ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

中島健蔵が語る「人間横光利一」2

 筑摩書房が出版した「新選 現代日本文学全集36 河盛好蔵 中島健蔵 中野好夫 臼井吉見集」から中島健蔵の「人間横光利一」を紹介しています。「人間横光利一」は、評論家であり横光と交流があった中島健蔵が当時書いた日記をまとめたものです。以下、『』内の文章は左記の書籍からの引用となります。横光利一研究の一助になれば幸いです。

 


『○昭和十年一月九日。……河上との約束により、「はせ川」へまわる。河上、大岡のほか横光さんがいた。久しぶりで会うと嬉しい。横光氏は近ごろ酒飲みになつた。……川端氏の『禽獣』と自分の『上海』との装幀を引きうけた由で色紙の見本をたくさん持つていた。河上、大岡と三人で朱色がいいとすすめる。色が気になるとみえて、ネクタイ屋の前にまで立ちどまつていたが、鳩居堂で何百種か色見本を見たところ気が変になつたという。同じようで少しずつ違う色をたくさん見つづけたら妙になるだろう。四人でさらに「エスパニョール」へいきビールを飲む。横光氏やや多弁となる。先夜は井伏、林芙美子など中村地平を泣かせ、次には横光氏が丸岡明を泣かせた。今夜は大岡を泣かす番などと常談をいう。大岡は泣くような男にあらず……。


 ○昭和十年二月八日。夕方までジードを訳し、用事でちょっと辰野さんを訪れたが留守。久しぶりで「はせ川」へ行つてみたら「黒潮」の会が今終つたとのこと。横光氏はじめ友だちが今し方出て行つたというので、見当をつけて「エスパニョール」へいき、会う。横光、河上、堀辰雄、佐藤正彰ともう一人お医者さん。……夜半、佐藤と共にさらに新宿のおでん屋にて朝五時ごろまで飲む。佐藤しきりに、僕の書くものに注文をつけていたが、疲れてただうんうんいう。お前は大学をよして、ほんとうの意味の文壇的になれといつた。横光さんがそういつたからという……。


 ○昭和十年二月十五日。……「はせ川」に寄る。「文芸春秋祭」とかで、横光氏、K社のM、Y両君と共に来る。……十二時ごろまで話す。横光さんますます酒のみとなる。家のものが寝しずまつたころ、ひとりで燗をしてのむ酒の味がよいという。他人に燗をされたのではまずいというのはおもしろい。献酬もとより大嫌いなるべし。横光氏と自動車に乗り、家まで送つて帰宅。案外近い。へたに新宿まで出てまごつくよりもよい都合なり。


 ○昭和十年二月二十八日。~中略~「はせ川」へ行つて見たら、文芸春秋社の連中が、菊池寛を連れて大騒ぎをやっていた。……顔見知り多く、なんとかいうバーへ一緒にいけと捉えてはなさず。菊池寛に紹介さる。平べつたい声のみが印象に残る。~中略~横光さんが、これも少々酔つて来る。四月の「改造」に純粋小説論を書く由。僕の『感動の衰弱』の一節を引用したが、あの「深淵」とは何か、と聞く。いろいろなカラクリが埋れて人の発見を持つている場所という意味にとりたいらしい。実際の行動と、可能な心理とが共にかくれている場所という解釈らしくもあつた。書いた僕自身、そう問いつめられうとはつきりわからず。一緒に帰る。


 ○昭和十年四月二十七日。……「京王パラダイス」での座談会に出る。「作品」主催で題目は「純粋小説について」。横光さんを中心としてあとは若い連中だと思つていたら、日本の文壇の頭脳を集めたような顔ぶれでびつくりする……。豊島与志雄谷川徹三川端康成横光利一三木清河上徹太郎深田久弥、それに中山義秀がいたが、彼は一言も口をきかず。司会者小野松二。小林秀雄が来るはずだつたそうだが来らず。話を横にそらす人がいないので、みつしりした座談会になつた。いろいろ教えられる。だいぶ誤り考えている点があつた。~中略~九時過ぎ散会。少し新宿を散歩したのち、「はせ川」へいく。横光、河上、井伏(鱒二)、神西(清)、中山(省三郎)、大岡、今日出海、永井竜男、佐藤正彰。水入らずの感じで思いきり笑い、十二時すぎ帰る。こめかみが痛くなるほど笑つたのは久しぶりだ。今日出海が酔つてバカなことばかりいう。永井が応酬する。何ともいえず楽しかつた。』

