ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

三好達治が梶井基次郎に捧げた詩集「閒花集」

 1934年7月に出版された「閒花集〔かんかしゅう〕」は、非常に繊細な詩集です。和紙を薄くしたような紙に印刷された詩は、反対側に印刷された文字が透けて見えるため、大変読みにくい内容となっています。恐らく、梶井基次郎を亡くし、失意に沈んだ三好達治の正に薄氷のような心を表したかのようです。薄い氷のような感情の下には、溢れんばかりの涙が見えるような内容で、実のところ三好達治梶井基次郎を多くの人に知って貰いたいと考える一方で、この詩集だけは梶井基次郎のみに読んで欲しかったのではないでしょうか?

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三好達治の「駱駝の瘤にまたがって」より

 1952年に出版された三好達治の詩集「駱駝の瘤にまたがって」より、私自身が好きな詩のみを選りすぐり、下記の『』内に現代語訳した上で紹介しております。読書のお供に三好達治の詩集を加えてみてはいかがでしょうか?


 故をもて
故をもて旅に老い
故をもて家もなし
故をもて歌はあり
歌ふりて悔もなし


 雨の鳩
松に来て啼く朝の鳩
──雨の鳩 秋の鳩


久しぶりなる旅に来て
海のほとりで夢を見た


売られていった人の子と
月と 駱駝と 黒ん坊と


夢ならばかくてさめよう
夢ならばなにをなげこう


それは私の魂か
夜の砂漠を帰らない……


だからあして鳩が啼く
青い海から飛んで来て


松に来て啼く朝の鳩
──秋の鳩 雨の鳩


 わが手いま
わが手いま
乙女子の
肩にあり


竈を出しパンの香の
新らしき朝(あした)の上に
わが手はしばしおかれたり


いま君のふかき呼吸は
あたたかき衣の肩をうごかして
君の見る彼方の海はしずかなり


わが皺だみし手をしばし
しばしなおときの間を
かぐわしき朝(あした)の上にあらしめよ


老いたる者は心ながし
その心藕(はちす)の糸のすえついに煙となりて消ゆるごと
説きて語らんすべもなし


乙女子よ海にむかいて
かすかなる歌もうたわでいま君の
もだしたるこそめでたきに──


 喪服の蝶
ただ一つ喪服の蝶が
松の林をかけぬけて
ひらりと海へ出ていった
風の傾斜にさからって
つまづきながら よろけながら
我らが酒に酔うように
まっ赤な雲に酔っ払って
おおかたきっとそうだろう
ずんずん沖へ出ていった
出ていった 遠く 遠く
また高く 喪服の袖が
見えずなる
いずれは消える夢だから
夏のおわりは秋だから
まっ赤な雲は色あせて
さみしい海の上だった
かくて彼女はかえるまい
岬の鼻をうしろ手に
何を目あてというのだろう
ずんずん沖へ出ていった
出ていった
遠く遠く
また高く


おおかたきっとそうだろう
(我らもそれに学びたい)
この風景の外へまで
喪服をすてにいったのだ


  出 発
 まんとの袖をひるがえし、夕陽の赤い駅前をいそぐ時、海のように襲ってくる一つの感情は甘くして、またその潮水のように苦がい。人はみな己れの影をおうてゆく、このひからびた砂礫の上に、彼方に遠く疲れた雄鶏の鳴く日暮れ時、私の見るのは一つの印象、谷間をへだてた谺(こだま)のように、うすれゆく印象の呼びかえしだ。
 出発、──永い間私はこの出発を用意していた。私は今日この住みふるした私の町を出てゆきます。今その切迫した時間に駆けつける旅人、ぼろタクシーの間を縫って、彼方に汽笛の叫びをきく時。
 空しくすぎた歳月を越え、やくざな一切の記憶を越えて、ああまたあのなつかしい一人の人格は、まぼろしのように私の前をゆきすぎる。けれどもあなたはどこに住ってしまわれたか。あなたの住いをどこにたずねていいのでしょう。忘却は、虚無は、かくして無限に平板な明け暮れは、空しく四方から海のように襲ってくる時に。
 出発、出発、私の列車はもうあそこのプラットフォームに入りました。かしこにけたたましくベルは鳴り、かしこに機関の重圧は軋り出ようとする。
 出発。
 この人ごみの間にあって、私はひとり希望もなく、膝においた鞄の上にうなだれて、彼方にさみしいシグナルのかげを旅立つでしょう。これらの群衆と一つの列車にのりくみながら、けれども私は彼らと異る方角へ、一人の孤独な旅人として。
 出発……、出発……。
 いまはとらえどころもない、あなたのなつかしい人格が、──かの一つ星が、高く万物の上に輝きでる時に、遠く遠く、あなたのかえらぬ弟子として。


