人に宮沢菊松という人があってこの人は呉服屋を始めました。この宮右は代々勤勉努力の人が多くて、零れている一粒の米も大事にするという風な家風でありました。
 宮右が盛んに呉服屋を経営している五十年ばかり前の頃を追想して、店には京流れの打ち掛けなどが掛けてあり、それが今に眼に残っていると老人達は申していますから、当時盛んに京大阪へ行って仕入れをしたのでありましょう。
 賢治氏の御祖父さんは、どちらかといえば心の小さい人で唯堅実に営業を守る人でした。この人は宮右から分家になるトキは、宅地建家と金子二百両を貰っただけで当初は質屋、それからだんだん古着呉服の類いを商いました。
 その子どもの即ち賢治氏の御父さんは、計数にも長け今日の宮沢家を財的にも立派にしまた、宗教など形而上の学識にも深い素養のある人です。
 お祖母さんはキンといい、花巻から駅三つ北へ先の日詰町の生まれです。菊屋善七という人の次女でこの祖母の兄弟には音楽だとか和歌あるいは碁、将棋などには相当の達人がありました。キン祖母の兄の善次郎という人は、歴史の造詣が深くそれに話術が巧みで、碁打ちでは岩手県下第一の名人だといわれておりました。そのお父さんの善七という人も琴、三味線、碁、将棋の達人で、その道の人達を沢山家に集めて、饗応していたと申しますが、八十近くで貧乏して死にました。前に申したキン祖母の兄の善次郎は、これも落魄して死にました。常に煙管の頑首の無いのに煙草を詰めて喫んでいたと申します。またこの兄弟の長男の直治という人などは、都に行って吉原を買い切ったという話しもあります。結局祖父の喜助氏は勤倹力行(きんけんりっこう)の家を代表し、祖母のキンさんの家は文学芸術という方面に長じ、大なる家産をも蕩尽した家の代表とでも言えるでありましょう。
 その子の政次郎氏に来て両方のいいところがいい塩梅に育ち、賢治氏へ来て祖母方の血が完成を遂げたとでも申したらいいのでしょうか。
 賢治氏の御母さんの事は後に申しますが実にいい人でございます。』


勤倹力行(きんけんりっこう)・・・仕事に励み、慎ましやかにして精一杯努力すること。

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