ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

山本健吉による中野重治の解説に寄せて

以下、『』内の文章は全て(株)新潮社が出版した「日本文学全集16 中野重治」から「解説 山本健吉」より引用した文章になります。中野重治の研究の一助になれば幸いです。

 


山本健吉ってどんな人?
日本の文芸評論家。日本共産党が非合法な時代にあって入党するなどしている。


『私にとって中野重治氏は、なによりもまず詩人である。それは決して、氏のあらゆる文学的業跡のなかで、とくに詩を高く評価するということではない。量から言って、氏の作った詩の数は知れたものだ。全集によれば、依頼されて作った校歌一編を含めて、七十一編に過ぎない。もちろんたった一冊の「中野重治詩集」は、詩人としての氏の存在を、鮮やかに表明する。
 だが氏は、その一冊の詩集を超えて詩人なのである。
 私は昭和時代の詩の支えに、川端康成井伏鱒二石川淳小林秀雄氏等とともに、中野重治氏がはっきり存在していると思っているが、それは必ずしも、氏等が詩を作っていたからではない。中野氏はその詩と散文とをも含めて、つまり小説もエッセイも評論もいっさい籠めて、詩人なのである。いや、その政治的行動をも含めて、詩人=革命家という等式において、氏の全存在をあげて、詩人なのである。今日、詩人と呼ばれている多くの人たちより、数倍も詩人的であり、言葉の本然的な意味において詩人なのである。
 私はまず、氏の詩を語ることから始めたい。』
非常に私的な意見ではありますが、私はこの書き出しが大変好きです。文中にも、多々詩人らしい表現がちりばめられ、解説というより中野重治という詩を読んでいる気持ちになります。
この解説は、冒頭に続いて中野重治自身をよく現わした詩「歌」について説明をしています。
「歌」という詩は、『お前は歌うな』から始まり、『恥辱の底から勇気をくみ来る歌を それらの歌々を 咽喉をふくらまして厳しい韻律に歌い上げよ それらの歌々を 行く行く人々の胸廓にたたきこめ』でしめられる作品で、実に激しい彼の内面を顕わしています。
そして、これに続いて代表作である「歌のわかれ」における味覚、嗅覚による記憶が深く中野重治という精神を捉えていることを説明しています。
「歌のわかれ」そのものは、中野重治の“自伝的連作”の一つで「歌のわかれ」「街あるき」「むらぎも」の三編の一番始めにくる小説です。「街あるき」は、「歌のわかれ」と「むらぎも」を繋ぐ短篇で「歌のわかれ」と「むらぎも」だけでも充分完成しており、読むことができますが「街あるき」を読むことで、更に理解を深めることができます。
『氏は素朴を定義して、「中身がつまっている」感じと言い、さらに説明して「中身のつまりかたが実にカッチリしていて、そのために敢えて包装を必要としない」ことだと言っている。さらにそれを推し進めて、素朴ということの根底に「すべての瞬間にいっさいを叩きこむという態度」があることを認め、それは「剛毅な態度」なのだと言っている。』
中野重治には、「素朴ということ」というエッセイがありこれもまた彼を語る上で欠かせない作品となっています。
『氏の発想は、つねに即興的で、作品の構成などにはあまり心を労さないかに見える。この点、氏の散文に影響を与えたと思われる佐藤春夫氏の文学の性質と、発想の上できわめて似たところを持っている。ところが氏は、細部の真実に深くこだわる傾向を思っている。細部がぎっしり中身をつまらせて、他の細部と競り合うのである。氏の散文が、きわめて平易な言いまわしを目ざしているにもかかわらず、時に難解に陥るのは、細部の中身の奥行が深いからである。』
発想が即興的である点がよく解る作品は、短篇でいえば「山猫その他」が短文ながら心情の凝縮度が高く、深い読み応えのある作品です。感情の凝縮度が高いため、構成などはほとんど無くそれが却って、印象深く素直に心に響いてくる短篇です。
『氏ほど理想主義的な潔癖さを初手から頑強に持ちつづけているプロレタリア作家はない。平林初之輔が、例の「政治的価値と芸術的価値」という二元論によって、マルクス主義芸術理論に対する懐疑を述べたとき、「芸術に政治的価値なんてものはない」と言い切ったのは中野氏である。』
『彼の真意はやはり次の一文にある。「芸術家は、彼の作品が永遠に残ることなどを目当てるべきでなく、彼の作品なぞを必要としないような美しい生活が人間の世界に来ることを、そしてそのことのために彼の作品がその絶頂の力で役立つことを願うべきであろう。」(素朴ということ)「その絶頂の力」が芸術的価値なのであり、それゆえにそれは人を動かす政治的な力をも持ちうるのだ。
 芸術的にもっとも純粋であることを意図し、主張した中野氏が、「その絶頂の力」で役立とうとしたところに、詩人=革命家としての真骨頂があった。これは、魯迅の生き方と、きわめて類似した点を持っている。その両者とも、その作品が、その全存在を覆うに足るほど豊かなみのりを示しているかどうかは疑問だが、詩人の真の在り方として革命家たろうと欲した点で似ていると言えるだろう。』


中野重治には「私は嘆かずにいられない」という題名の詩があります。内容は、「しかし私は嘆かずにはいられない」から始まり、拷問という言葉やそれにかかる私は嘆きたくはないし告発のために生まれたわけではない、それでも嘆かずにはいられないし、告発せずにはいられない苦しい心情を歌っています。


革命家として立たざるを得なかった、そしてそれを「転向」をしたものの彼なりに自分の信念を人生の最後まで貫き通したところがやはり、中野重治が自分自身をもって「詩人である」と言っている気がしてなりません。