 駱駝の瘤にまたがって
えたいのしれない駱駝の背中にゆさぶられて
おれは地球のむこうからやってきた旅人だ
病気あがりの三日月が砂丘の上に落ちかかる
そんな天幕(てんと)の間からおれはふらふらやってきた仲間の一人だ
何という目あてもなしに
ふらふらそこらをうろついてきた育ちのわるい身なし児だ
ててなし児だ
合鍵つくりをふり出しに
抜取り騙(かた)り掻払(かっぱら)い樽ころがしまでやってきた
おれの素性はいってみれば
幕あいなしのいっぽん道 影絵芝居のようだった
もとよりおれはそれだからこんな年まで行先なしの宿なしで
国籍不明の札つきだ
けれどもおれの思想なら
時には朝の雄鶏(おんどり)だ 時に正午の日まわりだ
また笛の音だ 噴水だ
おれの思想はにぎやかな祭のように華やかで派手で陽気で無鉄砲で
断っておく 哲学はかいもく無学だ
その代り駆引もある 曲もある 種も仕掛けも
覆面も 麻薬も 鑢(やすり)も 匕首(あいくち)も 七つ道具はそろっている
しんばり棒はない方で
いずれカルタの城だから 築くに早く崩れるに早い
月夜の晩の縄梯子
朝は手錠というわけだ
いずこも楽な棲(す)みかじゃない
東西南北 世界は一つさ
ああいやだ いやになった
それがまたざまを見ろ 何を望みで吹くことか
からっ風の寒ぞらに無邪気ならっぱを吹きながらおれはどこまでゆくのだろう
駱駝の瘤にまたがって 貧しい毛布にくるまって
こうしてはるばるやってきた遠い地方の国々で
いったいおれは何を見てきたことだろう
ああそのじぶんおれは元気な働き手で
いつもどこかの場末から顔を洗って駆けつけて乗合馬車にとび乗った
工場街じゃ幅ききで ハンマーだって軽かった
こざっぱりした菜っ葉服 眉間の疵も刺青もいっぱし伊達で通ったものだ
財布は骰(さい)ころ酒場のマノン……
いきな小唄でかよったが
ぞっこんおれは首ったけ惚れこむたちの性分だから
魔法使いが灰にする水晶の煙のような 薔薇のようなキッスもしたさ
それでも世間は寒かった
何しろそこらの四辻は不景気風の吹きっさらし
石炭がらのごろごろする酸っぱいいんきな界隈だった
あろうことか抜目のない 奴らは奴らではしつこい根曲り竹の臍曲り
そんな下界の天上で
星のとぶ 束の間は
無理もない若かった
あとの祭はとにもあれ
間抜けな驢馬が夢を見た
ああいやだ いやにもなるさ
──それからずっと稼業は落ち目だ
煙突くぐり棟(むね)渡り 空巣狙いも籠抜けも牛泥棒も腕がなまった
気象がくじけた
こうなると不覚な話だ
思うに無学のせいだろう
今じゃもうここらの国の大臣ほどの能もない
いっさいがっさいこんな始末だ
──さて諸君 まだ早い この人物を憐れむな
諸君の前でまたしてもこうして捕縄はうたれたが
幕は下りてもあとはある 毎度のへまだ騒ぐまい
喜劇は七幕 七転び 七面鳥にも主体性──きょう日のはやりでこう申す
おれにしたってなんのまだ 料簡もある 覚えもある
とっくの昔その昔 すてた残りの誇りもある
今晩星のふるじぶん
諸君だけはいっておこう
やくざな毛布にくるまって
この人物はまたしても
世間の奴らがあてにする顰めっつらの掟づら 鉄の格子の間から
牢屋の窓からふらふらと
あばよさばよさよならよ
駱駝の瘤にまたがって抜け出すくらいの智慧はある
──さて新らしい朝がきて 第七幕の幕があく
さらばまたどこかで会おう……』

