ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

最晩年の織田作之助

 六月社書房より1971年に限定500部で発刊された「織田作之助研究」には、小笠原貴雄が没後の織田作之助に寄せた最晩年の織田の姿が書かれています。以下、下記の『』内の文章は左記の本から現代語訳した上での引用になります。織田作之助の研究の一助になれば幸いです。

 

織田作之助さんのこと
         小笠原 貴雄


 廊下でうろうろしていると、通りかかった看護婦が「織田さんですか?」と病室を教えてくれた。
 病室の前には絶対面会謝絶の赤札が掛っている。一寸ちゅうちょしていると、小柄な婦人がどうぞ、と案内してくれた。殺風景な病室に、真赤な布団が異様に目立つ華やかさである。前から髪も乱髪、顔色も蒼白なので、病気になったから、といって別段病人らしい変化はないのだが、ただ一つ、前にはその乱髪、蒼白な顔には生気が溢れていた。絶えずしゃべり嘲罵し、しゃれを言い、ケッケッケッと、甲高く笑ったその顔は、私を見ると頷いたが、織田作流に表現すれば死神のとり憑いた顔である。いかんわい、私はふと織田作死ぬかな、と感じた。私の用件は今度、風雪社から出す創作集「妖婦」の事であった。病床の織田さんにこのような事務的な事はいいにくい事であったが、「妖婦」は私が前にいた出版屋で六月に契約をしたのが出ないので、風雪に引継ぎ出版を急いでいる本であった。ただどうしても頁数が足りないのである。その打合せが済むと、世間話になった。絶対面会謝絶の赤札がチラついているので何度も腰を上げかけるのだが、病気で人なつこい織田さんはコーヒーでも呑んでゆけ、と放さない。
 京都の頃、何人かの取巻と四六時中ワアワアいっていたにぎやかさに比較すれば、この病室は寂しくて耐えられないのであろう。この寂しさはデカダンスの何物であるかを解さない私の胸にも落込む寂しさであった。
 世間話をしながら私は織田さんに嘘をついた。それは二三ヶ月前、織田さんの後輩に当る私の友人が、ある小新聞織田作之助論を書き、それがいささか私事に渡っていたので酷く織田さんを怒らせた事があった。私が京都で織田さんに会ったのは某友人の手引きであったから、自然其事が話題にのぼった。四五日前まで、大阪から某友人が上京していたので、私は某友人と織田さんの旅館へお詫びに行ったのだが、もうこちらへ入院された後だった。と言った。詫びに行こうではないか、と某友人と出た事は本当であったが、実は中途でそれて行かなかったのである。しかし織田さんは「そうか詫びにきたか」と満足そうであった。今になれば取返しのつかない事である。
しかし、其の織田作之助論が織田さんの心にひっかかっていたとすれば、私の嘘も生きた事になる。八月までは執筆禁止だから九月になったら風雪にも書いてやる。潰すな、と言われたが、とうとう書いては貰えない事になった。
 私が織田作之助の名前を知ったのは改造の文芸賞である。記憶に強く残ったのは、宇野浩二さんか誰かが、選後、とうとう大正生まれの作家が出た、と言われたからである。自惚れの強い文学青年の例にたがわず、私は其の言葉を読んだ時に、え、糞、先を越されたか、と口惜しかったからである。しかし作品的に共鳴したり感心したりした事はなかった。作家としての織田作之助に強くひかれたのは「人間」に出た「世相」と「改造」の「競馬」であった。この時初めて織田作之助に打たれ、恰度作品集を出そうと思っていた所なので、終戦早々織田作之助の作品集を出している大阪の友人柴田忠夫に紹介を頼んで京都に行った。』


「人間」、「改造」・・・ともに当時出版されていた雑誌の名前。

小笠原貴雄が妖婦以外の作品を遂に織田作之助に書いて貰うことができなかった、と書いておりましたが昭和22年に風雪社から「妖婦」というタイトルで妖婦以外の織田作之助の作品をまとめた上で、作品集を刊行しております。収録された作品は「二十番館の女」、「奇妙な手記」、「見世物」、「写真の人」、「湯の町」、「鬼」、「漂流」、「昨日、今日、明日」からの「妖婦」が掲載されております。

 

