ほのぼの日和

文豪に関する随筆などを現代語訳して掲載しております。

織田作之助の「杉山平一について」

 織田の「杉山平一について」という随筆は、先に杉山が「織田作之助について」という文章を発表した事を受けての内容となっております。そのため「杉山平一が語る織田作之助」を一読してから、こちらの随筆を読むことを推奨します。

 
 以下、『』内の文章は1970年に講談社より出版された「織田作之助全集8」より「杉山平一について」を引用しております。織田作之助の研究の一助になれば幸いです。


『杉山平一の詩集の表題は「夜学生」である。彼の「鉄道」という詩の冒頭に、
 自分は鉄道が好きだ若しも詩集を出すとしたら題を鉄道にしようとさえ思う。
 という言葉があるが、彼は「夜学生」の方を選んだ。この題を選ぶのに相当彼は迷ったようである。先輩の意見を徴して、「夜学生」を撤回しようとしたこともあるらしい。僕にも相談して来た。僕は「夜学生」に賛成した。なお彼は迷っていたが、結局夜学生となった。想うに当然のことであろう。夜学生という言葉ほど杉山の詩のニュアンスをよく表現しているものはないのである。
 杉山は先月僕について書き、その中で僕の商売往来を実に丹念に挙げ、たとえば僕の「立志伝」では俥屋、うどん屋(散髪屋?)丁稚、古着屋、火夫、曲芸師などを列記しているが、ここで彼は夜学生を見落している。夜学生が商売でないからであろうか、それとも彼は照れてわざと見落としたのだろうか。いずれにしても僕にとってはこの見落しは興味深い。僕が「立志伝」でもっとも愛着を感じているのは夜学生のくだりであり、また杉山がその詩集でもっとも愛情を傾けて歌っているのは「夜学生」と題する詩篇である。そしてこの両者に描かれた夜学生のなんと似ていることか。
 夜陰ふかい校舎にひゞく
 師のいない教室のさんざめき』
 あゝ 元気な夜学の少年たちよ
 昼間の働きにどんなにか疲れたろうに
 ひたすら勉学にすゝむ
 その夜更のラッシュアワーのなんと力強いことだ
 きみ達より何倍も楽な仕事をしていながら
 夜になると酒をくらってほっつき歩く
 この僕のごときものを嘲笑え
 小さな方を並べて帰る夜道はこんなに暗いのに
 その声音のなんと明るいことだろう
 あゝ僕は信ずる
 きみ達の希望こそかなえらるべきだ
 覚えたばかりの英語読本を
 声たからかに暗誦せよ
 スプリング ハズ カム
 ウインタア イズ オオバア(夜学生)
 「やがて夜学に通いだした。昼間五会で散々疲れていた上だから夜更けて夜学から帰る暗い途はくたくたになってとぼとぼ歩いた。けれどもさすがに学校だけのことはあった。ワット イズ ジス? ジス イズ ア ブック。すらすら発音できるではないか。講義録とはだいぶ違う。アイ アム ア ミドルスクールボーイ。私は一人の中学生であると胸を張ってふと空を仰ぐと星がいっぱいだった。メニイ スターズ ブライト オン ザ スカイ。(中略)恵美須町の交叉点まで来ると、道はぱっと明るくなる。通天閣の広告燈が点滅して、青になり赤にかわるのを、夜学生たちはほっと見あげて胸に灯をともすのだった。夜学生たちの眼は生々と輝き、自然足は明るい新世界の方へ寄り道して行くのだった。(立志伝より)
この二つの詩と文章を比較してみ給え。ひとびはその余りに似ていることに驚くだろう。なぜそうなったか。二人の資質が余りに似ているからか。二人の世代に共通した感受性の故だろうか。この僕たちの世代については、杉山が先月書いている。
 「自分たちいま漸く廿代を終えた年頃の世代には、一つのじだいが 退潮しはじめ満州事変によって次の時代が来ようとしていた転換混頓のなかに青春を過したのであった。その多くはいま戦野にあるけれども、そして彼等はよく知っている筈だが、極めて無理想の而もその無理想を標榜するデカダンスでさえなかったようなぐうたらな思想的に廃頽の時代にあったと思う。理想や空想をもたず何事も実際的に考えた。夢なんてもたなかった。従ってこの時代に青春を過したものには、非常に歪んだ形で、地につかぬ恰好で身体をねじまげてでも、なんとか思想的であろうと難解な表明さをとるものと、反対に全然現実的な具体的な表明をとって、抽象される思想を軽蔑してしまって信じ得ないものとの二つの型がある」