三好達治が梶井基次郎へ捧げた詩

 三好達治梶井基次郎亡き後、多くの詩を彼に捧げています。ここでは、それらの詩をまとめて紹介しております。
 以下、『』内の詩は1932年に出版された「南窗集」より「友を喪う 四章」、1934年6月に出版された短歌集「日まわり」より「日まわり拾遺」から「梶井君」、同年7月に出版された梶井基次郎に捧げた「閒花集(かんかしゅう)」より「砂上」「揚げ雲雀」「チューリップ」「畎畝(けんぽ)」「庭前」「空山」「訪問者」、1935年に出版された「山果集」より「山果集拾遺」より「檸檬忌(れもんき)」を現代語訳した上で引用しております。三好達治梶井基次郎の研究の一助になれば幸いです。

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正宗白鳥の「塵埃」

 正宗白鳥は、作家としてスタートする前は新聞社で働いていました。その時の経験が生かされた小説として「塵埃」を書いています。生き生きとした編集局の描写と主人公の冷静な態度が印象的なこの小説は、収載された「白鳥傑作集」の冒頭において自身がこの「塵埃」を書いた十八歳当時から根本は殆ど変わっていないと素直に述懐しています。

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徳田秋声の随筆集「灰皿」3

 2では、徳田秋声室生犀星との旅話しでしたが、今回は、秋声が読売新聞に掲載した「長篇四五読後感」より横光利一が書いた「家族会議」の感想です。なんだか、秋声氏と言えば自然主義のイメージが強く、新感覚派の著作などは手に取らないような印象がありました。ですが、実際は違い、派に関係なく小説を読み、正しく評価できる方だと判り、逆に秋声氏の懐の広さに感動しました。


 以下、『』内の文章は昭和13年(1938年)に砂子屋書房より発行された徳田秋声の随筆集「灰皿」より現代語訳をした上で引用しております。徳田秋声の研究の一助になれば幸いです。


『次に読んだのは、横光氏の「家族会議」である。「家族会議」は必ずしも家族会議ではなく、むしろ東京都大阪の株屋の気質比べ、又は東と西との株屋の意気比べと言ったようなものであり、個人的には親近していて、商売の駆け引きとなると、一歩も仮借しないところの老練で非人間的な大阪の株屋と、何か学校出の近代インテリらしい気取りと尊く観念をもちながら、奔放な才能と、俊敏な手腕をもっているためにか、どうかすると粘りづよい悪党のようにも見える、脂っこい大阪風のその青年手代、それに東京ものらしい見えと潔癖と、若干の用心深さ臆病さ又は慎みをもった東京方の仲買店の若い主人、それに古風なロマンチックの敵味方の恋愛事件と株の闘いとが全篇の興味ぶかい筋立てを成している。ある人は作者が株式のことをよく知らないと言って非難していたようだが、そんな事はこの小説では大した問題ではない。それは船舶会社とか鉱山とかの競争でもいいし、劇界映画界の資本家の争いでも、政党の対立でも介意はない。作者はただ読者の興味を釣るために、もっとも運命の急激な変化を見せるに便利な株式を選んだだけである。株式界の機構や、現代の金融界の内部を剖析しようとしたものではないのである。敵味方の恋愛事件も、既に芝居として仕組まれたに過ぎないもので、ありふれた通俗小説の型だといえば、それまでである。
 しかしこの作品は、かつての「寝園」に比べると、その形態から言っても、材料から言っても驚くべき発展振である。人間では文七の手代の連太郎が一番よくかけているが、他の二人も決して見劣りしない。殊に文七は全面的ではないが、その深刻らしい面臭が、古い名匠の彫刻のように想見される。「寝園」の人間、殊にも女主人の良人が、畢竟何を考えいる人間だか少しもわからないのと違って、性格や気質が、古典的な物語の中に現れて来る人物のように、理想化されて描かれている。それに比べると、女性の描写は漂渺(ひょうびょう)とした神韻はあるが、どこか所々ぼかされている。
 この小説が、息をつく間もなく読めるのは、そこには人間の日常性というものが、一切省みられることなく、恋愛なら恋愛、株なら株の闘争という、白熱的な人間の心情の最も高調に達した場合と場面とがそれから夫へと繋がっていて、芝居でいえば切ったはったの修羅場ばかりを拾っているようなものだからである。これはこの小説の好いところであると同時に感情が徒に高揚されるだけで、読後ひたひたと胸に沁みるもののない理由でもあろう。それにしても是は豪華な歌舞伎劇でも見るような典麗無比な作品である。この世知辛い世のなかに、これは又桃山式とでも言いそうな大まかな構図と絢爛たる色彩との、むしろ驚嘆すべきものである。勿論谷崎氏が日本画とすれば、これは洋画の手法と色彩で行ったものだが、いずれにしても傑作であることに疑いはない。
 序ながら、著付の描写が「寝園」などに比べて、遙かに洗練されて来たことも注目すべきであろう。(昭和十一年「読売新聞」)』