『織田さんの奇行に就いては前から柴田に度々聞いていた。放送局で猿飛佐助を放送した関係からある流行歌手と結婚し、その歌手の家に住んだ。所が織田作之助は生まれてから歯を磨いた事がないので恐ろしく臭い、おまけに好色で、昼夜を取り違えている作家生活なので、とうとう歌手の所から飛び出しか追ん出されたのか、それからは京都の新京極の宿屋にいる、勿論、荷物も異動申告もおきっぱなし、というわけである。このあたりはいずれ柴田がくわしく書くであろうが、とにかく私と柴田が宿へ行ったのは六月の終わりの正午に近い頃であった。案内を乞うと恐ろしく肥って唇の真赤な女中が出てきた。私と柴田は早速女中に全身生殖器という仇名をつけた。後で何かの拍子にこの言葉が出ると、「ああ、あのでぶか」、と織田さんも即座に判った様子であった。
 暑苦しい応接間で待っていると、寝巻であろうよれよれのゆかたで、ばっさりと長髪が肩までたれかかり、眼やにをいっぱいにつけた寒竹のようにひょろ長い男がのそっと這入ってきた。織田さんである。最初はひどく無愛想だった。しゃべると歯が真黄色で、煙草を唾でベトベトに濡らしながらもみ潰すのが癖であった。東京の出版屋は部数が多くないので、とか、世相、競馬は昨日八雲にきまった、というような話をした。結局私の方へ妖婦を貰う事になり、一緒に外出する事になった。
 宿を出るとすぐに新京極の闇市である。闇煙草屋が軒をならべ、東京の倍も高い食物屋が、東京から来た私の眼を奪った。むし暑い京都の夏が始まりかけている。焼けない京都の風情もこの闇市支那の薄汚い一場の風景に圧倒されている。歌手の所を飛び出して着たきり雀の織田さんは薄茶の合服しか持たない、暑いと見えて上衣はぬいで肩にしょっている。ちょんとのせた登山帽の下からバサバサの長髪がはみ出している。普通の男より首一つ高いので、そんな異様な風態は恐ろしく目立った。三歩も歩かないうちに誰かに呼びかけられる、なかなか進まなかった。そのうち向こうから洋服のすそをけちらかすように歩いてきた女が、「あら先生お出かけ?」と立止った。
 「煙草、あったか?」「それがえらい苦心や」、女はそう言って手さげをひろげてみせた。
 「すまんすまん飯食いにゆかんか」と織田さんは女を誘った。柴田も知合らしく挨拶した。……ダンサーだよ……柴田はそんな事を囁いた。他に特徴はないが、とにかく顔の長い女であった。
 帰京してから何かの会で石川達三氏にこの話をすると、「俺の面より長いか?」と、石川氏はぬっと顔を出されたが、確かに石川さんの顔よりは長かった。大体、織田さんの顔が長いのだが、それよりは長いのだから相当目立つ、その上、猛烈な化粧をしているので行き交う人は一々ふりかえる程であった。
 翌日、原稿をまとめて貰うために又、宿屋へ行った。その日も「おいでやす」と全身生殖器が唇を真赤にぬってどったりとあらわれてきた。二階の少しも風の這入らない暑苦しい部屋で、今夜帰京する私に届けて貰うのだ、と織田さんは名代のヒロポンを注射した腕をもみながら「夜の構図」を書いていた。
 傍らで昨日のダンサーが、せっせっと新聞小説「夜光虫」の切りぬきを作っていた。「これは秘書だよ」、織田さんはそんな事を言った。その時私は何を言ったか覚えていないが、「君はこの女と俺と関係があると思うか、そんな観察の仕方では君は作家になれんぞ」、と言われた。私は苦笑しながらよくもまあぬけぬけと、思い、織田作でも多少は照れ臭いと感じるのかなアと苦笑した。

 私達がぼんやり待っていると、織田さんは素晴らしい猥写真を、それは三十枚一組で、四百円とかで手に入れたのだそうだが、とにかく素晴らしい猥写真を見せてくれた。顔の長いダンサーは熱心に眺めて批評をした。柴田は早速、これを複製して、風雪同人にくばるのだとはりきっていたが、どうやら織田さんが死んではお流れになったらしい。このような写真を平然と眺めていられる女も確かに織田作の操り人形の一人であろう。この顔の長いダンサーは私が帰京してのち、織田作の新しき女性をめぐって小説的雰囲気を作った事を、後で柴田の手紙で知り、絶対に関係はないよ、と否定した織田さんの言葉を思い出して再び私は苦笑した。
 新聞記者、雑誌記者、特ダネの某、地廻り、文学青年、ダンサー、女給、等が黄昏れて街へ出る織田さんの寒竹のようにひょろ長い姿の周囲へ何時となく集まってくる。この一団の人々に取り巻かれて首一つ長い織田さんは、煙草をベトベトに唾でぬらし、けッけッけッと笑いながらのし歩くのである。毎夜この一団は夜半まで、京都の盛り場をおし歩く模様であった。
 私が帰る時に、「友(井上友一郞氏)によろしゅう言うて……」と、織田さんは言っていた。東京へいらっしゃいませんか、と誘うと、「煙草も売っとらんようなとこ、俺行けん」、とにべもなく首をふり、「東京の作家は生活にかじりつきすぎとる、友も家族の事など心配せんと書かな不可ん」、と呟いた。
 この意味はまだ私は井上さんに訊ねてはないのだが、織田さんのように生活も健康も全てを文学の中にぶちこんでいる作家は珍しく、何か鬼という感じがした。往年、宇野浩二氏が文学の鬼と言われていたが、織田さんなども確かに文学の鬼であった。批評、悪評はへとも思わない様子で「なあに一流の連中はちゃんと俺のこと認めとる」、とうそぶいていた。
 宇野浩二氏には師事していたらしく、私が帰京してから、宇野浩二氏からの手紙がうんとたまっとるが出版せんか、めんめんとしてお軽の手紙のように面白い手紙や、と便りを頂いたが、この話しは実現しなかった。
 秋になってから、突然、電報がきた。ウマハジマル、五○○○オクレ、オダサク である。私は驚天した。ウマ、とは勿論競馬である。私はたん息しながら、このように思いきり人生を享楽し、常識をふみにじってゆけたらどんなに愉しいであろうと思った。しかしこつこつ人生をふみ固めていく私などにはとうてい思い及ばない電報である。
 ウマハジマル、私はこの電報に織田作の面目が躍如していると思い、ふっとこの電報を受け付けた実直な郵便局員の顔を想像して笑い出した。』