 そして杉山は「織田はこの後者の型にぞくする典型であり、思想にかわるものとして具体をぶちまけて行く」と続けているが、杉山もまた前者の型にぞくするものではない。杉山が僕の作品の数字や地理をあれほど丹念に指摘するというのもまた、彼の具体への傾倒を示しているものなのである。僕が数字や地名や商売をばらまくように、彼は巧妙な比喩をばらまく。こういう彼の詩がある。
  その時分、僕の思想は風邪をひいていたのだ
  それで、抑えても抑えてもあんな無意味な言葉が咳のように次々にとんで出たのだ。
 これは既に彼の「無意味な言葉」への決別、具体への出発を語るものだ。従ってはやここに比喩が用いられている。彼の比喩への傾倒、具体への異常な関心は、たとえば彼の小野十三郎論にそれが見られる。あたかも僕が杉山の中に僕を見ているように、杉山は小野十三郎の中に彼を見ている。杉山は小野十三郎の詩の一行をその具体の示し方の故に、比喩の使い方の故に愛し記憶するのである。日常彼の口から誰々の詩の一行だけを僕はよくきかされて、苦笑したものだ。その時こそ彼は生々しているのである。
 さて、「夜学生」へ戻ろう。なぜ杉山は夜学生を見て、「夜になると酒をくらってほっつき歩くこの僕のごときものを嘲笑え」と言ったか。僕は杉山が「夜になると酒をくらってほっつき歩」いた姿を見たことはない。杉山は煙草をのむ中学生よりもその生活は健全である。しかし「この僕のごときものを嘲笑え」という気持は誇張ではない。夜学生という黙々とした感覚の前に、「黒い俥がうなだれいた」(駅前広場)的な感覚の前に、杉山の首はうなだれるのである。ここには世代の重荷がある。理想をもつものは昂然としている。「私」の愚痴に夢中になっている者は、夜学生なぞ眼にはいるまい。見てくれのイデオロギーを振りまわしている者は、イデオロギーの名誉にかけて「嘲笑え」なぞと言わない。「会を持ちましょう」である。郵便切手みたいなイデオロギーを貼って、しばしば郵税不足になるていの饒舌は、この世代には無縁である。ただもうひたすらにうなだれる。体系を持たぬものの、憂愁の感覚である。
 しかし、杉山はこの憂愁の感覚から、希望をうたった。ひとはここに明るさを見た。甘さを見た。彼の工場労務者をうたった詩が賞讃される所以である。が、その明るさ、甘さの発想は、この憂愁の感覚からきていることを、ひとはしばらく忘れている。
 されば、杉山の詩の明るさ、甘さは、中学生や高等学生のそれではない。高校生が永遠の女性に憧れるようなそんな甘さではない。令女界、新女苑、婦人公論ごのみではない。彼の詩は日向葵のように午前の太陽に憧れるのではない。彼は夜の光をうたう。夜汽車の窓、夜学校の教室、プラネタリュウム的世界──即ち夜学生の世界だ。夜をほっつき歩いた世代の眼に哀しく映じた光ばかりだ。セザール・フランクのピアノ五重奏のピアノの音が発する光は、沼の底に光る夜光虫の光であった。
 杉山は表現を失った僕らの世代の感覚をうたって成功した最初の詩人である。僕らの世代の文学はほかにもあり方があろう。がともあれ詩においては、杉山はその一つの方法を、しかも完成した姿で示した最初の詩人であろう。余程すぐれた資質がなくてはかなわぬところである。
 杉山のエッセイことにその映画批評、文学批評は前代の詩人の持たなかった新しい感覚をもっていて、しかも粋である。関西にはすぐれたエッセイを書くひとがいない。じめじめした理屈を言うが、もう梅雨が上ったのに、いい加減にして置いてもらいたいという向が多い。だから、杉山のエッセイは光るのである。他の者の文章の感覚が一昔古いのだ。
 杉山はこの頃比喩を気にしだした。が、しばらく気にすることもあるまいと思う。もっとも気にするということは、彼を前進させるものだ。一応の完成を示した者には前進あるばかりだ。
 彼の詩は塚田八段の詰将棋のようにあまりに巧妙であるから、才能乏しい詩人は彼を職人というであろうが、まこと彼は大阪のうんだ詩人三好達治と共に職人であるから、神に仕える古代人のようであり、しかもその感覚の新しさは近代以上である。』