ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

横光利一のことば

 清水書院が出版した「横光利一 人と作品」には、横光の人生にそって彼が書いた随筆や作品に対する思いが綴られた文章を掲載しています。ここでは、左記の本から横光利一のことばを引用しまとめてご紹介しております。『』内の言葉は全て引用となります。横光利一作品の理解や人生を知る一助になれば幸いです。

 


 横光利一は、三歳の頃、東京の赤坂に父の仕事の関係で転居します。その時、姉と一緒に三味線の師匠のところで踊りを学びに行きました。その時の思い出を「三つの記憶」で書いています。


『坂道を姉と二人で上り踊りの師匠の家へ着いてから、懐に差された舞扇を抜きとって、梅ヶ枝をわたる鶯、と姉の踊っている間膝に手をつき眺めていた。私の番になると扇を開き、『数万の精兵繰り出して』と男は男の舞を習うのだが、そのころのこのあたりは家家の屋根も低く日光の明るく射している通りと、そして踊りとだけ妙にはっきり覚えている。下総(しもふさ)から来た私の家の男衆は、私を背負って赤坂の練兵場を歩くのが日課と見えて、草の中で起き伏ししている兵隊の姿も眼に残っている。また、四谷見付(よつやみつけ)あたりの足もとよりも低い土手の下の方を通る黒い汽車が、いぼいぼの鋲を沢山打たれた鉄橋の中を擦れ違う虫のようなのろい姿が面白くて、いつもそこへ行くことを男衆にせがんだ。物ごころつく頃の記憶を故郷とすれば、私には東京のそのあたりが、故郷といっても良い。』


 横光が五歳の冬、伊賀の柘植(つげ)に転居します。伯母の家に泊った彼は、そこで生まれて初めてランプという物を見ます。この時の体験を「洋燈」に書き記しています。


『竹筒を立てた先端に、ニッケル製の油壺を置いたランプが数台部屋の隅に並べてあった。その下で、紫や紅の縮緬(ちりめん)の袱紗(ふくさ)を帯から三角形に垂らした娘たちが、敷居や畳の条目を見詰めながら、濃茶の泡の輝いている大きな鉢を私の前に運んで来てくれた。これらの娘たちは、伯母の所へ茶や縫物や生花を習いに来ている町の娘たちで二十人もいた。二階の大きな部屋に並んだ針箱が、どこれも朱色の塗で、鳥のように擡(もた)げたそれらの頭に針がぶつぶつ刺さっているのが気味悪かった。
 生花の日は花や実をつけた灌木の枝で家の中が繁った。縫台の上の竹筒に挿した枝に対(むか)い、それを断(き)り落す木鋏の鳴る音が一日していた。』
利一は大津市大津小学校に入学します。ですが、父の転勤の関係上この学校に彼は一ヶ月しか在籍することができませんでした。それでも、この大津の町が好きだった横光は「琵琶湖」にこのように書いております。
『舟に燈籠をかかげ、湖の上を対岸の唐崎(からさき)まで渡って行く夜の景色は、私の生活を築いている記憶の中では、非常に重要な記憶でえある。ひどく苦痛なことに悩まされているときに、何か楽しいことはないかと、いろいろ思い浮かべる想像の中で、何が中心をなして展開していくかと考えると、私にとっては、不思議に夜の湖の上を渡って行った少年の日の単純な記憶である。これはどういう理由かよくは分からないが、油のようにゆるやかに揺れる暗い波の上に、点々と映じている街の灯の遠ざかる美しさや、冷えた湖を渡る涼風に、瓜や茄子を流しながら、遠く比叡の山腹に光っている燈火をめがけて、幾艘(いくそう)もの燈籠舟のさざめき渡る夜の祭の楽しさは、暗夜行路ともいうべき人の世の運命を、漠然と感じる象徴の楽しさなのであろう。象徴というものは、過去の記憶の中で一番に強い整理力を持っている場面から感じるものだが、してみると、私には夜の琵琶湖を渡る祭がそれなのである。このときには、小さな汽船の欄干の上に、鈴のように下った色とりどりの提灯の影から、汗ばんでならぶ顔の群が、いっぱいの笑顔の群となり、幾艘ものそれらの汽船の、追いつ追われつするたびに、近づく欄干にどよめきたって、舟ばた目がけて茄子や瓜を投げつけ合う。舟が唐崎まで着くと、人々はそこで降りて、今はなくなった老松の枝の下をめぐり歩いてから、また汽船に乗って帰って来る。日は忘れたが、何でもそれは盆の日ではなかろうか。』
横光は、この後に再び母の実家がある柘植に戻り、今度はそこから東柘植小学校に通い始めます。そこで、利一は東京弁を笑われたりしながらも、彼と同じように東京からやってきた一人の少年、藤島孝平と出会います。二人は、初夏の日曜日の午後に、誰もいない校庭の真ん中でばったり出会います。この時、二人ともまだ言葉を交わしたことがなかったので、しばらくじっと見つめ合って立っていた後、突然、孝平は顔を真っ赤にしてかけ出して行ってしまいます。
藤島は高等学校卒業後、間もなく肺病にかかり亡くなります。その時のことを利一は「三つの記憶」にこう書き残しています。
『私にはこのとき、顔を赤らめて逃げ出した孝平の姿が、この世を逃げた最初の初初(ういうい)しい退場の姿に見え、日曜日のあのひっそりとした田舎の運動場の虚しい砂の白さが浮かんで来て淋しかった。』


 また、当時は福地伊代守の城址へ遊びに行っており、「芭蕉と灰野」には当時の思い出を書いています。


『そこの荒れ果てた草の中に古井戸が一つあった。中を覗くと羊歯(しだ)や苔の生えている間から、骨の露出した番傘がいつも水の上に浮いていた。井戸の前に句碑があった。そこに古池や蛙飛びこむ水の音と書いてあるので、この井戸の中には蛙がそんなにいるのかと思ったのを覚えている。子供たちはみなこの城址のことを、芭蕉さん芭蕉さんと呼ぶ習慣であったが、芭蕉さんとは何のことだかさっぱり私には分からなかった。私は芭蕉さんってなんだと訊(き)くと、村の子供らも分からぬらしく誰もなんとも答えなかった。』


 「蝿」については、横光利一自身は下記のように述べています。


『『蝿』は最初風刺のつもりで書いたのですが、真夏の炎天の下で今までの人間の集合体の饒舌がぴたりと九二沈黙し、それに変ってにわかに一匹の蝿が生き生きと新鮮に活動し出す、という状態が風刺を突破したある不可思議な感覚を放射し始め、その感覚をもし完全に表現することが出来たなら、ただ単にその一つの感覚の中からのみにても生活と運命とを象徴した哲学が湧き出て来ると己(うぬ)惚れたのです。』(「大正十二年の自作を回顧してー最も感謝した批評」より)


 「笑われた子」後に「面」と改題された作品について、横光はこう書いています。


『私は光りのない言葉は嫌いである。この作には内面的な光りが、私の作中最も出ている作だとは、私は思っている。しかし、今は私は外面的な光りの方を愛するときだ。愛する必要のあるときだ。ここを一度通らなければ本当の内面の光りは出て来るものではないと私は思っている。いまに、この内面の光りと外面の光りを同時に光らせてみたいものだと、私は常々から潔(いさ)ぎよい祈願を籠めている。』