 

 以下、作中にて「死ぬる」という表現が登場しますが、これは執筆者である小笠原貴雄が山口県出身であるため、方言をそのまま書いたものだと思われます。意味は、死んでしまう、または、死ぬのか、です。

 

『読売新聞にいる風雪同人の平山君が、誰か長篇を書く作家はおらんかなア、と弱っていたが、間もなく織田さんから読売へ書く、という手紙を貰った。関西の新聞には書き馴れた織田作之助も東京は初登場である、大きな期待のうちに、土曜夫人は如何にも織田作好みの派手なポーズで登場した。
 かつて京都で織田さんの周囲を取り巻いていた夜の仲間達がピチピチとはね出してきた。そうして織田さん自身も嫌いな東京へやってきたが、銀座裏の、夜の遊びには足場の好い宿屋であった。
 電報で私が訪ねていくと、織田さんはまだ寝ていた。読売文化部次長の藤沢さんが先客で、織田さんの連れの婦人は初対面の小柄な可憐な人であった。又、変った、と私は苦笑したが、凡そ一人一人極たんに変化してゆく好みは全然出鱈目であった。
「京都へきた時より大分好え男になったな……」、寝たまま織田さんはそう言い、「雑誌を始めたって?」、と起きてきた。風雪の事はまだ織田さんには話してない。
「どうして御存知ですか?」
「昨夜、友(井上氏)に聞いた……」
 そんな話しをしながら織田さんは起き上がると、丹前を羽織り、腕をもみながら、ヒロポンを注射すると、土曜夫人にかかった。続々と客がつめかけてきた。東京へきても京都や大阪と同じ生活である。午後になりますと、大勢で出掛けて夜半まで帰ってきませんの……私は外へ出ながら小柄なその婦人の嘆きに似た言葉を思い出して、あんな無理して好いんかなア、と呟いた。わアわア取りまかれながら小説を書き飛ばす、それが流行作家の生活なら、家も生活もふみにじる生き方より他に方法はないわけであった。
 その翌日、私が宿屋の二階に上がっていくと先客が二人あった。初対面の青山光二氏と、実業之日本にいる風雪同人の倉崎嘉一さんである。「ようー」と思わず倉崎さんに大きな声を出すと、「あの、昨夜、大喀血をしまして寝ておりますから……」、婦人に注意された。私は耳が遠いので声が大きい、思わず赤くなって頭をかきながら、「あんな生活をしていれば当たり前だよ」、と呟いた。婦人がさっと赤くなった。私はなんだか腹が立って倉崎さんと外へ出た。毎夜毎夜遊び歩き、そうしてそれをネタに小説を書き続ける、それはおのれの命をちぢめる事である。文学の鬼、再びそんな言葉が浮かんだ。
 東京病院の帰り、寺崎浩さんにあって、「織田作、今度は死ぬね、」と病院での直感を言うと、「織田作旅に死すか」、と寺崎さんは笑った。織田作、旅に死す……大阪で生まれ大阪を愛し、大阪を書き続けた織田作之助が嫌いな東京で死ぬる、しかしその方が、のんべんだらりと長生きしてるより小説的だな、と私は考えたりした。
 二、三日私は熱海へきた。私の方の「妖婦」も随分遅れていたが、やっと書店へ出た「世相」と「六白金星」を持ってきた。大阪の帰り、私は織田さんに貰った「青春の逆説」を読んで酷く興奮した記憶があった。赤と黒を読んで作家を志望した、と言われるだけに、青春の逆説にはジュリアンソレルの逞しさがみなぎっていた。一息に読ませる力を持っていた。しかし短篇は流石に三十五歳の年齢だけ貧しさがあり、世相と競馬が矢張り傑出していたが、土曜夫人や青春の逆説の鬼才は感じられなかった。
 私が襲い寝床に這入ると、女中が新聞を持ってきた。似もしない織田作之助の写真がのっている。死んだ……織田作旅に死すか……、と寺崎さんの言葉が浮かび、東京のあの汚い病院では、さぞかし死にたくはなかったろう、と心がかきむしられた。
 眠られぬままに、私はあれこれ考え続けていたが、ふと、東京で死んだ織田さんの心境を芭蕉の句に思い浮かべた。
 旅に病んで、夢は枯野を駈けめぐる。   (風雪22・8月号)』