『○昭和十年五月十日。……河上は、先日の座談会の話をして、僕のことばを、横光氏のまわりをめぐつているようなものだとわらう。然り。一緒に話をしていると、こつちもどんどん進歩するが、彼のことばを追跡するために、観照が曲る、あるいは偏するおそれはじゅうぶんにある。これは危険だ。ことに、ある相違を暗々裡に認めあいながら、思わず遠出をして、その先で互の素顔を見合うのは愚劣だ。横光氏が、『純粋小説論』の中で、僕の「感動の深淵」を引用したのは、どう考えても少しむりすじだと思う。僕が純粋小説を云々するのと同様に。「通俗性」に関しての僕の考えははなはだ浅かつた。『純粋小説論』の最後のいわゆる「通俗」には思いおよばず、作品にばかりかまけていたのは悪い。「文学界」五月号の中村光夫(木庭一郎のこと)の論、よし。この論に関する限りの白眉だ。


 ○昭和十年五月十九日。横光氏のいわゆる「四人称」に関して、(『覚書』)。ある時間経過を描く場合、意識の場は一つしかあり得ない。各人が自意識を持つている場を考えるためには、さらに範囲の広い意識の場が必要になる。要するに、ある進行中、「だれが考えているか」という問題になる。みなが考えている場合には、(それを作家が上から見て描く場合)作家の意識が唯一の場であれば問題はない。しかし、各人が考えている世界(すなわち「自然」)をそのダイメンションのままに捉えようとすると、そういう広い場が必要になつて来る。ところが、それが、何らかの人称を持ち、肉体を持たなければ、小説としては成立不可能だ。そこに第四人称の必要が起つて来る。


 ○昭和十年七月二日。横光さんから本になつた『覚書』を贈らる。昨年から今年の春にかけての、よいつきあいの記念品だ。会いたし。


 ~中略~


 ○昭和十年十一月二十六日。美術学校、帝大と講義をすませ、豊島さんと一緒に日本ペンクラブの発会式へいく……。会後、横光氏に誘われ、豊島、徳田秋声福田清人船橋聖一、板垣鷹穂と「はせ川」へ行き、十二時ごろまで雑談。徳田秋声とはじめて口をきく。横光氏、小説技法について、モンタージュが問題にならないのはおかしいという。ことばについて。いつかKが匿名で、『盛装』の会話を非難した手紙のことを話す。山の手の中流の家庭で、女が座にいると、男まで女のことばを話すが、これなどは、実に特徴的なことでありながら小説の会話には用いられないこと。ところが板垣にこの癖あり、今夜など女がいないのに女のことばを使う。日々新聞の連載小説『家族会議』の挿絵のことがまず話題にのぼる。徳田、板垣の両人は、「評判が悪いな」という。自分が嫌に思うとはいわない。佐野氏の原画は、印刷には出せないよさを持つているそうだが、はじめから新聞小説の挿絵ときまつているものを、それによさが出ないようなものを描くというのもおかしい……。横光氏はけつきよく来年はパリに行くという。「ジードという奴は、会つたらさぞかし嫌な奴だろうと思うね、」豊島氏。一同賛成。「しかし、ヴァレリーならば会つても嫌じやなさそうだ。」一同賛成。「ジードなんかに会つたらやりきれん。ヴァレリーなら何でもわかつているから、こつちが楽だろう。しかし、だれにも会わんつもりです。」横光……。十二時を機会に、一同別れる。秋声ひとり、銀座通りの方へ出ていく。横光氏と同じ自動車で渋谷をまわつて帰る。「淋しいなあ、あの人は、」秋声の姿を見ながら、横光氏。「女房が急にいなくなつたとなると、こういう時、さあ家へ帰るというのが実に淋しい嫌なものですよ、」同じく。「やはり『上海』は大きな転機だつたね。あの時はみんな左傾したし……。もし上海へいかなかつたら僕も左傾していたろうと思う。」横光氏。』