漂渺(ひょうびょう)・・・かすかで、はっきりしない様子。または、果てしなく広々としたさま。

 上記では、横光利一氏の作品の感想でした。今度は、徳田氏と永井荷風氏、菊池寛氏との出会いに加え、両氏の小説家として出発を書いています。また、夏目漱石との出会いと別れも記されており、文壇的に非常に興味深い内容となっております。

 

四名家第一印象
 
 友人を語るといっても、誰を語っていいかちょっと見当がつかない。思い出すのは大抵死んだ人で、種々雑多な幻が眼前に去来するのだが、二三の人の第一印象を語ってみよう。
 ちょうど机上に、一穂が見て来たというオペラ館で今上演中の永井荷風氏の「葛飾情話」の台本があり、ヴェルレーヌ風の歌詞が、最近読んだ「女中」という小説よりも面白いので、荷風氏から初めようなら、この人は明治十年代の初め頃に私がいた牛込の筑土八幡近くの下宿に、ふらりと尋ねて来たことがあり、多分下町の若旦那だろうと思っていたのだが、前掛けはしていなかったかもしれないけれど、縞の羽織に角帯で、何か気取った筒差しの煙草入れを腰からぬいて、煙草をふかしていたものである。
 私は郷里に踊りの師匠をしている女で、その時の荷風氏の面差しによく似た女を知っているので、今でも同じタイプだと思い出すことはあるが、後に小栗風葉氏が偶然私の部屋で荷風氏に逢い、風葉氏はちょうど読売新聞に長篇の処女作「恋慕流し」を書いていたので、尺八の恋慕流しについて、荷風氏に何か尋ね、氏はそれに答えていたようだったが、それから一二年すると荷風氏の処女作「地獄の花」というロマンチックな作品が現れ、ニーチェイズムの思想が流れていて異彩を放った。その頃には氏はすでに柳浪氏や小波氏のところへ出入りしていたかと思う。
 氏を紅葉さんに紹介すべきであったろうが、しかし余り弟子扱いにされることは好まなかったに違いない。
 