『○昭和十一年一月二十九日。~中略~人のうわさ……いつだか、豊島さんが横光さんに、「デカダンス」の不足を説いたことがあつた。「横光君自身にはデカダンスがあるだろうが(いい意味の)、作中の人物にデカダンスがなさすぎる。だから、人物が生きてこない、」(説明を要する議論だ、)というのだ。豊島さんは、『上海』を見落している。が、それ以外のものについて(短篇は別として)は、そういえなくもない。おそらく、パリが、横光利一にとつて『上海』についで、生きた人間を捉える場を供給することになればおもしろいだろう。具体的な「場」の不足が、彼の第一の困難なのだから。「このごろでは、寝る前に、ビールを一本半くらいのまなければ、寝つかれない、」という。「出かける前に、もう一度会えますな、」という。別れぎわのことば。彼の送別会を川端さんが主催するからとの意……。~中略~
 
 二・二六事件の直前に、横光利一はフランスへ出発した。このメモにははつきりと出ていないが、物情騒然。~中略~


 横光利一の出発前から、われわれは、もう政治に無関心ではいられなくなつていた。国際関係の話や、右翼の陰謀の話がいつもひそひそと語られていた。もつとも、その当時は、政治的関心というような感じではなく、むしろ、「政治の消滅」が感じられたのであつた。二・二六事件以後、わたくしのメモも、全く書き方がちがついて来ている。その時には、横光利一は、日本にいなかつたわけである。~中略~
 
 ○昭和十二年二月二十七日。横光氏が「種族の知性と倫理の国際性」などという妙なことばを『厨房日記』の中でいつて以来、そして河上が、「日本の知性と西欧の知性」の問題を提出して以来、どうにもならない溝が掘られたことを感じて淋しい……。~中略~


 昭和十二年八月二十八日、応召のFを東京駅に見送りにいくと、横光利一も来ていた。~中略~
 ○横光氏とは久しぶりなので、寺崎、桔梗と一緒に、「はせ川」へいく。~中略~
 ○ドストイェフスキーの『悪霊』の話が出る。一体ドストイェフスキーは、どんなつもりであれを書いたか、人間をみな悪魔につかせようと思つたのじやあるまいかと思うという。小林(秀雄)も、これを読みながら「暗鬱でたまらない。人間には進歩なんか断じてない。戦後にはじめて日本でもドストイェフスキーがしみじと読まれるようになるんじやないかと思う、」と桔梗君にいつたそうだ。横光氏は、『悪霊』を読んで以来、小説がまずくなつてしまつたという。今ではどうして『悪霊』の影響から抜け出すか、その努力があるばかりだという。『悪霊』だけは、隅から隅まで「わかつた」気がしたそうだ。その例として、スタヴローギンとリーザとの会話(第三編第三章)をインポテントの会話だとしか思えず、河上にその話をすると、「そんなことはないでしよう、」といつたそうだ……。横光氏は、今に戦況が悪くなりでもしたら、左翼の思想家はみな殺されるかもしれないという。「きつとやりおる、」という彼の口調の中にも、きわめてありそうなものと、とうていあり得そうもないものとの混合が感じられる。~中略~
 横光氏は、『厨房日記』について一番大切なところは、書くことができずにみな消してしまつた、という。ぼけているところはみなそうだという。一体、消さない原稿は残してあるのか、と聞くと、いや書きながら、消して破つてしまつたという。ついでに、消すことについて、伊藤整の『幽鬼の街』は、消すことを知らん小説だという。おそらく、伊藤は、消すことに反抗してあれを書いたのだろうが、と僕は思う。』

 

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