 あれは何年頃だったろうか、私が「黴」をかいてから間もない頃、俳句や写生文や「俳諧師」などで文壇的に高名であった高浜虚子氏の来訪を受け、どこか身構えのきちんとしているのに思わず膝を正した。ちょうど小栗君が来ていたので、別室だったか、それとも小栗君が帰ったあとだったかに、今度国民新聞に文芸欄ができ、その編集をやることになったから、真っ先に中編を書いてほしいといわれ、悦んで承諾すると、氏は能を見るなら案内しようというので、それから一両日してから、招魂社の近くにある氏の宅を訪れ、九段の夜能を見たのであるが、ちょうど夏目漱石氏も別の桝へ来ていて、中途から虚子氏と私のいる桝へ割りこんで来て観覧した。』
 その時の梅若萬三郎の小原行幸が、今でも目と耳に残っているくらいだから、その時も感心したのであろう、謡をあまり好きでもない私のレコード缶の中に、九郎と萬三郎のものが三、四枚あるのも、その時の影響である。しかしその時分読んだ二葉亭氏の翻訳に成る「血笑記」に共通な感情を、私はこの小原行幸に感じたものらしく、その時の心の印象をちょっとした小品に移し、ちょうど年の暮れちかい頃で、頻に原稿を催促に来る平木白星氏の出しているパンフレットに寄稿したものである。
 後に平木氏から京都の職人の手に成った、銅製の筆架をお礼にもらい、今でも持っているが、ある時西本波太氏の出していた趣味という文芸雑誌の発行所で、藤村氏や小山内氏や水野葉舟氏などと落ち合った時、小山内氏がなぐり書きのその小品に讃辞を呈してくれたことをおぼえていた。素より今それが見つかっても詰まらないものに違いない。
 
 漱石氏と逢ったのは、後にも先にもその時きりだが、氏は萬三郎の謡について、あんなに低い声を気取らないで、もっと高く謡ったらいいだろうといっていたが、虚子氏は「うむ」とか何とかいって批評の言葉を挿まず、私も謡は勝手が違うので黙っていた。謡について話しをしなかったばかりか、漱石氏の推薦で朝日に「黴」を書いた癖に、文学のことなぞも一つも話さなかったのは、今考えてみても可笑しい。
 私は漱石氏から二度も長い手紙を受け取っており、十分氏を訪問すべき因縁があるのにかかわらずその機会を最後まで逸してしまったのは、あの時代の私がいかに頑なであったかという証拠であろう。
 これは大正初年頃であったろう。ある夏私が先発で、房州の那古である女師匠の二階を借りることにきめてあったもので、そこへ行こうと思い、まだ汽車も全通していなかったので、保田まで行っていると、その頃時事にいた菊池寛氏が追駈けて来て、時事に小説を書く約束をしたのだったが、原稿料を一円だけあげて、六円にしてくれられまいかと申し出で、その通りにしてもらった。
 菊池氏が私の森川の宅を訪ねた時ちょうど子どもが行くことになっているから、済みませんがご一緒にと何も知らぬ家内が頼み長男と二男が菊池氏につれてもらって来た訳だが、私は約束した宿が余り体裁のいい二階でもなく、途中の休み茶屋の店頭などで、番茶一杯で別れるのが悪いように思って気が痛んだが、用件だけでそのまま別れた。後で子どもが「あの人はえらいんだよ。汽車に乗ると降りるまで夢中で原稿を読んでいたよ。鉛筆で所々線を引いてね。」というので、子どもにも何か異った印象を与えたことを知り、益々悪いことをしたと思ったのであったが、それから間もなく「忠直卿行状記」が出て、菊池氏は一躍文壇に躍り出てしまった。
 私はいつも心の行き届かない男であったのである。(昭和十三年六月二日「東京日日」)』

 

徳田秋声の随筆集「灰皿」2

 1では、森鴎外の全集について、語っていた秋声ですが、今回は室生犀星と共に小杉天外氏を訪ねて鎌倉へ行った時の思い出話しです。犀星は「あやめ文章」の「四君子」内で、秋声と共に天外氏を訪ねたことを最初から順を追って書き記しておりますが、秋声は天外氏との思い出を鎌倉の季節にあわせて味わい深く書き記しています。

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徳田秋声の随筆集「灰皿」1

「私は随筆文学をあまり好かない。」から始まる印象的な徳田秋声の随筆集「灰皿」ですが、なぜこれが世に出たかと言えば、まずは出版元である砂子屋主人の好意に加え、秋声氏の息子である一穂氏が編集と校正の一切をやってくれた事が大きかったようです。当時、秋声氏は66歳。今で言えば老眼鏡が必要になっている年頃です。

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